歴史上の実力者

滝川一益 ~織田四天王のひとり~

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豊臣秀吉や明智光秀など個性の強い面々が揃う織田信長の家臣のなかにあって、あまり目立たない滝川一益(たきがわいちます・かずます)ですが、実は織田四天王のひとりに数えられる名将です。一時期は「進むも退くも滝川」とも称され、豊臣秀吉を凌ぐ勢いがあったとか。その人生の浮き沈みを見ていきましょう。

織田信長との出会い

滝川一益(たきがわいちます・かずます)は柴田勝家丹羽長秀明智光秀らとともに織田四天王に数えられていますが、その前半生はよく分かっていません。

1525年(大永5年)に忍者の里、近江国(現在の滋賀県)甲賀に生まれたことから、忍者だったのではないかとも言われていますが、それを裏付ける証拠は見付かっていません。

また伊勢の国人衆との結び付きが強く、伊勢攻略で活躍していることから、伊勢の出身であるという説もあります。

織田信長の家臣団では、豊臣秀吉や明智光秀も前半生が不明ですが、このような家臣が多かったことから、血統よりも能力重視していた織田信長の方針が窺えます。

  • 織田信長

    織田信長

  • 滝川一益

    滝川一益

「寛永諸家系図伝」(かんえいしょかけいずでん)によると、滝川家はもともとそれなりに由緒ある家だったようですが、若いころの滝川一益は博打好きなトラブルメーカーで、一族を追い出されて諸国を流浪。当時最先端の武器、鉄砲の産地だったに留まり、射撃の腕を磨いたようです。

そして1558年(永禄元年)頃、親戚(滝川恒利[たきがわつねとし]が滝川家から池田家に婿入りした)である、織田家の重臣・池田恒興(いけだつねおき)の伝手(つて)で、織田信長の面前で百発百中の鉄砲の腕を披露。その腕前を見込まれて、織田信長に召し抱えられました。

明智光秀にも同じような話が残っており、この時代は鉄砲の扱いに長けた人材はそれだけで非常に重用されたようです。

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織田信長の天下布武を陰で支えた功労者

織田信長の家臣となった滝川一益は、数々の戦で織田軍を勝利に導き、織田信長を天下人に押し上げていきます。

そして織田信長の信頼を勝ち得た滝川一益は異例の出世をとげていきます。

アドバイザーとしての滝川一益

織田信長の家臣となって最初の武功は伊勢攻略です。

伊勢制圧のためには、尾張と美濃と国境を接する北伊勢の攻略が不可欠であると織田信長に進言します。この意見は採用され滝川一益は織田信長に北伊勢の抑えを任されました。

滝川一益は、北伊勢で織田信長に敵対していた服部友貞(はっとりともさだ)に謀略を仕掛けます。乱破(らっぱ:忍者・諜報員)を使って「織田軍の侵略は蟹江に城を築かなければ防げない」と噂を流し、服部友貞に尾張と伊勢の国境に蟹江城を築城させました。

そして服部友貞を追い出して、まんまと城を乗っ取り、北伊勢の攻略拠点を確保しました。この功績が認められて、滝川一益はそのまま尾張国蟹江城主となります。

この逸話などが滝川一益が忍者であったかもしれないと言われる所以です。

また、1562年(永禄5年)に織田信長と徳川家康の間で結ばれた「清洲同盟」の締結にあたっては、滝川一益は交渉役を務めています。この時期、織田信長は国境を接する三河の徳川家康とも抗争が勃発していましたが、この軍事同盟の成立によって東からの脅威がなくなった織田軍の美濃への侵攻は、加速度的に進捗しました。

こうして滝川一益は西の伊勢、東の三河の後顧憂いを断ち、織田信長の勢力拡大に大きく貢献したのです。

守ってよし、攻めてよしの戦上手

1567年(永禄10年)、美濃を平定した織田信長は本格的に伊勢への侵攻を開始します。このとき、滝川一益は先鋒を任されて活躍しました。織田信長は大軍を以て北伊勢に侵攻、神戸氏や長野氏を破り、北伊勢全土を手に入れます。

南伊勢は守護大名・北畠具教(きたばたけとものり)が支配していました。ここでも滝川一益は北畠氏に調略を仕掛け、北畠具教の重臣であり、実弟の木造具政(こづくりともまさ)の寝返りに成功しています。伊勢の攻略が完了すると滝川一益は伊勢の防衛拠点であるいくつもの城の守備を任されました。

1570年(元亀元年)になると、石山本願寺と織田信長が対立するようになり、伊勢長島で一向一揆が起こります。

この一向一揆によって滝川一益とともに尾張・伊勢の守備にあたっていた織田信長の実弟・織田信興(おだのぶおき)は討ち取られてしまいましたが、滝川一益は桑名城に籠城し、これをしのいでいます。これ以後、織田信長は一向一揆と対峙しつつ、「信長包囲網」を敷く各地の大名と戦っていくことになります。

織田信長は石山本願寺、浅井長政朝倉義景武田信玄らと数年にわたる過酷な戦いを強いられました。

しかし1573年(天正元年)、武田信玄が陣中で病没すると、戦況は一変。信長包囲網が弱体化し、織田信長は反撃を開始します。朝倉義景、浅井長政らを次々と打ち破り、主だった敵は一掃されました。

