歴女オススメ・武将の史跡めぐり

石田三成ゆかりの史跡

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天下人「豊臣秀吉」にその才を見出され、のちに豊臣政権の五奉行にまで上りつめた「石田三成」(いしだみつなり)は、歴女人気の非常に高い戦国武将のひとりです。武将と言っても石田三成は、武功を挙げることよりも聡明な頭脳を活かし、「太閤検地」(たいこうけんち)などの難易度の高い政務をこなしたことから、知略に長けた生真面目な「智将」として知られています。
石田三成は、主君・豊臣秀吉の右腕として共にあり、豊臣秀吉の死後もなお、豊臣家に忠義を尽くしたという「義」の人物。群雄割拠(ぐんゆうかっきょ:多くの英雄達が各地に勢力を持ち、互いに対立して競うこと)の戦国時代を駆け抜けた石田三成の史跡をご紹介します。

近江は歴女なら訪れておきたい石田三成の始まりの地

石田三成

石田三成

戦国時代、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)は、京都に近い立地から、天下統一に重要な地とされていました。

石田三成は、1560年(永禄3年)、近江の片田舎にある坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)の領主「石田正継」(いしだまさつぐ)の次男として生まれます。

貧しい地侍の子であった石田三成ですが、この地で若くして豊臣秀吉と運命の出会いを果たし、その小姓(こしょう:貴人のそば近くで、様々な雑用を請け負った者)となって「長浜城」(ながはまじょう)に上がったあと、佐和山(さわやま)に居城を与えられるまでに出世していったのです。

近江の地は、石田三成の運命が大きく変わった「始まりの地」であったと言えます。

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戦国武将「石田三成」 YouTube動画

戦国武将「石田三成」

石田三成生誕の地・石田町は全国からファンが集まる聖地

石田会館 石田三成銅像

石田会館 石田三成銅像

石田三成の生まれ故郷である滋賀県長浜市石田町は、長浜城から5kmほど北に位置し、石田三成関連の史跡が点在。

JR長浜駅からバスも利用できますが、駅で借りられるレンタサイクルが便利で、サイクリングを楽しみながら、石田町まで約30分で到着することが可能。また、レンタサイクルを使えば、長浜周辺の観光とあわせて1日で主要スポットを巡ることもできます。

石田町に到着したらまず訪れたいのは、石田三成が生まれた「石田屋敷」の跡地。現在は、「石田会館」と呼ばれる公民館が建てられており、当時の堀の一部が現存しています。生誕地を示す石碑や晩年の石田三成をイメージした立派な銅像もあり、石田三成ファンの歴女の方であれば、聖地巡礼気分が盛り上がるかもしれません。

石田会館から東に進むと見えてくるのは、石田家も信仰したと伝わる「八幡神社」(はちまんじんじゃ)。この神社の裏手には、「石田家供養塔」が並べ置かれています。これは1941年(昭和16年)、境内の地中から大量の五輪塔の残骸が見付かり、それを復元して造られました。

関ヶ原の戦い」で敗北した石田三成が徳川方の敵であったために、住民が石田家の墓石を地中に埋めて守ったのではないかという説もあります。また神社の敷地内では、石田三成の悲しい辞世の句が刻まれた歌碑も観られますので、ぜひチェックしてみましょう。

続いて神社から北へ向かうと、石田三成が生まれた際に、その産湯(うぶゆ)を汲んだと伝わる井戸があります。どれも佇まいが控えめで落ち着きを感じさせる石田町の史跡は、生真面目だった石田三成の人柄を偲ばせるように街に溶け込んでいるのです。

なお、石田会館をはじめとする周辺のスポットでは、毎年11月の第1週目に「石田三成祭」を開催。石田三成の法要を執り行なうだけでなく、ステージイベントやスタンプラリーなどの催しで大いに盛り上がり、この日は全国からたくさんの人が集まります。年に1度、石田三成生誕の地で行なわれるこのお祭りは、石田三成ファンの歴女必見のイベントです。

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石田三成と豊臣秀吉の運命の出会いに思いを馳せる観音寺

三献の茶

三献の茶

石田町から車を10分ほど走らせると、「三献の茶」(さんこんのちゃ)として知られる逸話の舞台となった「観音寺」(かんのんじ:現在の滋賀県米原市)まで辿り着きます。

石田三成が、まだ「佐吉」(さきち)と呼ばれていた幼少期。石田村の裏山を越えた場所に位置する観音寺に預けられた佐吉は、日々修行に励んでいました。ゆくゆくは出家して僧になるはずだった佐吉が、鷹狩りに訪れた長浜城主・豊臣秀吉と出会ったとき、彼はまだ14歳の少年でした。

