歴女オススメ・武将の史跡めぐり

黒田長政ゆかりの史跡

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九州の最大都市、福岡ゆかりの武将として知られる「黒田長政」(くろだながまさ)。父は天才軍師と呼ばれた「黒田孝高」(くろだよしたか)こと通称「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)です。
近年では、2014年(平成26年)に放映されたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」によって、黒田親子が一躍脚光を浴びました。「関ヶ原の戦い」で戦功を挙げたことで、福岡藩初代藩主を務めることとなった黒田長政は、1601年(慶長6年)から約7年の歳月をかけて「福岡城」を築き、城下町を発展させていったのです。
今回は、歴女ならば一度は訪れたい壮大なスケールの福岡城跡を中心に、福岡の基盤を築いた黒田長政の史跡を見ていきます。

福岡藩初代藩主として黒田長政が築いた福岡城

黒田長政

黒田長政

博多を望む警固村福崎(けごむらふくざき:現在の福岡市中央区舞鶴公園付近)で、総面積約80万㎡という広大な敷地に築かれた「福岡城」。

天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層構造からなる内城部分は、東京ドーム9個分の41万㎡の広さを誇っていました。

ちなみに「福岡」という名は、黒田氏の故郷である備前国邑久郡福岡(びぜんのくにおくぐんふくおか:現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に由来していると言われています。

また、福岡城を博多湾から観ると、鶴が羽ばたく姿に似ていることから、別名は「舞鶴城」です。

ここでは、黒田長政が築いた雄大な城郭の遺構をじっくりと辿っていきます。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

福岡城の防壁! 城内に現存する多聞櫓

福岡城 多聞櫓

福岡城 多聞櫓

福岡城は、明治時代の廃城令によって城郭のほとんどが解体されてしまいましたが、「潮見櫓」(しおみやぐら)や「祈念櫓」(きねんやぐら)など、現存する櫓から当時の福岡城をうかがい知ることができます。

なかでも、二の丸南郭にある「多聞櫓」(たもんやぐら)は、江戸時代から残る福岡城の遺構として、城内でも注目度の高いスポットです。

多聞櫓には、箱の形をした戸袋型の「石落」(いしおとし)が備えられていることから、せめてきた敵の侵入を防ぐ役割も持っていたと考えられます。

2層の「隅櫓」と、30間の奥行きを持った「平櫓」からなる多聞櫓は、後世に一部改修を受けたと伝えられており、平櫓は1853年(嘉永6年)に建て替えられた建物です。

また、第2次世界大戦後には、現在の西日本短期大学の学生寮として使われていた時期もありました。その後、多聞櫓は1971年(昭和46年)に国の重要文化財に指定。通常、内部は非公開となっていますが、特別公開時には中に入れるとのことです。

毎年行なわれる「福岡城さくらまつり」では、多聞櫓付近の桜がライトアップされ、多くの花見客で賑わいを見せています。

城内で語り継がれる祟りも!? 城門跡に注目

福岡城 鉄御門跡

福岡城 鉄御門跡

かつて、福岡城には10を越える城門がありました。現在、城内で当時の位置に残っている門は「下之橋御門」(しものはしごもん)のみとなっていますが、いくつかの城門跡はその名残を感じられるようになっています。

まずは、多聞櫓がある二の丸から本丸へ移動する際に通る「裏御門跡」(うらごもんあと)。この門跡の西に積まれた石垣の上には、かつて櫓が建っていたと言われており、幅広な門跡でもあることから、本丸への入口にふさわしい立派な門が建っていたことがうかがえます。

そして、福岡城の中心部・本丸へ入り、天守台へと続く「鉄御門跡」(くろがねごもんあと)は、要所の入口であったため、本丸入口に比べて非常に幅が狭くなっており、周囲には高く積み上げられた石垣も見ることできます。かつては、この石垣の上に櫓や塀が張り巡らされていたとのこと。

鉄御門跡の先には「埋門跡」(うずみもんあと)があり、こちらもやはり幅狭な門跡となっています。天守台跡の展望台へ上る階段横にあるので、見落とさないようにチェックが必要です。

福岡城には、触れると祟りがあると言う城門があり、現在も怪談話として語り継がれています。その城門は、東二の丸から二の丸への入口にある「扇坂御門」(おうぎさかごもん)か、「鴻臚館跡」(こうろかんあと)から二の丸への入口にある「東御門」(ひがしごもん)のどちらかの門だと言われており、通称「お綱門」(おつなもん)と呼ばれていました。

