歴史上の実力者

本多正信 ~水魚の交わりと言われた徳川家康の参謀~

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徳川家康の三大好物と言われる「佐渡殿、鷹殿、お六殿」の佐渡殿とは、江戸幕府の老中で佐渡守の本多正信(ほんだまさのぶ)のこと。愛してやまない鷹狩や側室のお六の方(おろくのかた)に匹敵するほど、徳川家康にとって大切な存在「本多正信」とは?

徳川家康の盟友、本多正信

寛政年間に江戸幕府が諸大名や旗本の系譜をまとめた「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、「両御所に奉仕して、乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間、相遭こと水魚のごとし」(徳川家康徳川秀忠の仲を取り持ち、有事には軍略家として、平時には統治者として活躍し、君臣の間を魚のように行き来し、人間関係を風通しの良いものにしている)と評された本多正信(ほんだまさのぶ)。

両御所とは、徳川家康と、徳川家康の三男である徳川秀忠(とくがわひでただ)のこと。文治派の家臣として文武両面から2代将軍を支え、その関係は水と魚のように切り離せない関係だったと言います。

  • 徳川家康

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  • 本多正信

    本多正信

一方、酒井忠次(さかいただつぐ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、井伊直政(いいなおまさ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)ら、徳川四天王をはじめとする武断派の家臣からは、嫉妬の対象になることも多かったようです。同じ姓の本多忠勝は「佐渡の腰抜け」と呼び、同族と思われることを嫌がったとか。

命がけで徳川家を守ってきた者達にとっては、本多正信が謀略やそろばん勘定で、主君の信任を得ているように見えて面白くなかったのでしょう。

徳川家康の元家臣で、本多正信の親戚筋にあたる文人の石川丈山(いしかわじょうざん)によると、本多正信は徳川家康と意見が合わないときは、決まって居眠りをしたのだとか。逆に賛成のときは大いに賞賛し、正面から意見を戦わせることはなかったそうです。

江戸時代中期の朱子学者である新井白石(あらいはくせき)は、諸大名の系譜書「藩翰譜」(はんかんふ)の中で、2人の関係を「朋友の如く」と表現しています。主従を超えた友情のようなもので結ばれていた2人には、意思疎通に多くの言葉は必要なかったようです。

一度は袂を分かった徳川家康と本多正信

鷹匠

鷹匠

本多正信は1538年(天文7年)生まれ。1542年(天文11年)生まれの松平元康、のちの徳川家康とは4歳違いです。祖父の代から松平家に仕えていたようで、はじめは鷹匠として徳川家康に仕えました。

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」では、徳川家康のもとで戦い、負傷したため生涯足が不自由だったと言います。

「盟友関係」と言われた徳川家康と本多正信ですが、一度、袂を分かったこともありました。1563年(永禄6年)に「三河一向一揆」が勃発したのです。

徳川家康が三河の一向宗に対する締め付けを強化したことに端を発する三河一向一揆は、「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)と「神君伊賀越え」に並ぶ、徳川家康の三大危機のひとつ。徳川家康への忠誠心が強く結束が固いと言われていた「三河家臣団」の多くが一揆側に付いたのです。敬虔な一向宗信者だった本多正信もそのひとりでした。

そののち、徳川家康が三河一向一揆をなんとか鎮圧すると、本多正信は三河を追放され、妻子を残して諸国を流浪しました。大和国の松永久秀(まつながひさひで)に仕えていたとも言われていますが定かではありません。

流浪の期間は7年とも10年とも伝わります。1570年(元亀元年)、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政(あざいながまさ)・朝倉景健(あさくらかげたけ)連合軍との「姉川の戦い」に参戦しているため、その頃には徳川家康の家臣に戻っていたようです。

徳川家康が帰参を許した理由も定かではありませんが、鷹狩を愛した徳川家康のこと、本多正信とは鷹匠であった時代から友情を育んでいたのかもしれません。

徳川十六神将のひとり、大久保忠世(おおくぼただよ)の仲介で帰参した本多正信は、裏切りへのうしろめたさや許されたことへの感謝もあったのか、以前にもまして徳川家康のために尽くすようになったと言います。

徳川政権樹立の陰の立役者、本多正信

一度は徳川家康を裏切った本多正信が再び徳川家康からの信頼を取り戻し、本領を発揮し始めるのは、本能寺の変で織田信長が横死し、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を経て、徳川家康が旧武田領を手に入れた頃からと言われています。

本多正信は武田家の遺臣に呼びかけ、「領地を与えるから徳川家に仕えるように」と誘いました。これにより、甲斐・信濃(現在の山梨県長野県)の武田家旧領は非常に統治しやすくなったようです。

1586年(天正14年)、本多正信は朝廷より、従五位下・佐渡守に任じられます。これが「佐渡殿」という本多正信の通称になりました。

豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた1591年(天正19年)、武力よりも知力が重宝される時代が到来しました。

豊臣秀吉に関東への移封(いふう:領地換え)を命じられた徳川家康は、本田正信を関東総奉行に据え、江戸の街づくりと管理・運営を任せました。このとき本多正信は相模国玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられ、大名となっています。

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没し、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こります。関ヶ原の戦いでは、本多正信は徳川秀忠に従い、真田昌幸(さなだまさゆき)・真田信繁(さなだのぶしげ)親子が守る上田城の戦いに参加しました。

本田正信は、徳川秀忠に「上田城を落とすより徳川家康本隊との合流を優先すべきである」と進言したとされていますが、徳川秀忠軍は上田城で足止めに遭い、関ヶ原の決戦場に、大遅参してしまいます。この件があったからか、本多正信は徳川家康の後継者を選ぶ際、結城秀康(ゆうきひでやす:徳川家康の次男)を支持したと言います。

関ヶ原の戦いののち、本多正信は徳川政権樹立のために暗躍したと言われています。徳川家康の征夷大将軍就任に際しては折衝役を務めました。

1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれると本多正信は直接幕政にかかわるようになります。そして徳川家康が隠居し、大御所になったあとも、2代将軍・徳川秀忠の政治を支えていきます。1607年(慶長12年)には徳川秀忠付きの年寄り(老中)になりました。

1613年(慶長18年)、高齢のため、暇(いとま)を出されましたが、1614 年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)にも、本多正信が絡んでいるという説もあります。

方広寺の釣鐘

方広寺の釣鐘

豊臣秀吉の子、豊臣秀頼方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」(こっかあんこう)と「君臣豊楽」(くんしんほうらく)という文字が、徳川家を呪詛し豊臣家の繁栄を祈願している(「家」と「康」の文字は離れているが「豊」と「臣」の文字は隣接している。これは徳川家の弱体を望み豊臣家の繁栄を願っている。※諸説あり)と言いがかりを付けたこの事件は、「大坂冬の陣」に繋がり、豊臣家を滅亡せしめました。

本田正信の最期は1616年(元和2年)のこと。4月17日に徳川家康が死去すると、本多正信は家督を嫡男の本多正純(ほんだまさずみ)に譲り、隠居します。一切の政務から離れ、徳川家康のあとを追うように、2ヵ月後の6月7日に亡くなりました。享年79歳でした。

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