歴史上の実力者

太田道灌 ~主君に暗殺された武将~

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上杉家の傍流にすぎなかった扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)に繁栄をもたらした太田道灌(おおたどうかん)は、有能ゆえに主君の怒りを買ってしまった悲劇の人物。もしも太田道灌が主君に殺されなかったら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

太田道灌の働き

太田道灌

太田道灌

太田道灌(おおたどうかん)は1432年(永享4年)に、相模守護代を務める太田資清(おおたすけきよ)のもとに生まれました。

太田氏は、代々扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(かさい:主君に代わって主家を取り仕切る職)を務める家柄です。

太田資清は知識人として知られており、山内上杉家(やまうちうえすぎけ)の家宰を務めていた長尾景仲(ながおかげなか)と共に、「関東不双の案者」(関東で極めて優れた知識人)と呼ばれていました。

太田道灌も幼い頃から学問に励み、鎌倉建長寺(けんちょうじ)や足利学校(下野国足利荘にあった平安時代初期、または鎌倉時代に創設されたと伝わる高等教育機関)で学んだとされています。

扇谷上杉家は、鎌倉公方(室町幕府が関東地方支配のために設置した鎌倉府の長官)を補佐する関東管領(かんとうかんれい)を代々務める上杉氏の支流にあたり、関東管領を独占する山内上杉家をサポートする家系にすぎませんでしたが、1456年(康正2年)に太田道灌が家督を継ぐと、その働きにより扇谷上杉家はしだいに山内上杉家に匹敵するほどの力を付けるようになっていくのです。

江戸城築城

1454年(亨徳3年)、関東管領の山内上杉憲忠(やまうちうえすぎのりただ)が、対立していた鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)に暗殺されます。上杉家は兵を挙げて武蔵高安寺にいた足利成氏を攻めますが、反撃に遭い、扇谷上杉家の当主・上杉顕房(うえすぎあきふさ)が討たれてしまいます。

駿府今川氏が室町幕府の使者として事態の鎮圧に乗り出すと、足利成氏は下総古河城に立て籠もり、上杉家に不満を持つ関東周辺の領主、豪族の支持を集め「古河公方」(こがくぼう)を名乗って、足利将軍家・上杉家と対立。これにより関東は利根川を境に分断され、28年間にわたって続く争いが「亨徳の乱」(きょうとくのらん)です。

太田道灌が太田家の家督を継いだのは、享徳の乱の真っ只中。太田道灌は、古川公方の勢力に対抗するため、防衛拠点の設営を急ぎました。

城作りの名人として知られる太田道灌は、利根川流域に城を作り防御を固めていきます。当時の城は天守や土壁のがそびえ立つ「居城」ではなく、「山城」です。山城とはもとからある地形を活かし、狭い街道を挟んだ小高い山に曲輪(くるわ:堀や土塁で囲まれた区画)や馬出(うまだし:出入り口の前に作られた囲み。出撃の拠点となり、入口の防衛にも効果的)を設置したシンプルな設計。普段は山の麓の館で過ごし、敵の襲来時には山城に籠もって戦いました。

江戸城

江戸城

防衛拠点の設営を進めていた太田道灌は、地元の有力武家である千葉氏が古河公方側についたため、利根川下流地域を抑えなければならなくなります。

そこで1457年(康正3年)、武蔵国の領主・江戸氏の領地に城を建てました。城は「子城」「中城」「外城」の三重構造になっており、その外側には水掘や切岸(きりぎし:斜面を人工的に削った崖)が巡らされた本格的な城であったと伝わります。

これが最初の「江戸城」であり、現在皇居がある場所です。築城された当時、現在の日比谷あたりは利根川につながる深い入り江になっており、江戸城の眼前には海が広がっていました。

さらに太田道灌は江戸城の周りに神社を招聘します。徳川家康が関東入りする100年以上も前に、江戸の礎は完成していたのです。

長尾景春の乱と享徳の乱を鎮圧

1458年(長禄2年)、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の異母兄・足利政知(あしかがまさとも)が、伊豆堀越で「堀越公方」(ほりこしくぼう)を名乗ります。他にも各地で「〇〇公方」が乱立し、争いの火種になっていました。そのため、関東の状況は複雑化していきます。

北条早雲

北条早雲

さらに1467年(応仁元年)には京都応仁の乱(おうにんのらん)が勃発。北条早雲(ほうじょうそううん)や斎藤道三(さいとうどうさん)が台頭し、戦国乱世が幕を開けました。

