歴女オススメ・武将の史跡めぐり

細川忠興ゆかりの史跡

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「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」といった権力者に仕え、戦国の世を渡り歩いた武将「細川忠興」(ほそかわただおき)。細川家と言えば、清和源氏の名門・足利家の支流で、父「細川藤孝/幽斎」(ほそかわふじたか/ゆうさい)は、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に幕臣として仕えていました。細川忠興は、文化人としても有名な父の血を受け継ぎ、猛将でありながら優れた教養人として歴史に名を残した人物です。一方で、妻への愛が「深すぎる」武将としても語られてきた細川忠興。「エリート武将」と「危ない夫」という二面性が、歴女の好奇心を掻き立てる存在でもあります。
今回は、強烈な個性で歴女にも人気の高い戦国武将・細川忠興の人物像に迫りながら、ゆかりのある関西と九州の史跡を辿ってみましょう。

京都・大阪で辿る細川忠興と妻・細川ガラシャの夫婦の道のり

細川忠興の妻は、歴女人気の高い武将のひとりである「明智光秀」の3女「たま」です。

明治以降は、「細川ガラシャ」という名で語られるようになりました。戦国武将の妻としては、異質である「ガラシャ」の名前。これは、キリスト教の洗礼名であり、細川ガラシャは、キリシタンとして非業の死を遂げた人物なのです。

細川忠興・細川ガラシャ夫妻の歴史を振り返りながら、2人が出会い、別れを経験した京都・大阪の史跡を見ていきます。

細川忠興と細川ガラシャ、始まりの場所 勝竜寺城

勝竜寺城公園

勝竜寺城公園

現在の京都府南西に位置する長岡京市に建てられていた「勝竜寺城」(しょうりゅうじじょう)は、戦国時代に、織田信長が細川忠興の父・細川藤孝に与えた城です。

1571年(元亀2年)に細川藤孝が大改修してから、立派な城郭が建てられています。

父と共に、織田信長に仕えながら勝竜寺城を拠点としていた細川忠興は、1578年(天正6年)8月に、織田信長の仲介で、たまと結婚することに。

このとき、勝竜寺城で盛大な結婚式が行なわれ、のちに勝竜寺城は、2人の始まりの場所として知られるようになりました。こうしてたまは16歳で細川家へ嫁ぎ、しばらく2人は勝竜寺城で新婚生活を過ごしていたのです。

勝竜寺城は、江戸時代に廃城となってしまったため、残念ながら現在は2人が暮らした城郭を観ることはできませんが、1992年(平成4年)に、城跡が勝竜寺城公園として整備され、管理棟が模擬櫓として建てられたことで、当時の面影を感じられるようになりました。

また、公園整備に伴う発掘調査では、父・細川藤孝による勝竜寺城改修時の石垣や多聞櫓(たもんやぐら)が発見され、当時としては先進的な築城技術で建てられていたことが判明したのです。城の遺構は、公園北東に位置する「神足神社」(こうたりじんじゃ)付近に土塁跡や空堀跡が残っているので、お城好き歴女の方は、散策コースにぜひ加えてみましょう。

さらに、公園内には2人の銅像や、地下水100%の水道水を利用できる「ガラシャおもかげの水」という水飲み場も。若き頃の細川忠興と細川ガラシャの歴史が感じられる勝竜寺城公園では、毎年11月には「長岡京ガラシャ祭り」が開催され、園内はメイン会場として盛り上がりを見せます。

細川ガラシャが細川家に輿入れする様子を再現した行列巡行は、歴女必見のイベントとなっていますので、お祭りが開催される「ガラシャウィーク」に合わせて勝竜寺城公園を訪れてみてはいかがでしょうか。

細川忠興がたまを隠した細川ガラシャ隠棲の地

細川忠興

細川忠興

勝竜寺城で新婚生活を送っていた細川忠興とたま。しかし、2人の幸せな日々はある事件によって終焉を迎えます。

1582年(天正10年)、たまの父である明智光秀が「本能寺の変」を起こし、主君・織田信長を討ち落すという事態に。

さらに明智光秀は、その直後に「山崎の戦い」で豊臣秀吉軍に滅ぼされ、残されたたまは逆臣の娘となってしまったのです。

このとき、細川忠興は本能寺の変のあと、父と共に舅(しゅうと)・明智光秀を突き放していたため、関係を疑われることはなかったと伝えられています。その一方で、たまの存在がある限り、細川家にとって不都合が生じることもあったのかもしれません。

ところが細川忠興は、たまと離縁せず、丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)の「味土野女城」(みどのめじょう)に、2年にも及ぶ間たまを幽閉したのです。細川忠興は、愛するたまを失いたくなかったのか、その後も、連れ戻したたまに見張りの家臣を付け、細川家の屋敷で監視し続けたのです。

