歴史上の実力者

柴田勝家 ~織田家随一の猛将~

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織田信秀、織田信行、織田信長と織田家3代に仕え、家臣随一の猛将と呼ばれた柴田勝家。
筋金入りのナンバー2のようにも見えますが、その立場は織田家のお家事情に翻弄され、盤石なものではありませんでした。

織田信長を抹殺しようとした柴田勝家

諸説ありますが、柴田勝家(しばたかついえ)が生まれたのは1522年(大永2年)頃。柴田勝義(しばたかつよし)の子と言われていますが確実な資料は残っていません。のちに主君となる織田信長は1534年(天文3年)の生まれなので、ひと回りほど柴田勝家の方が年上ということになります。

若い頃から織田信長の父、織田信秀(おだのぶひで)に仕え、やがて織田家の重臣として欠かせない存在になっていきました。

そして1551年(天文20年)、織田信秀が急死すると、その家督を巡って織田信長とその弟の織田信行(おだのぶゆき)が対立します。

一度は嫡男の織田信長が家督を継ぎましたが、当時の織田信長は「大うつけ」と呼ばれ、奇行が目立っていました。

その最たるものは父親の葬儀でのこと。茶筅髷(ちゃせんまげ:後頭部に髪を束ねて元結[もとゆい]で留め、その毛先を切った髷形[まげがた]。その形が茶筅[ちゃせん]の形に似ているため、こう呼ばれた。)に派手な太刀をぶら下げて現れると、抹香(まっこう:焼香に用いられる粉末の香料)をわしづかみして仏前に投げ付けたのです。

この奇行には織田信長なりの理由があったようですが、のちに天下人になるなど想像もしていない家臣達はその行ないを見て不安になりました。

1556年(弘治2年)4月、織田信長の舅で支援者であった斎藤道三(さいとうどうさん)が、嫡男であった斎藤義龍(さいとうよしたつ)との戦いに敗れて討ち取られると、織田信行の付家老(つけがろう)だった柴田勝家は、林秀貞(はやしひでさだ)・林通具(はやしみちとも)と共謀。織田信長に織田家は任せられないと、同年挙兵しました。

そして「稲生の戦い」(いのうのたたかい)へと突入していきます。織田信長の蔵入地(直轄地)である篠木三郷を奪うために進軍した柴田勝家が率いる織田信行軍は1,700、それに対する織田信長軍は700でした。

稲生の戦いの顛末

戦上手で知られる柴田勝家の活躍と兵力差により、当初は圧倒的に織田信行軍が有利であり、織田信長方の主だった家臣が討たれました。

しかし柴田勝家の軍が、織田信長の本陣に迫ると織田信長は、大声で柴田勝家軍の兵達を一喝。すると身内同士の争いだったこともあり、柴田勝家軍の兵達が逃げだしてしまい、形勢は逆転。織田信長軍が逆転勝利しました。

織田信長はかなり声が大きかったようで、このことはルイス・フロイスが記した「日本史」にも記載されています。

敗走した織田信行軍は末盛城(すえもりじょう)、那古野城(なごやじょう)に籠城しましたが、織田信長は両城下を焼き払ってしまいます。

敗者となった織田信行ですが、織田信長とは同じ血を分けた兄弟。母である土田御前(どたごぜん)の仲裁で織田信行は助命され、清洲城(きよすじょう)で織田信長と対面し赦免されました。柴田勝家も織田信長に忠誠を誓うことで赦しを得ています。

しかし、懲りない織田信行は翌年の1557年(弘治3年)に津々木久蔵人(つづきくらんど)らと岩倉城(いわくらじょう)の織田信安(おだのぶやす)に通じるなどして、再び謀反を企みます。柴田勝家は、これを織田信長に密告。織田信行は織田信長の策略により、清洲城の北櫓・天主次の間で河尻秀隆(かわじりひでたか)らに暗殺されました。

以後、柴田勝家は織田信長の家臣として身を賭して働くようになりました。

織田信長のナンバー2としての柴田勝家

織田信長に仕えるようになった柴田勝家ですが、一度は敵対した人物だけに、さすがにすぐに信頼されることはなかったようで、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」などで、重要な役割を担うことはありませんでした。

目立った武功を挙げるようになったのは1568年(永禄11年)に三好三人衆(三好長逸[みよしながやす]、三好政康[みよしまさやす]、岩成友通[いわなりともみち])と戦った「勝龍寺城の戦い」(しょうりゅうじじょうのたたかい)あたりから。

