歴女オススメ・武将の史跡めぐり

豊臣秀吉ゆかりの史跡

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日本の歴史上、最も出世した人物として語られる「豊臣秀吉」。時代を変えた戦国武将として、「織田信長」、「徳川家康」と共に「戦国三英傑」と称され、農民という低い身分から天下人へと上り詰めた経歴を持つことで、絶大な人気を誇っています。謎に包まれた出自や、物語性を感じる武将人生から、多くの歴女を虜にしてきた天下人。今回は、豊臣秀吉の故郷である愛知と、天下統一を果たした大坂(大阪)に残る豊臣秀吉ゆかりの史跡を見ていきましょう。

戦国三英傑戦国三英傑
戦国時代の三英傑、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康についてご紹介します。

歴女必訪の聖地・名古屋

豊臣秀吉

豊臣秀吉

尾張国愛知郡中村郷中々村(現在の愛知県名古屋市中村区)で生まれた「豊臣秀吉」は、農民出身でありながら武士となり、「織田信長」と出会ったことで、人生が大きく変わっていきました。

出世街道の原点でもある名古屋市中村区には、現在も豊臣秀吉にまつわる多くの史跡が残っています。

彼の生まれ故郷を訪れて、天下人のルーツを探っていきましょう。

豊臣秀吉のルーツ

豊國神社

豊國神社

豊臣秀吉の出生地には、大きく3つの説があり、中村区内では「中村公園」と「常泉寺」(じょうせんじ)、そして「下中八幡宮」(しもなかはちまんぐう)だと言われています。

この中でも、最も有力な説とされているのが中村公園です。

中村公園は、かつて豊臣秀吉の一族が住んでいたとされる場所であり、園内には豊臣秀吉の誕生地であることを示す「豊公誕生之地」という碑が建てられています。

これは、1883年(明治16年)に当時の愛知県令「国貞廉平」(くにさだれんぺい)が自筆で記した碑。これをきっかけに1885年(明治18年)には、豊臣秀吉を神として祀る「豊國神社」(とよくにじんじゃ)がこの地に創建されました。

全国各地に豊臣秀吉を祭る豊国神社はありますが、歴女ならば豊臣秀吉誕生地に建つ豊國神社に参拝しておきたいところです。

こうして、豊臣秀吉誕生地は区民から親しまれる場所となり、中村公園は、この豊國神社を中心に純日本風廻遊式林泉庭園を持つ公園として整備されました。

毎年5月第2土曜日・日曜日には、豊國神社で「太閤まつり」が開かれており、この時期になると多くの人で賑わいを見せています。

加藤清正

加藤清正

また、園内には豊臣秀吉と、中村区で生まれた戦国武将「加藤清正」の2人の歴史を紹介する歴史博物館「名古屋市秀吉清正博物館」があります。

この博物館は、1967年(昭和42年)に開館した「豊清二公顕彰館」(ほうせいにこうけんしょうかん)を、1991年(平成3年)に改築して現在の館名となり、名古屋市博物館の分館となっています。

館内では、織田信長との出会いから天下統一を果たした豊臣秀吉と、豊臣家が滅亡するまでの歴史を詳しく展示。豊臣秀吉の家臣である加藤清正の武将人生も合わせて知ることができるため、豊臣秀吉と家臣の関係性も学べる内容となっています。

さらに同館では、豊臣秀吉が着用していた甲冑「色々威二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)も収蔵。常時展示はされていませんが、タイミング次第では、豊臣秀吉の貴重な遺品を鑑賞できるチャンスもあります。

豊臣秀吉の誕生地・中村公園でルーツを学び、豊國神社で出世祈願をするのも歴女らしい楽しみ方です。

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加藤清正が建立した豊臣秀吉の廟堂

常泉寺

常泉寺

中村公園を出たら、公園に隣接して鎮座している寺院・常泉寺へ。

常泉寺は、豊臣秀吉誕生地説が語られている場所で、この地は豊臣秀吉の継父「筑阿弥」(ちくあみ)の宅跡だったとされる場所。

そこに豊臣秀吉を崇拝していた家臣の加藤清正が、豊臣秀吉の廟堂(びょうどう:先人の霊を祀る場所)を建てるために創建した寺院だと伝えられています。

常泉寺に安置されている御神体は、加藤清正が豊臣秀吉の跡を継いだ「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に懇願。「大坂城」から常泉寺に遷座したと言われている、「豊太閤の肖像」の木像です。

