歴史上の実力者

片倉小十郎景綱 ~伊達政宗の右目となった男~

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独眼竜・伊達政宗のために一生をささげた男、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)。名参謀でありながら、ときには師のように、ときには父や兄のように、公私から伊達政宗を支え、豊臣秀吉や徳川家康も欲しがった人物です。

片倉小十郎景綱が伊達政宗の右目になるまで

片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)は1557年(弘治3年)に、かつて米沢にあった八幡神社の神職、片倉景重(かたくらかげしげ)の次男として生まれました。

幼少の頃に両親を亡くし、20歳ほど歳の離れた姉・片倉喜多(かたくらきた)に育てられます。片倉喜多は文武両道に優れ、片倉景綱は彼女によって武芸を仕込まれました。

やがて片倉喜多の才媛ぶりは伊達家にも届いたようで、1567年(永禄10年)に伊達政宗が生まれると、片倉喜多は乳母として伊達家に入ります。

そして片倉喜多の口添えがあったのか、片倉景綱も伊達政宗の父、伊達輝宗(だててるむね)の小姓として仕えるようになり、1575年(天正3年)に8歳になった伊達政宗の教育係となりました。

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伊達政宗の右目として、一生をささげた片倉景綱

何の後ろ盾もない自分達を拾ってくれた伊達家には、特別な思いがあったのでしょう。片倉景綱は伊達政宗のために一生をささげ、軍事はもちろん、外交、内政、生活…あらゆる面で伊達政宗をサポートしていきます。

片倉景綱は伊達政宗の専属ナース!?

伊達政宗と片倉景綱の絆の深さを示す有名なエピソードに伊達政宗の目つぶしがあります。

伊達政宗はまだ梵天丸(ぼんてんまる)と呼ばれていた5歳の頃に疱瘡(天然痘)にかかり、失明して眼球が飛び出していました。これを気にして、幼少期はかなり内気な子どもだったようです。そこで片倉景綱は、戦になったときに敵に掴まれては大変であるからと伊達政宗を説得し、小刀で眼球をえぐり取ってしまったのです。

伊達政宗は恐ろしさに気を失いかけましたが、おかげで性格は激変。活発な少年になったと言います。もしもこのとき、伊達政宗の命に別状があれば、片倉景綱は自害するつもりだったようです。

また、伊達政宗の右わき腹にできた出来物を治療したエピソードもあります。

なかなか治らず夜も眠れない伊達政宗は、「自分で切り取りたいが、病気を苦に切腹したと思われたらたまらない」と片倉景綱に相談。すると片倉景綱は、鉄の棒を熱して自分の太腿に刺し、命に別状はないことを確認してから、伊達政宗のお腹に刺して出来物を焼き取ったと言います。

おかげで伊達政宗の出来物は50日ほどで完治しましたが、片倉景綱の足が治るまでには70日かかり、後遺症「引き攣れ」(ひきつれ)が残ってしまいました。

伊達政宗のためなら家族も殺す

忠義心の厚い片倉景綱。1585年(天正13年)に嫡男の片倉重長(かたくらしげなが)が生まれた際は、主君の伊達政宗よりも先に跡取りを得ることはできないと、実の子を殺害しようとします。

これを知った伊達政宗は大慌てで「どうか私に免じて助けてやってくれ」と手紙を送ったと言います。

伊達政宗に命を救われた片倉重長は成長して、2代目片倉小十郎重長となり、伊達政宗以下、伊達忠宗(だてただむね)、伊達綱宗(だてつなむね)の伊達氏3代に仕え、片倉家の子孫達は明治維新まで代々、仙台藩と伊達家のために尽くしました。

