歴史上の実力者

寿桂尼 ~今川家4代を支えた女性~

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今川氏親、今川氏輝、今川義元、今川氏真の4代にわたって今川氏を支え、「駿河の尼御台」(するがのあまみだい)、「女戦国大名」とも呼ばれた寿桂尼(じゅけいに)。その辣腕ぶりは甲斐の虎と呼ばれたあの武田信玄でさえ、恐れたと言われています。

夫・今川氏親と寿桂尼

寿桂尼

寿桂尼

寿桂尼(じゅけいに)は藤原北家勧修寺流(ふじわらほっけかじゅうじりゅう)の公家、中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘です。出家前の名前は分かっていません。

1508年(永正5年)頃にから駿河の守護大名・今川家9代当主、今川氏親(いまがわうじちか)に嫁ぎました。

今川家は足利家一門として幕府の中央と結び付いており、公卿家(くぎょう:公家のなかでも最高層の職位)から正室を迎え入れたことで、京とのつながりはさらに強くなっていきました。

今川義元(いまがわよしもと)の時代になると戦乱を逃れた公家や文化人が移住し、駿府には京風の文化が花開いたとか。これには京出身の寿桂尼の影響も少なくなかったようです。

寿桂尼の存在感が増すのは、今川氏親が中風(ちゅうふう:脳出血・脳梗塞により、運動機能障害や言語機能障害などを引き起こした状態)を患ってから。寿桂尼は寝たきりになった今川氏親を補佐して政治を行ないました。

なかでも有名なのは1526年(大永6年)4月、今川氏親が死の2ヵ月前に制定した東国最古の分国法(戦国大名が領国支配のために制定した法律)であり、家法でもある「今川仮名目録」。この文章は漢文ではなく仮名交じりで書かれていた(当時、女性は仮名交じり文を使用していた)ことから、寿桂尼が大きくかかわっていたと推測されます。

今川仮名目録の制定には、今川氏親の死後、嫡男・今川氏輝(いまがわうじてる)の駿河支配を盤石なものにしたいという寿桂尼の意向が強く反映されていると言います。

嫡男・今川氏輝と寿桂尼

1526年(大永6年)6月に今川氏親が没し、嫡男の今川氏輝が家督を継ぎますが、このとき今川氏輝はまだ13歳。寿桂尼が後見人となって政務を代行しました。

寿桂尼が発給した公文書には、嫁入り道具として父、中御門宣胤から与えられた「歸」(かえる・とつぐ)という文字が彫られた印が押されています。戦国大名は花押(かおう:戦国大名が個々に使用したマーク・サイン)を用いるのが一般的でしたが、女性は花押が持てなかったため、歸の印をその代わりとしたようです。

寿桂尼の後見により順調に勢力を拡大しつつあった今川家は、1532年(天文元年)頃になって今川氏輝が政治を行なうようになりますが、今川氏輝は1536年(天文5年)3月17日に23歳という若さで早世してしまいます。

今川氏輝はもともと病弱ではあったようですが、同じ日に後継者候補である今川氏輝の弟・今川彦五郎も死亡していることから、この2人の不可解な死には、暗殺説や自殺説などがささやかれていました。

そして、直後に起きた「花倉の乱」(はなくら・はなぐらのらん)によって憶測はさらに過熱していきます。

五男・今川義元と寿桂尼

今川義元

今川義元

1536年(天文5年)に今川氏輝とその弟・今川彦五郎が同時に死去すると、寿桂尼は出家していた今川義元(いまがわよしもと)を還俗(出家した者を俗人に戻すこと)させて家督を継がせようとします。

今川義元は今川氏親の五男で、寿桂尼が産んだ子としては今川氏輝、今川彦五郎に次ぐ3番目の男子にあたります。

これに黙っていなかったのが、今川氏親の三男で側室の子、玄広恵探(げんこうえたん)。寿桂尼は穏便に片を付けようと、玄広恵探派の説得を試みましたがうまくいかず、花倉の乱に突入してしまいます。