寺で休んでいた豊臣秀吉に、佐吉少年は3杯のお茶を差し出します。その1杯目は、大ぶりの茶碗にぬるめのお茶。喉が渇いていた豊臣秀吉はこれを一気に飲み干しました。さらに佐吉は、2杯目に半分の量で熱めのお茶を出し、豊臣秀吉がもう1杯頼むと、さらに小さな椀に熱い茶を出したと言います。この細やかな心遣いに感心した豊臣秀吉は、自身の家臣とするために、佐吉を城へ連れて帰ったと伝えられているのです。

この三献の茶の逸話は実際のところ、どの史実にも残っておらず真実は定かではないのですが、観音寺の境内には、石田三成がこのときに水を汲んだという井戸が今も残されています。

2018年(平成30年)、観音寺では新たな試みとして、石田三成をより深く学んで体感できる、全国初の「石田三成専門ブックカフェ」をオープン。石田三成関連の本が200冊近く揃っているというのも興味深いところです。

仁寿年間(851~854年)に創建されたと伝わる趣ある重要文化財の本堂で、お茶を頂きながらのんびり読書にふけるのも、本好きな歴女の皆さんにとっては有意義な時間になるかもしれません。

佐和山城跡で石田三成の栄光の時代に寄り添う

佐和山城跡

佐和山城跡

石田三成が城主となった、最初で最後の城「佐和山城」(さわやまじょう)は、現在の彦根市内の山上にありました。石田三成の入城時期については諸説ありますが、1590年(天正18年)頃と推測されているのです。

「三成に過ぎたるものが二つあり」という句は、石田三成にはもったいない存在が2つあったことを詠んだ言葉。そのうちひとつが、石田三成の有能な重臣「島左近」(しまさこん:島清興[しまきよおき])。そしてもうひとつは、この佐和山城のことを指しており、それほど立派なお城だったことが窺えます。

佐和山城は、往時は見事な五層天守を有していましたが、関ヶ原の戦いの敗戦後に落城。その後「井伊直政」(いいなおまさ)が城主となり、新たに「彦根城」(ひこねじょう)が築城されるにあたって、佐和山城は解体。現在では、石垣をわずかに残すのみとなりました。

佐和山城跡」は、彦根駅から歩いて約20分の場所にあり、さらに30分ほどのハイキングコースを登ると、本丸跡のある山頂に到着します。この登山道は途中、崖を登ったり、足場の悪い道を通ったりするために滑りやすいので、山歩きの装備をしっかり準備しておくと安心です。

近年では、野生の猿の群れが出没することもあるので、十分な注意が必要。そうして苦労しながら登った本丸跡からは、絶景が広がっています。

琵琶湖や伊吹山(いぶきやま)など、石田三成も目にしたであろう景色を眺めながら、一城の主にまで出世した石田三成の栄光の時代を感じてみましょう。

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主要な史跡を三成タクシーでひと巡り!義の部屋プランでホテル泊

石田三成ゆかりの史跡を巡る戦国好き、そして石田三成好きの歴女の皆さんにおすすめしたい、熱い企画が2つあります。

まずひとつ目は、その名も「三成タクシー」。近江鉄道グループの近江タクシーが行なっており、長浜駅などを起点として、石田三成の足跡を追いながら観光できるタクシーツアーです。この企画でユニークなポイントは、ゲームソフト「戦国無双」(せんごくむそう)シリーズのキャラクターラッピングを施した特別車両となっていること。

導入当初は石田三成のみでしたが、第2弾として、石田三成と縁の深い「大谷吉継」(おおたによしつぐ)と島左近のラッピング車両も追加されました。

このツアーを案内するドライバーは、石田三成、及びそのゆかりの地について一定の研修を受け、認定試験に合格した「三成タクシードライバー」です。約2時間の基本コースの他、時間内での自由なコース設定も可能になっています。

続いておすすめしたいのは、「ホテルサンルート彦根」の宿泊プラン「石田三成“義”の部屋宿泊プラン」です。石田三成の居城があった佐和山を見渡せる立地に建ち、このプランで用意される宿泊部屋は、石田三成のグッズを多数揃えた特別仕様。

石田家の家紋の入った陣幕や、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)の旗印が掲げられ、部屋にいながら、まるで本陣にいるような気分が味わえるとか。石田三成関連のお持ち帰りグッズもご用意。ホテルで過ごすひとときも、余すことなく戦国気分が楽しめるのです。このような企画からは、戦国武将、そして石田三成の人気の高さが窺えます。

石田三成ゆかりの史跡を巡る旅行を計画されている歴女の皆さんは、ぜひこの2つのプランも組み込んでみましょう。

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古戦場を巡る!石田三成苦悩の地 武蔵国

石田三成の生涯を振り返るのに決して外せない出来事のひとつが、「武蔵国」(むさしのくに:現在の東京都埼玉県のほぼ全域、及び神奈川県の東部)で起こった「忍城の戦い」(おしじょうのたたかい)です。