現在、味土野女城跡は細川ガラシャ隠棲(いんせい)の地と呼ばれ、城の遺構は残っていませんが、「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が建てられています。石碑までは、車が対向できないほど狭く、緑が生い茂る山道が続く道のりです。

かつて、苦境に陥った細川ガラシャが身を潜めていた味土野。人里離れた山奥の史跡ですので、歴女の方が訪れる際には、服装などの装備にも注意することが大切です。

細川ガラシャの壮絶な死!細川屋敷跡に伝わる越中井

細川ガラシャ

細川ガラシャ

細川忠興に監視されながらも、大坂城三の丸の細川屋敷で暮らしていたたま。

しかし、本能寺の変をきっかけに、細川忠興のたまへの愛情は大きく歪み始め、たまは受難の日々を送ることとなります。

豊臣秀吉に仕えて出征を重ねていた細川忠興は、次第にたまに辛くあたるようになり、たまの側にいた者を容赦なく殺すなど、残忍な夫となっていったのです。そんな中、たまは細川忠興から聞いたキリシタンの話に興味を抱き、キリスト教に傾倒していくように。

そして、1587年(天正15年)に洗礼を受けたたまは、ガラシャという洗礼名を名乗るようになります。ちなみにこのガラシャという名は、ラテン語の「Gratia」で、神の愛・慈悲といった意味を持つ言葉。

自由な生活を失ったたまは、神に祈ることでなんとか心を保っていたのでしょう。細川忠興は、細川ガラシャに棄教させようとしたものの、ガラシャは聞く耳を持ちませんでした。そしてこのあと2人には、さらなる悲劇が待ち受けていたのです。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」直前、細川忠興は、徳川家康にしたがって上杉征伐に出陣するため屋敷を留守にしていました。この隙を狙って、西軍を統率する「石田三成」は細川屋敷を襲撃し、細川ガラシャを人質に取ろうとします。ところが細川ガラシャは、人質になることを拒否して、屋敷ごと燃やして自害してしまったのです。

一説によると、キリスト教徒であるガラシャは自害が禁止されていたため、家老がガラシャを介錯して屋敷に火を放ったとか。こうして、細川ガラシャは37歳で波乱万丈な人生の幕を閉じ、細川ガラシャの壮絶な死は細川忠興に大きなショックを与えました。

越中井

越中井

細川ガラシャが自害した細川屋敷跡は、現在の大阪市中央区森ノ宮に位置しており、「越中井」(えっちゅうい)という名の史跡で、細川ガラシャ最期の地として語り継がれています。

越中井とは、細川忠興の官職「越中守」(えっちゅうのかみ)の屋敷の井戸の側だったことに由来しており、現在もこの井戸跡が残されているのです。昭和に建てられた石碑には、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という細川ガラシャの辞世の句も彫られています。

大阪城からも歩いてすぐの越中井。細川ガラシャの最期の地にも、ぜひ足を運んでみましょう。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

新天地・九州で巡る細川忠興のセンスが光る城と神社

細川忠興は、細川ガラシャとの悲劇的な別れを経験した関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍で大きな戦功を挙げました。

この論功行賞として、細川忠興は、丹後国12万石から豊前国中津33万9,000石(ぶぜんのくになかつ:現在の大分県中津市)への加増転封を受けています。

新天地・九州へと渡った細川忠興は、文武両道な名将として城や神社を築いて城下町を造り、文化人としての才能も開花させていったのです。ここからは、細川忠興が拠点を置いた大分、福岡、熊本の史跡を見ていきます。

九州最古の石垣!細川忠興が完成させた中津城

中津城

中津城

愛媛県の「今治城」(いまばりじょう)、香川県の「高松城」と共に「3大水城」に数えられている「中津城」(なかつじょう)。

お城好きな歴女の方には、ぜひ押さえて頂きたい細川忠興ゆかりのスポットのひとつ。大分県のJR中津駅から歩いて15分ほどの場所に位置し、現在は模擬天守と復興櫓が建てられており、中津城公園として整備されています。

中津城のお堀には海水が流れており、海と川を天然の要塞とする水城とされ、上から城郭を見ると扇型に見えることから「扇城」(おうぎじょう)とも呼ばれていました。

1587年(天正15年)に、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)が築城を始めた中津城。しかし、大規模な水城計画を立てていた黒田官兵衛は、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県北西部)へ国替えとなり、黒田官兵衛に代わって細川忠興が、築城途中の中津城に入城することとなります。

その2年後、細川忠興は、弟「細川興元」(ほそかわおきもと)を城主にしていた「小倉城」(こくらじょう:現在の福岡県北九州市)に拠点を移し、しばらくは小倉城の築城を進めていました。1620年(元和6年)、細川ガラシャとの子である三男「細川忠利」(ほそかわただとし)に家督を譲った細川忠興は、この翌年から再び中津城へ戻り、本格的に城や城下町の整備に着手していったのです。