荘厳な佇まいの常泉寺は、かつて、この土地にあった井戸から涸れることのない名水が湧き出ていたことから、常泉寺と名付けられました。この井戸は、豊臣秀吉誕生時にも使われたという伝説もあることから「産湯の井戸」と呼ばれ、現在も境内に残されています。

1965年(昭和40年)以降は、名古屋市の発展に伴う地下水の変動が影響して湧水が枯れてしまいましたが、その後も井戸の復活を望む人々の声が多かったことから、平成になってから工事が行なわれ、こんこんと湧き出る清泉が甦りました。

境内には、歴女に注目してもらいたいもうひとつのスポットがあります。それは、豊臣秀吉が11歳のときに植えたと言われている、豊臣秀吉手植えの柊です。寺伝によると、1590年(天正18年)の「小田原征伐」の際に、この地に立ち寄った豊臣秀吉が、かつて自身が植えた柊が立派に育っているのを見て「この柊を大切にするように」と、自ら柊に添え竹を施したと伝えられている立木。それ以降、現在に至るまで柊は枯れることなく成長していると言われています。

豊臣秀吉と加藤清正が、この地に残した湧水と柊。神聖なパワーを感じ取りに、ぜひ訪れてみて下さい。

関西で巡る豊臣秀吉の足跡

尾張で織田信長と出会い、主君の右腕としてみるみるうちに頭角を現していった豊臣秀吉。「本能寺の変」で織田信長が亡くなったあと、豊臣秀吉は数々の戦いを勝ち進み、宿敵であった「徳川家康」を配下に置くことに成功すると、関西を拠点として天下統一を達成しました。

天下人となった豊臣秀吉は以後、亡くなるまで関西を拠点としていたことから、豊臣秀吉と言えば関西というイメージを持っている方も多いかもしれません。豊臣秀吉のルーツを辿ったあとは、彼が頂点に君臨して栄華を極めた関西の史跡を巡ってみましょう。

天下人が築いた巨城・大坂城

大坂城

大坂城

天下人・豊臣秀吉を象徴する場所と言えば、現在の大阪市中央区にそびえ立つ大坂城(大阪城)です。

豊臣秀吉は、生涯でいくつものお城を築いてきましたが、豪華絢爛な大坂城は、まさに豊臣秀吉の最高傑作だと言えます。

豊臣秀吉が大坂城を築いたのは、1583年(天正11年)。

賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で「柴田勝家」(しばたかついえ)を破り、織田信長の後継者争いに勝利した年でした。

大坂城が築かれた当時の生玉荘大坂の地は、浄土真宗の本山である「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)の跡地であり、寺院でありながら、戦に備えて堀や塀で武装を固めていたため、もともと砦が築かれていたと言われています。

石山本願寺は、織田信長の天下統一に反発した門徒が、1570年(元亀元年)の「石山合戦」(いしやまかっせん)に敗れたことで大坂を去ることとなったとき、この土地に目を付けていた豊臣秀吉が跡地に大坂城を築いたのです。

豊臣秀吉は大坂城を築く際、織田信長が初めて大天守を築いた「安土城」(あづちじょう)をモデルにしたと言われています。そして、豊臣秀吉は織田信長の後継者であることをアピールしつつ、「織田信長越え」を意識していたのでしょう。黄金に輝く外観5層の大天守を築いた豊臣秀吉は、多くの来客を呼んで本丸内を自ら案内し、訪れた者達を驚かせていました。その豪壮華麗な城郭は「三国無双の城」と例えられていたと言われています。

その後、豊臣秀吉は15年もの歳月をかけて難攻不落の巨城を築き上げ、大坂の城下町を全国の中心都市として発展させていきました。

しかし、豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と豊臣家が対決した「大坂冬の陣・夏の陣」で敗れた豊臣家は滅ぼされ、大坂城は破却。そのため、現在大坂城に残っている遺構は、すべて徳川期に再建された物で、残念ながら豊臣秀吉の天下の証しは、大坂城から跡形もなく消えてしまっているのです。