お綱門と呼ばれるようになったのは、黒田長政の嫡男である「黒田忠之」(くろだただゆき)が、福岡藩2代藩主を務めていた頃のこと。

大坂で気に入った芸者を連れて帰り寵愛していた黒田忠之は、家老にたしなめられ芸者を近臣の「浅野史郎左衛門」(あさのしろうざえもん)に預けることにしました。すると浅野は、「お綱」という妻と幼い子どもが2人いるにもかかわらず、この芸者に夢中になってしまったのです。

お綱は、妻子を放って芸者と共に屋敷で暮らすようになった夫に憤慨し、ついに狂乱してしまいます。2人の子どもを刺し殺し、薙刀を持って夫が暮らす屋敷へ向かったお綱。しかし、夫は城にいたため留守にしており、お綱は屋敷にいた浪人に斬りつけられてしまうことに。

お綱は血だらけの体で這いずりながら、息も絶え絶えなんとか城門へ辿り着くも、柱に手をかけたまま命尽きてしまったのです。

このお綱の悲劇から、城門には祟りがあると伝えられ、お綱門として恐れられるようになりました。お綱門と呼ばれた城門は現存しませんが、福岡城を訪れた際には、この悲しくも恐ろしい伝承に思いを馳せてみましょう。

福岡城の幻の天守閣とは?

黒田長政が築いた福岡城には、いまだ解明されていないひとつの謎があります。それは、福岡城天守閣の存在についてです。

現在の福岡城跡には、本丸跡から石畳の坂を上った先が天守台跡となっており、市内を360度全方向から見渡すことができる展望台が設置されています。

しかし、実際のところ福岡城には天守閣が建設されていなかったという説があり、これまで幻の天守閣に対して様々な議論が行なわれてきました。ところが近年、この説を覆すような史料が見つかり、天守閣は建てられていたが、後年になって取り壊されたという説を推す声も出てきているのです。

この天守閣の存在を裏付けることとなった史料とは、黒田長政が嫡男の黒田忠之に残した遺言状でした。遺言状には、遺産の分配に関することが書かれており、黒田長政は、刀剣甲冑などの所持品の分配も細かく記しています。そして、黒田長政が所持していた「一の谷兜」の項目に「一ノ谷ノ甲遺候、福岡天守ニ有之」という一文が書かれているのです。

この一の谷兜は黒田長政にとって特別な武具で、天守に保管されていたことが読み解けると言われています。

このように、黒田長政の遺言状には福岡城天守閣があったことが記されており、黒田長政が亡くなるまでは存在していたことがうかがえるのです。ではなぜ、これまで黒田長政の遺言状の一文が検証されてこなかったのか。幻の天守閣については謎が残り、今後の新たな調査が待たれます。

城好き歴女必見! 現代に残る福岡城の石垣

福岡城の建造物は、多くの部分が石垣で造られており、現在の遺構のなかでも高さ10mを超える石垣も残されているほどです。

天守台を中心に城の南側が自然石を積み上げた「野面積」(のづらづみ)で造られており、城の北側には粗割石(あらわりいし:形を揃えずに割った石)を高く積み上げた石垣が多く見られ、石材の一部には「卍」・「〇」・「×」・「△」といった刻印が見られます。城内に残る遺構は少ないものの、石垣は十分見応えがあるポイントです。

また、福岡の中心街である天神の地下街には、壁面が石垣のようになっている広場があります。この天神地下街の8番街に位置する「石積みの広場」は、かつてこの場所に「肥前堀」(ひぜんぼり)が通っていたことが遺構で分かったことから、当時の石垣をイメージして造られたとのことです。

肥前堀とは、福岡城に近い「紺屋町堀」(こんやまちぼり)と「那珂川」(なかがわ)を東西に結ぶ堀のことで、黒田長政が福岡城築城時に肥前佐賀藩の支援を受けたことから、この名で呼ばれるようになりました。

関ヶ原の戦い」で西軍に荷担していた佐賀藩は、黒田長政の父・黒田官兵衛(黒田孝高:当時の名は如水[じょすい])に「徳川家康」との関係を取り持ってもらったため、お礼にこの肥前堀を掘ったのです。その後、佐賀藩が「佐賀城」の改修を行なった際には、福岡藩が肥前堀のお礼に「筑前堀」を掘ったと伝えられています。