1574年(天正2年)、織田信長は伊勢長島の一向一揆殲滅に乗り出します。この殲滅作戦に滝川一益は「海賊大名」の異名を持つ九鬼嘉隆(くきよしたか)と組んで参加、伊勢長島を海側から包囲して毛利水軍が石山本願寺に兵糧や武器を搬入するのを防ぎました。この戦いのあと、織田信長は滝川一益に北伊勢を領地として与え、大名としています。

その後も数々の戦で活躍。守ってよし、攻めてよしの戦上手だったことから、「進むも滝川、退くも滝川」と称賛されました。

織田信長の宿敵、武田氏を討伐

晩年の滝川一益は、武田信玄亡きあとの武田氏討伐を指揮。天正10年(1582年)に織田信長の嫡男、織田信忠(おだのぶただ)を補佐して甲斐に侵攻しました。これにより武田勝頼は天目山に追い詰められ自害しました。

戦国大名、武田氏討伐の立役者となった滝川一益は、上野国1国と信濃の2郡を与えられ、関東を支配する「関東御取次役」(関東を守護する役割を担う)という役職を賜ります。この武田氏討伐の論功行賞の際、滝川一益は領土よりも「珠光小茄子」(じゅこうこなす)という名の茶器を所望しましたが、織田信長は上記の領土とともに、名馬「海老鹿毛」(えびかげ)と短刀を下賜。

滝川一益は茶人の三国一太郎五郎に宛てた手紙で「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」(こんな遠い国に置かれることになって、茶の湯もできない)とこぼしています。

この時、滝川一益はすでに57歳。そろそろ前線を引退してゆっくり茶の湯でも楽しみたかったようですが、織田信長はそうはさせてくれませんでした。

関東の統治

滝川一益は上野国の厩橋城(まばやしじょう)を拠点として、関東の大名家に織田家に従属するよう書状を送りました。北条氏、佐竹氏、里見氏など関東の大名はもちろん、伊達氏や蘆名氏など東北の大名とも連絡を取り、影響力を広げていきました。時には諸大名を厩橋城に招待して能楽会を主催して交流を深めていったようです。

順調に織田信長の期待に応えていた滝川一益でしたが、織田信長にとっても、滝川一益にとっても重大な事件が起こってしまいます。

運命が変わった本能寺の変

本能寺の変

本能寺の変

これまで、織田家における滝川一益の存在感は豊臣秀吉を凌ぐものでしたが、1582年(天正10年)6月2日に起きた「本能寺の変」で運命は一変します。

関東にいた滝川一益のもとに織田信長の訃報が届いたのは本能寺の変から5日後の6月7日のこと。すぐに明智光秀討伐に向かいたい滝川一益でしたが、この混乱に乗じて北条氏が上野国に攻め込んできました。

この「神流川の戦い」(かんながわのたたかい)は6月16日から6月19日まで続き、北条軍が滝川軍を圧倒、滝川一益は敗走します。

7月1日、滝川一益は命からがら伊勢に帰還しますが、明智光秀はすでに豊臣秀吉に討たれ、織田信長の後継を決める「清洲会議」は6月27日に終わっていました。織田四天王のひとりであるにもかかわらず会議に出席できず、神流川の戦いに敗れたこともあって、これ以後、織田家中での滝川一益の力は急速に落ちていきました。

その一方で力を付けたのが豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は織田信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)をさしおいて、まだ幼い織田信長の孫の三法師を織田家の当主に据えて、政治をほしいままにしました。これに反発する柴田勝家と豊臣秀吉の間で起きた「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で滝川一益は、敗者となる柴田勝家に味方。所領をすべて没収され、越前に蟄居しました。

その後、1584年(天正12年)に豊臣秀吉対織田信雄(おだのぶかつ:織田信長の次男)・徳川家康の戦い「小牧・長久手の戦い」が勃発。滝川一益は豊臣秀吉に請われて参戦し、旧縁の地、蟹江城を奪取し籠城しますが、徳川軍の猛攻によりあえなく敗退し、開城しました。

しかしながら、豊臣秀吉軍に参加した褒美として自身に3,000石、次男の滝川一時(たきがわかずとき)に12,000石が与えられ、大名となりました。しかし、敗戦の責任を取るため、長男の滝川一忠(たきがわかずただ)が廃嫡の憂き目に遭い追放処分を受けています。

こうして再び表舞台に戻ることになった滝川一益ですが、その後は以前の経験を買われ豊臣秀吉の元で東北の大名との外交を担当することになります。これにより滝川一益は多少なりとも武士としてのプライドを取り戻しました。

滝川一益の死後

滝川一益は1586年(天正14年)に61歳で亡くなりました。滝川一時(たきがわかずとき)が家督を継ぎましたが、のちに徳川家康から豊臣秀吉に譲渡の申し入れがあり、徳川家の家臣となっています。1593年(文禄2年)には徳川家康に2,000石を加増され、合計14,000石の大名になりました。

関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下統一を果たしたあとも滝川家が存続したことから、晩年の滝川一益の戦いも無駄ではなかったのかもしれません。

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