1931年(昭和6年)に復興された大天守は、現在も大阪市のシンボルとなっています。復興天守は、豊臣期と徳川期を合わせた様式となっているため、歴女の皆さんは、外観や構造を細かくチェックしてみてはいかがでしょうか。

現代に残る豊臣期の石垣

豊臣期の石垣

豊臣期の石垣

徳川幕府によって取り壊されてしまった豊臣期の大坂城。

豊臣期の遺構は、もう観ることができないのかと諦めている歴女に、ぜひ訪れてもらいたいスポットがあります。

城内への出入口となっていた京橋口付近に建つドーンセンター(大阪府立男女共同参画・青少年センター)には、なんと豊臣期の石垣が残っているのです。

この石垣は、1984年(昭和59年)に実施された追手門学院小学校の建替えに伴う調査で初めて発掘され、その後、平成に入ってすぐに行なわれたドーンセンター建設の調査において、東西に150mにも及ぶ石垣が連なっていたことが発見されました。

特に、ドーンセンターの建設地に残っていた石垣は状態も良く、現在はドーンセンターの北側に位置する敷地内に移築復元されています。この石垣は、豊臣期の三の丸で使用されていたようで、花崗岩(かこうがん)の自然石を中心に形成されていた石垣を、出土した状態で復元しているのです。

豊臣期における大坂城の唯一の遺構を見ることができる貴重な場所となっているので、大坂城と合わせて歴女必見のスポットです。

豊臣秀吉が眠る豊国神社

豊国神社

豊国神社

最後にご紹介する場所は、天下人・豊臣秀吉が、神として祀られるようになった京都の聖地「豊国神社」です。

京都と言えば、豊臣秀吉が大坂と共に町づくりを活発に行なっていた場所で、晩年の住み処であり、最期を迎えた場所。

京都市東山区の「京都国立博物館」の隣に鎮座している豊国神社は、地元民から「ホウコクさん」という名で親しまれており、全国の豊国神社の総本社となっています。

豊臣秀吉は、生前から自身の霊が神として祀られることを望んでいました。そして、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が63歳で亡くなると、遺言に従い、現在の豊国神社付近にあたる「阿弥陀ヶ峰」(あみだがみね)の山腹に遺体が埋葬され、頂上には廟所が建てられて、山麓には社殿を建立。これが豊国神社の始まりだとされており、翌年には遷宮式が行なわれました。

このとき、朝廷から「豊国大明神」の神号が下賜されると、豊臣秀吉を神格化した豊臣家による宗教信仰は計画的に進められ、以後、毎年の豊臣秀吉の命日には、盛大な祭礼である「豊国祭」が執り行なわれていきます。

特に、豊臣秀吉の7回忌にあたる1604年(慶長9年)に行なわれた「豊国大明神臨時祭」は、これまでにないほど豪華な大祭礼となったのです。ちなみに、当時の豊国祭の熱狂ぶりは、豊国神社の宝物館に所蔵されている「豊国祭礼図屏風」に描かれています。

ところが、1615年(元和元年)に豊臣氏が滅亡すると、豊臣秀吉の廟所は破壊され、広大な社地は整備されないまま荒地となってしまうことに。その後、豊臣秀吉300年忌を迎えた1897年(明治30年)に、廟所が再建されることとなり、巨大な五輪石塔が建てられた「豊国廟」が完成しました。

1880年(明治13年)に豊国神社の社殿も再建され、現在は日本一の出世人である豊臣秀吉を祀っていることから、出世開運の神様として全国から参拝客が訪れています。

また、境内で歴女が注目すべきポイントは、神社正面の国宝に指定されている大唐門です。

これは、豊臣秀吉が晩年過ごし、最期の場所となった伏見城の遺構と伝えられており、京都市内の「西本願寺」、「大徳寺」の唐門と合わせて「国宝三唐門」と呼ばれています。

農民から武士となり、天下人、そして神として祭られた豊臣秀吉。彼の壮大な人生の終着点でもある京都・豊国神社は、歴女必訪のパワースポットと言えるのではないでしょうか。

豊臣秀吉ゆかりの史跡

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