黒田官兵衛の城を改修した細川忠興は、城内に22の櫓と8つの門を建て、さらに上水道を整備して「三斎池」(さんさいいけ)と呼ばれる池を造りました。ちなみに、「三斎」は細川忠興の隠居後の法名で、晩年は「細川三斎」の名で広く知られています。

細川氏(左)と黒田氏(右)時代の石垣

細川氏(左)と黒田氏(右)時代の石垣

この中津城跡で、歴女の皆さんに最も注目してもらいたいポイントは、2人の城主によって築かれた石垣です。

城の裏手にある中津川沿いの石垣は、黒田家時代の石垣と細川家時代の石垣が並んでおり、2つの石垣を見比べることが可能。

形や大きさを揃えて石切りされている黒田家時代の石垣に対して、細川家時代の石垣は、当時流行していた自然石による野面積み(のづらづみ)の技法を用いて築かれていることが分かります。

また、黒田家時代の石垣は九州最古の遺構であると推測されており、中津城跡には、戦国時代から江戸時代の築城の変遷を感じることができる貴重なスポットが残っているのです。

細川忠興が蜂に刺された!?小倉の祇園 八坂神社

八坂神社

八坂神社

中津城へ入城後、1602年(慶長7年)から、現在の福岡県北九州市小倉北区で小倉城の築城に着手した細川忠興。

約7年の歳月をかけて城を完成させると、藩庁を小倉城に置き、細川忠興が初代・小倉藩主となりました。

細川忠興は、小倉の発展のために様々な政策を実施し、城下町を繁栄させています。その中で細川忠興は、「小倉の祇園さん」の名で親しまれている「八坂神社」(やさかじんじゃ)の社殿を建て、現代の小倉にも伝わる「祇園祭」を誕生させたのです。

この八坂神社の歴史は、細川忠興のとある災難から始まります。

1616年(元和2年)、城外に鷹狩りに出掛けた細川忠興は、山頂で小さな祠(ほこら:神を祀る小規模な殿舎)を見付けます。どのような御神体が安置されているのか気になった細川忠興は、祠を杖でこじ開けようとしました。そのとき、中から蜂の群れが一斉に飛び出て、細川忠興の目が蜂に刺されてしまったのです。

失明しかけた細川忠興は、神様に無礼な態度を取った罰だと反省し、1617年(元和3年)、この地に立派な社殿を築きました。この祠の神様は、9世紀頃から小倉の地に祀られていた「須佐之男命」(すさのおのみこと)であったため、細川忠興は故郷である丹後国の祇園社(現在の八坂神社)と祭神が同じことにちなみ、「祇園社」と名付けたのです。

こうして、祇園社を建てたことで細川忠興の目は快方に向かい、眼病平癒の願解き(がんほどき:神仏に対し、祈願が叶ったお礼参りをすること)の祭典が盛大に行なわれました。このときの祭典が、現在も小倉で行なわれている「小倉祭」の始まりとされており、祇園社と小倉祭の誕生は、城下町の繁栄に大きく貢献していきました。その後、祇園社は明治時代に八坂神社へ改名し、昭和に小倉城北の丸跡へと遷座されることになったのです。

小倉城を訪れた際は、細川忠興が築いた八坂神社も合わせて参拝されることを、おすすめします。

細川忠興の隠居城・八代城跡に鎮座する松井神社

八代城跡

八代城跡

最後にご紹介するのは、熊本県八代市のシンボルであり、2014年(平成26年)、国の史跡にも指定された「八代城」(やつしろじょう)です。

1632年(寛永9年)、細川忠利が小倉から肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)54万石へ加増転封となり、熊本藩・初代藩主となったことに伴い、細川忠興は隠居するために八代城へ入城しました。

隠居後の細川忠興は、八代城で数寄を嗜む日々を送り、細川ガラシャが生きていた頃には考えられないほど、落ち着いた生活を送っていたと伝えられています。

その中で、茶人としての才能を開花させた細川忠興は、かの有名な茶人「千利休」の愛弟子だったと言われており、利休七哲のひとりにも数えられるほどの高弟だったのです。

細川忠興は、八代城北の丸に池を築いて茶庭を整備。そして、1645年(正保2年)12月、細川忠興は83歳でこの世を去りました。

現在、細川忠興最期の地である八代城北の丸跡には、細川忠興のあとに入城した松井家を祭神とする「松井神社」(まついじんじゃ)が鎮座。境内には、松井家によって継承された細川忠興の茶庭が残されており、当時の面影を感じられます。

さらに、境内に植えられている樹齢350年の「臥龍梅」(がりゅうばい)は、細和忠興が「八代から百花の魁となる人材出でよ」と願って手植えした植物だと伝えられており、1982年(昭和57年)に、熊本県の天然記念物に指定されているのです。

細川ガラシャの死を乗り越え、九州各地で功績を残した細川忠興。関西と九州に残る史跡を巡れば、細川忠興の人生を深く知ることができるかもしれません。

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細川忠興ゆかりの史跡

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