中心街の地下という意外な場所でも、受け継がれている福岡城の歴史。戦から政治の時代へと移行していくなかで、黒田長政は福岡城という大きな拠点を築き、現代へ続く福岡繁栄の道を切り拓いていきました。

福岡城跡は福岡中心街からも近く、市民憩いの公園としても整備されていますので、観光と合わせての遺構見学にも訪れやすくなっています。

福岡城跡と合わせて巡る! 黒田長政ゆかりの社寺

福岡城とゆかりのある神社や、城の遺構が移築された寺院が鎮座する福岡市内。黒田長政と福岡城の歴史をもっと深く知りたい歴女に向けて、福岡城跡と合わせて聖地巡礼におすすめの社寺をご紹介します。

黒田長政の福岡初拠点に鎮座する名島神社

名島城跡

名島城跡

黒田長政が筑前国(現在の福岡県西部)へ入国した際、当初は現在の福岡市東区名島に位置する「名島城」(なじまじょう)へ入城していました。

名島城は、「豊臣秀吉」が九州守護の拠点とするために、1588年(天正16年)に「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)に改修させた城で、もともとは「立花山城」(たちばなやまじょう)の出城のひとつだったのです。

しかし、名島城が山城であったことから、黒田長政は城下町を整備しやすい場所へ新たに福岡城を築き、名島城は廃城となりました。このとき、名島城の建材や石垣、一部の建造物が福岡城に移築され、今も「名島門」として福岡城跡に残されています。

現在、名島城跡は「名島神社」の境内となっており、この神社は祭神に「宗像三女神」(むなかたさんじょしん)を祭り、もともとは「神宮ヶ峯」(じんぐうがみね)の山頂にありましたが、小早川隆景が名島城を改修する際に、現在の場所へ移されました。

その後、福岡藩4代藩主「黒田綱政」(くろだつなまさ)によって現在まで残る社殿が建てられ、その後10代藩主「黒田斉清」(くろだなりきよ)が修築。江戸時代までは「名島弁財天社」と呼ばれていましたが、明治維新後に現在の社名になったと言われています。

福岡城と名島城の遺構も!黒田家の菩提寺 崇福寺

崇福寺

崇福寺

福岡城跡から天神を越え、北東方面に向かった場所にある黒田家菩提寺の「横岳山崇福寺」(おうがくざんそうふくじ)。

鎌倉時代の1240年(仁治元年)に、「湛慧」(たんえ)という僧が太宰府横岳に創建した寺院で、1272年(文永9年)には、宋(そう)で修行した「南浦紹明」(なんぽしょうみょう:大応国師)が入寺し、多くの高僧を輩出したと伝えられています。

黒田長政が筑前入国の際、大宰府から現在の博多区千代町に移転させ、以後黒田家の菩提寺として福岡藩主から手厚く庇護されてきました。

そして、崇福寺で歴女が最も注目すべきポイントなのが、県指定有形文化財の唐門と山門です。

まず、崇福寺の唐門は、先ほど紹介した名島城の遺構を移築した建造物。また、山門は福岡城の本丸表御門だったのですが、1918年(大正7年)に陸軍によって払い下げられ、1920年(大正9年)に山門として移築されました。

このように、黒田家の菩提寺である崇福寺は、福岡城と名島城の遺構が見られる、聖地巡礼に欠かせないスポットなのです。

境内に隣接した黒田家墓所には、初代藩主・黒田長政と父・黒田官兵衛、4代・黒田綱政、6代「黒田綱高」(くろだつぐたか)、7代「黒田治之」(くろだはるゆき)、9代「黒田斉隆」(くろだなりたか)、10代・黒田斉清の墓碑が建っています。

戦前は崇福寺の寺域と合わせて広大な敷地が墓所となっていましたが、1945年(昭和20年)の福岡大空襲によって境内の伽藍と共に多くが焼失。1950年(昭和25年)に改葬(かいそう:1度葬った遺骨などを、別の場所へ葬り直すこと)を行なってからは、墓所も縮小されたと言います。

崇福寺は博多駅からも近いので、史跡巡りの旅の締めくくりに、黒田家菩提寺を参拝に訪れてみましょう。

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