以降、浅井長政(あざいながまさ)・朝倉景健(あさくらかげたけ)との「姉川の戦い」や「長島一向一揆」の鎮圧、武田勝頼(たけだかつより)との「長篠の戦い」などで活躍し、その武勇から「鬼の権六」や「鬼柴田」と呼ばれ、内外に恐れられる存在に成りました。

そして柴田勝家は、1度は上杉謙信(うえすぎけんしん)に大敗を喫するものの、上杉謙信亡きあとの1580年(天正8年)には上杉領の能登・加賀を攻略することに成功。

ちょうどこの頃、織田家の筆頭家老だった佐久間信盛(さくまのぶもり)が織田信長の怒りを買って追放されたこともあり、柴田勝家がその座におさまりました。名実ともに織田信長のナンバー2にのし上がったのです。

そのあとも柴田勝家は能登・加賀に加え、越中を支配下に入れ、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に迫ります。

「本能寺の変」で変わる柴田勝家の運命

本能寺の変

本能寺の変

織田信長のナンバー2として不動の地位を得たかに見えた柴田勝家でしたが、それも束の間。1582年(天正10年)6月2日、上杉景勝の魚津城(うおづじょう)・松倉城(まつくらじょう)を包囲中に、明智光秀による本能寺の変が起きてしまったのです。

本能寺の変の翌日6月3日には、魚津城を陥落させたものの、上杉景勝の反撃に遭い、すぐに京都に向かうことができませんでした。その間に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって明智光秀は討伐されます。

織田信長の死は織田家重臣達のパワーバランスにも影響を与えました。

急速に力を付けたのは織田信長のかたき、明智光秀を討った羽柴秀吉。織田家の継嗣問題を話し合う清洲会議では、柴田勝家は織田信長の三男の織田信孝を推したのに対して、羽柴秀吉は織田信長の孫の三法師(のちの織田秀信)を擁立。

最終的に羽柴秀吉の意見が採用されたことにより、以後、激しく柴田勝家と羽柴秀吉は対立していくことになります。

ナンバー1の妹と結婚した柴田勝家

お市

お市

清須会議では柴田勝家にとって、もうひとつの重要事項も決定されました。それは織田信長の妹の「お市の方」(おいちのかた)と柴田勝家の結婚です。羽柴秀吉の仲介を受けて柴田勝家は、お市の方を正室に迎えました。お市の方の娘である、茶々(ちゃちゃ)、お江(おごう)、お初(おはつ)も柴田家に迎えられています。

お市の方は1547年(天文16年)年頃の生まれ。20歳以上も年の離れた柴田勝家との結婚は、前夫の浅井長政のかたきである羽柴秀吉に対抗し、羽柴秀吉の専横から織田家を守りたいという意思があったようです。

また、柴田勝家にとっては織田家重臣のなかでの自分の存在感を高めるために、この結婚が必要でした。

柴田勝家は滝川一益(たきがわかずます)、織田信孝(おだのぶたか)と同盟して羽柴秀吉に対抗しましたが、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」に突入、柴田家重臣で甥の佐久間盛政(さくまもりまさ)の軍令違反による深追いや、与力であった前田利家(まえだとしいえ)の戦線離脱により越前国へ退却します。

本拠地である北ノ庄城(きたのしょうじょう)も攻められ、1583年(天正11年)4月24日、柴田勝家とお市の方はともに自害しました。

清洲会議が開かれたのが 1582年(天正10年)6月、賤ヶ岳の戦いが翌1583年(天正11年)4月のことですから、2人の結婚はわずか1年にも満たなかったということになります。

柴田勝家の人となり

賤ヶ岳の戦いで敗北し、越前国に撤退する途中、柴田勝家は前田利長(まえだとしなが)の居城・府中城(ふちゅうじょう)で、先に撤退し戦線を離脱した前田利家と対面しますが、前田利家を責めなかったばかりか、自分に対する数年来の協力に感謝の言葉を述べ、「羽柴秀吉と仲が良いのだから、必ず羽柴秀吉に降伏するように。私のことを気遣い再び道を誤ってはならない」と語ったと伝わります。

「勇猛な武将でありながら、離反した家臣に恨み言を言うことはなく、最期まで付き添った家臣達に生き延びることを許し、それを喜んだ」と柴田勝家の温情ある人柄を、ルイス・フロイスや、前田家家臣・村井重頼は伝えています。

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