石田三成の主君・豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとなった「小田原の役」(おだわらのえき)の際、「北条氏」(ほうじょうし)に属する「成田氏」(なりたし)の居城であった忍城に、石田三成を総大将として、大谷吉継(おおたによしつぐ)らを派遣します。政務を得意とする頭脳派の石田三成にとって、戦の前線に出る機会はこのときまでほとんどありませんでした。

石田三成にとって初めての戦いの大舞台となった忍城は、歴史小説や映画「のぼうの城」などで広く知られるようになり、現在の埼玉県行田市(ぎょうだし)にて、その姿を観ることができるのです。

豊臣軍が唯一落とせなかった城 忍城

忍城

忍城

関東七名城のひとつに数えられる忍城。戦国時代には関東を支配する北条氏の重要拠点でした。

1590年(天正18年)、関東平定のため北条氏の拠点・小田原へ出陣した豊臣秀吉は、この忍城の侵攻を石田三成に任せます。20,000の軍を率いた石田三成に対し、敵軍はわずか2,000。

豊臣方である石田軍の圧勝と思われましたが、籠城し善戦する成田軍に対し、石田三成は水攻めを計画。ほんの1週間で総延長28㎞もの巨大な堤をあっと言う間に建設し、川の水を引き込みました。ところが、本丸は沈むことなく水に浮いたような姿に。このことから忍城は、別名「浮き城」と称されるようになりました。

その後、豪雨に見舞われ突貫工事の堤はとうとう決壊。洪水は石田軍に襲いかかり、多くの犠牲者を出す結果となってしまったのです。結局、豊臣秀吉が小田原を攻め落としたことで忍城は開城。こういった経緯によって忍城は、豊臣軍が唯一落とせなかった城となったのです。

1469~1487年の文明年間初め頃に築城された忍城は、一度も落城することなく戦国の世を生き抜きました。しかし、残念ながら明治維新の際に取り壊されています。

現在は「忍城跡」として整備され、本丸の跡地に、往時の面影を再現したお城の姿を観ることが可能。「行田市の歴史と文化」をテーマとした展示を行なう「行田市郷土博物館」も併設されています。

忍城攻めの失敗により、「戦下手」というレッテルが貼られることになった石田三成。今でこそ、水攻めは豊臣秀吉の指示であったという説が有力ですが、当時の石田三成がどのような思いを抱えていたのか、忍城を眺めながらゆっくりと想像してみましょう。

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わずか1週間のスピード工事!石田三成が造った全長28㎞の石田堤

石田堤史跡公園

石田堤史跡公園

忍城からレンタサイクルを利用して約30分の場所に、忍城の戦いの際に石田三成が造ったと言われる堤の一部が残されています。

これは「石田堤」(いしだづつみ)と呼ばれ、埼玉県指定史跡の観光スポット。2015年(平成27年)には、駐車場を完備した「石田堤歴史の広場」がオープンし、当時の石田堤の深さまで掘り下げて再現した堤を観られます。

往時の石田堤の総延長は、約28km。石田三成は、この巨大な堤をわずか1週間(一説には5日間)で完成させたと伝えられており、行田市では、そのうち約282mの区間を保存。また石田堤は、行田市だけでなく、その隣の鴻巣市(こうのすし)にも残されているのです。

これらの石田堤を分断するように流れる忍川(おしかわ)に架かっているのが、「堀切橋」(ほりきりばし)。堀切橋を渡るとすぐ、2つの市をまたぐように「石田堤史跡公園」が整備されているので、鴻巣市側の石田堤にも訪れ、行田市側の石田堤との違いを探すのも楽しいかもしれません。

なお堀切橋は、小ぶりながら野外アート風のおしゃれなデザインで、2014年(平成26年)に「土木学会推奨土木遺産」に認定されました。石田三成による水攻めの際、石田堤はこの堀切橋の辺りで決壊しているため、同橋は、ある意味では石田三成ゆかりの史跡と言えます。

石田三成が本陣を築いた丸墓山古墳

さきたま古墳公園

さきたま古墳公園

「丸墓山古墳」(まるはかやまこふん)は、直径が105mもあり、日本最大の「円墳」として有名です。行田市には、「埼玉古墳群」(さきたまこふんぐん)と呼ばれる大型古墳から成る古墳群があり、こちらはそのひとつ。

その広大な敷地は、「さきたま古墳公園」として整備されています。同公園の南側に位置する駐車場から古墳に続くまっすぐな道は、前述した石田堤の名残。

石田三成は、水攻めの際にその様子を確認するため、この丸墓山古墳の頂上に本陣を構えたと伝えられているのです。実際に頂上に登ると、遠くに小さく忍城の姿を確認することができ、石田三成が行なった水攻めがいかに大規模だったのかを実感することが可能。

なお、さきたま古墳公園は、春には桜並木が非常に美しいスポットとしても親しまれ、毎年たくさんの観光客が訪れています。気候の良い春の時期は、お花見をかねての史跡巡りをするのもオススメです。

石田三成ゆかりの史跡

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