1471年(文明3年)、古河公方勢が堀越公方の勢力圏内に侵攻します。上杉家はこれに乗じて古河公方勢を攻撃しますが、反撃に遭い家督を継いだばかりの扇谷上杉政真(おうぎがやつうえすぎまさざね)が討ち死にする事態に。

上杉政真には子がなかったため、上杉家は大混乱に陥ると思われましたが、太田道灌が重臣を素早くまとめ上げ、上杉政真の叔父である上杉定正(うえすぎさだまさ)を扇谷上杉家の当主に迎えることにより、これを回避しました。

古河公方との戦いのさなか、1476年(文明8年)、山内上杉家11代当主・上杉顕定(うえすぎあきさだ)の家臣、長尾景春(ながおかげはる)が反乱を起こしました。

1473年(文明5年)に山内上杉家の家宰であった長尾景信(ながおかげのぶ)が亡くなり、息子の長尾景春が長尾家の家督を継ぎましたが、上杉顕定が次の家宰に選んだのは実弟であり、長尾景春の叔父にあたる長尾忠景(ながおただかげ)でした。この人事に不満を持つ長尾景春が、鉢形城(はちがたじょう)に籠城しました。

太田道灌の母と長尾景春の父、長尾景信は兄弟であり、長尾景春はいとこにあたる太田道灌にも協力を仰ぎますが、太田道灌はこれを拒否します。しかし反旗を翻した長尾景春の前に扇谷上杉家と山内上杉家の軍は次々と敗走、上杉家を良く思わない近隣の領民も長尾景春に味方し、上杉家は窮地に陥りました。

同時期に起こっていた今川家のお家騒動の仲裁を行なっていた太田道灌は、駿河から戻ると鉢形城の出城を次々と攻略します。数年がかりですべての城を落とされた長尾景春は、最後には古河公方を頼りました。そののち、太田道灌は扇谷・山内上杉家と古河公方との間で「都鄙合体」(とひがったい)と呼ばれる和議を成立させて、長尾景春の乱と享徳の乱を一気に解決に導いたのです。

太田道灌はなぜ暗殺されたのか

出る杭が打たれるのは世の常。太田道灌の活躍によって扇谷上杉家の勢力は増大しましたが、主君の扇谷上杉家当主、上杉定正は太田道灌が主君を軽んじていると思い、疎ましく感じるようになりました。

太田道灌も1480年(文明12年)に「太田道灌状」という書状を山内上杉家家臣宛に送っており、それには正当評価されていないという不満が書き綴られていたと言います。

このまま放置しておけば、やがて太田道灌が謀反を起こすとでも考えたのでしょうか。1486年(文明18年)、上杉定正の糟屋館(かすやかん:扇谷上杉氏の本拠地)に招かれた太田道灌は、風呂から出たところを斬殺されてしまいました。この暗殺は、扇谷上杉家の勢いに危機感を抱いた山内上杉家の上杉顕定(うえすぎあきさだ)が、上杉定正の猜疑心を煽って実行させたとも言われています。

上杉定正の刺客に殺される瞬間、太田道灌は「当方滅亡」と叫んだとか。これは「私が死ねば扇谷上杉家も滅亡するだろう」という意味。

この予言通り、太田道灌の死から間もなく、山内上杉家と扇谷上杉家との間で「長享の乱」(ちょうきょうのらん)が勃発。関東進出を狙う北条早雲に付け入る隙を与え、やがて上杉家は滅亡してしまうのです。

太田道灌の天才エピソード

山吹伝説

山吹伝説

築城術をはじめ、兵法や歌道にも通じていたという太田道灌。勉強熱心だったことがうかがえるエピソードに「山吹伝説」(やまぶきでんせつ)があります。

外出時、にわか雨に降られた若き太田道灌は、蓑を借りようと通りすがりのみすぼらしい家を訪ねました。すると、出てきた娘は無言で山吹の花を1本差し出します。

意味が分からず腹立たしい思いをしながら濡れて帰ると、家臣のひとりがそれは「後拾遺和歌集」(ごしゅういわかしゅう)のなかの兼明親王(かねあきらしんのう)の歌、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」に掛けて、貧しく蓑ひとつないことを伝えていると教えました。

己の無知を恥じた太田道灌は、このできごとをきっかけに、歌道に励むようになったと言います。

「かかる時 さこそ命の 惜しからめ かねてなき身と 思ひ知らずば」

これは太田道灌の辞世の句。歌道に通じていることを知る刺客が、「かかる時 さこそ命の 惜しからめ」(こんな時はさぞかし命が惜しいであろう)と上の句を詠んだのに答えて、「かねてなき身と 思ひ知らずば」(もとより我が身などないと思って生きてきた)と下の句を詠んだと言われています。

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