なお、このときの書状は現存しています。伊達政宗はかなりの筆まめであったようですが、片倉景綱は伊達政宗から送られた手紙やメモ書きをすべて大切に保管していました。

こんなところからも片倉景綱の主君に対する気持ちや性格をうかがい知ることができます。

伊達政宗を救うためなら自身の命も惜しまず

1585年(天正13年)に、佐竹家・蘆名家ら南奥の諸大名連合と伊達家が対立した「人取橋の戦い」(ひととりばしのたたかい)が起きます。

連合軍の兵数35,000に対して伊達軍は7,800と、伊達家にとって非常に厳しい戦いでした。この戦いで深追いしすぎた伊達政宗軍は、敵に取り囲まれて絶体絶命となってしまいます。

すると片倉景綱が「やあやあ殊勝なり、政宗ここに後見致す」と、自分が伊達政宗であると進み出て身代わりとなり、敵を引きつけます。そこに伊達家の重鎮、鬼庭良直(おににわよしなお)が救援に駆けつけ、窮地を救われた2人は無事生環しました。

しかしこの戦いで、撤退の殿(しんがり)を務めた鬼庭良直は討死、壮絶な最期を遂げています。

豊臣秀吉の怒りをしずめた死装束作戦

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原征伐を開始。伊達政宗にも参陣するように要請します。

しかし、小田原の後北条家と伊達家はもともと同盟関係にあり、豊臣秀吉に対して徹底抗戦を主張する伊達成実(だてしげざね)ら重臣の反対があったため、伊達政宗は対応に苦慮していました。

片倉景綱は時流を読み、豊臣秀吉に味方するよう進言。「夏の蝿のようなもので、2度、3度は退治できても、蝿は減らない。関白・豊臣秀吉の勢いは、もはや止めることができない。それが分かっていて、今、関白・豊臣秀吉に敵対しても生き残る術はない。」と説得したと言われています。伊達政宗はその進言に従い、急いで小田原に駆け付けますが、大幅な遅参となってしまいました。

そのため、豊臣秀吉は怒り心頭で、伊達政宗に会ってくれません。そこで片倉景綱は、伊達政宗に小田原に来ていた千利休から茶の湯を習うように提案します。片倉景綱は豊臣秀吉が茶を嗜む風流人であり、千利休が豊臣秀吉のブレーンであることを知っていたのでしょう。その読みは見事あたって、伊達政宗に興味を持った豊臣秀吉は謁見を許します。

豊臣秀吉の前に現れた伊達政宗は死装束でした。派手好みの豊臣秀吉は、反省の意を表すそのユニークで大胆な演出をたいそう気に入り、機嫌を直したそうです。

忠義を貫き、豊臣秀吉のスカウトを断る

伊達家の外交交渉を担っていた片倉景綱は、豊臣秀吉に謁見する機会が幾度かあり、片倉景綱の働きを高く評価した豊臣秀吉は、奥州仕置き(おうしゅうしおき:1590年[天正18年]に豊臣秀吉が行なった奥羽地方に対する領土仕置)の際、福島三春5万石の大名に取り立て、直臣に迎えたいとスカウトします。しかし片倉景綱は伊達政宗への忠義を貫きこれを断りました。

また1601年(慶長6年)には、徳川家康から伊達家の江戸屋敷とは別に片倉家単独の屋敷を贈られましたが、伊達政宗への遠慮から、これを返上しています。

江戸幕府が一国一城令を施行したにもかかわらず、片倉家が白石城の城主であり続けることができたのは、こうした経緯があってのことのようです。

ちなみに片倉景綱を育てた姉の片倉喜多も晩年は白石城に移り住みました。

伊達政宗からのプレゼント

片倉景綱は1614年(慶長19年)から病に伏せるようになります。しかし病床からも伊達政宗にアドバイスを送り続けていたようです。

大坂冬の陣には伊達政宗に同行することができず、嫡男の片倉重長が代わりに参陣しましたが、今回の大坂冬の陣では決着が付かないと悟った片倉景綱は、次の陣(大坂夏の陣)に備えるようにと言い残して、1615年(元和元年)にこの世を去りました。

このとき片倉景綱の人徳を慕った6名の家臣が殉死しています。伊達政宗は片倉景綱の葬儀に愛馬を贈って棺を引かせ、これまでの労をねぎらったと言います。

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