玄広恵探は母方の親戚で今川氏の家臣だった福島氏とともに挙兵し、今川館を襲撃。今川義元はこれを撃退すると、北条氏を味方に付けて、玄広恵探派が拠点としていた方ノ上城(かたのかみじょう)を落とし、さらに花倉城に籠る玄広恵探を包囲して自害に追い込みました。そして、この花倉の乱に勝利した今川義元が今川家当主となります。

同年、今川氏親と寿桂尼の実娘、端渓院(ずいけいいん)が北条氏康(ほうじょううじやす)に嫁ぎました。さらに、武田晴信(たけだはるのぶ:のちの武田信玄)に名門公家・三条家の娘が今川家の斡旋により嫁いでいます。これらの婚姻には寿桂尼の人脈が強くかかわっているとの説もあります。

当主となった今川義元は、精力的に領土を拡大していきます。この頃になると寿桂尼が政治の表舞台に出てくることは少なくなります。今川義元には有能な側近、太原雪斎(たいげんせっさい)がいたからです。

太原雪斎は今川義元が僧侶であったときの師でした。幼い頃から今川義元の教育係をつとめ、今川義元が還俗して家督を継いでからは内政・外交・軍事、あらゆる面から今川義元を支えた人物。寿桂尼も安心して任せられたのでしょう。

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孫・今川氏真と寿桂尼

今川義元戦死之地

今川義元戦死之地

平穏な隠居生活を送っていた寿桂尼ですが、1560年(永禄3年)に再び出番が訪れます。

今川義元は甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を結び領内の地盤を固めます。この頃、三河の松平氏(のちの徳川家)も従属させました。そして後顧の憂いがなくなった今川義元は尾張へと侵攻を開始します。

しかし「桶狭間の戦い」で織田信長の奇襲を受け、討ち取られてしまったのです。今川家の領国は大混乱に陥ります。

大混乱の中、今川義元の跡を継いだのは今川義元の嫡男、今川氏真(いまがわうじざね)。寿桂尼から見て孫にあたります。まだ22歳と若かったうえに、少々頼りない暗君として語られることの多い人物です。太原雪斎も1555年(弘治元年)に他界していました。

寿桂尼は、再び若き当主の後見人として補佐しましたが、その甲斐もなく今川家の求心力は急速に衰えていきます。家臣の離反が相次ぎ、やがて今川氏真も遊興に耽る始末。

そんな状況下の1565年(永禄8年)、武田家で「義信事件」(よしのぶじけん)が勃発。武田信玄の嫡男で、親今川派であった武田義信(たけだよしのぶ)が幽閉されてしまいました。1567年(永禄10年)には武田義信に嫁いでいた今川義元の娘である嶺松院(れいしょういん)が駿河国に送り返されてしまい、今川家と武田家の同盟関係は消滅します。

一方、三河では松平元康(まつだいらもとやす)改め、徳川家康が今川家から独立し、織田信長と同盟を結びます。

年老いた寿桂尼は今川家の行く末を案じ、「死しても今川の守護たらん」という言葉を残して1568年(永禄11年)、3月に亡くなりました。遺体はその言葉通り、今川館の鬼門にあたる龍雲寺に埋葬されました。

しかし寿桂尼のそんな思いもむなしく、甲斐の武田信玄が寿桂尼の死を今川家討伐の絶好のチャンスととらえ、寿桂尼の死から9ヵ月後の1568年(永禄11年)、12月に駿河に攻め入ります。今川氏真は今川家家臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)の居城である掛川城に籠城しますが、かつては今川家の家臣であった徳川家康からも攻められてしまいます。

今川氏真は3ヵ月ほど、掛川城に籠城しましたが、徳川家康が今川氏真の助命を約束したため、掛川城主・朝比奈泰朝が降伏、戦国大名としての今川氏はこれをもって滅亡してしまいました。

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