歴女オススメ・武将の史跡めぐり

真田幸村ゆかりの史跡

文字サイズ

赤い甲冑を身にまとった勇猛な武将というイメージで、歴女からの人気も高い「真田幸村」(さなだゆきむら)。戦国武将を題材にしたゲームで主要キャラクターにも選ばれていることから、武将ブームの火付け役のひとりとも言える人物です。
真田幸村と言えば、誰もが一度は聞いたことのある名だと思いますが、実は本名は「真田信繁」(さなだのぶしげ)。生前「幸村」という名を名乗ったことはなかったと言われています。しかし、江戸時代を通して多くの作品で描かれていく中で、真田幸村という名が定着していったのです。真田幸村という名が、完全に創作された名前であったのか真偽は定かではありませんが、今回は現代の歴女から親しまれている呼び名の真田幸村で統一させて頂きます。
多くの創作物に描かれ、時代を超えて人々を魅了してきた真田幸村の史跡を見ていきましょう。

真田氏のふるさと上田で真田幸村の足跡を辿る

真田幸村

真田幸村

真田幸村(真田信繁)の出生には諸説ありますが、「伊達政宗」(だてまさむね)や「立花宗茂」(たちばなむねしげ)と同年の1567年(永禄10年)に生を受けたという説が有力です。

当時、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)を本拠としていた武田氏に仕えていた父・真田昌幸(さなだまさゆき)の次男として生まれた真田幸村は、真田氏のルーツである信濃国小県郡上田(しなののくにちいさがたぐんうえだ:現在の長野県上田市)で、父と共に「徳川家康」を生涯の敵として戦う運命を背負いました。

戦国の世で、真田幸村が父と共に守り抜いた上田には、現在も真田家ゆかりの地として多くの観光名所があります。

まず、上田駅に降り立つと、馬に乗って颯爽と駆け抜ける真田幸村を再現した「真田幸村公像」が歴女をお出迎え。若かりし頃の凛々しい真田幸村と記念撮影を済ませたら、聖地巡礼の始まりです。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 戦国大名の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。


戦国武将「真田幸村」 YouTube動画

戦国武将「真田幸村」

真田丸
武将イラスト・合戦イラスト集武将イラスト・合戦イラスト集
武将イラスト・合戦イラスト集では、戦国時代に活躍した武将達を中心に、今にも動き出しそうなリアルタッチで描いたイラストを掲載しています。

難攻不落の名城!真田幸村の父が築いた上田城

上田城 東虎口櫓門

上田城 東虎口櫓門

上田駅から約10分歩いて坂道を登り切ると、上田市のシンボルである「上田城」に到着。「日本100名城」や「日本夜景遺産」にも選ばれている上田城は、1年を通して多くの観光客で賑わいをみせています。

また、2016年(平成28年)に大河ドラマ「真田丸」がブームとなったことで、ドラマの舞台である上田城は、全国的な注目を集めたのです。

上田城は、1583年(天正11年)に真田幸村の父・真田昌幸によって築城され、当時は「千曲川」(ちくまがわ)の分流であった尼ヶ淵(あまがふち)に面していました。

上田城は、1585年(天正13年)の第一次上田合戦、そして1600年(慶長5年)の第二次上田合戦で2度も徳川の大軍を撃退したことで知られており、このことから「難攻不落の城」と呼ばれるようになったのです。

関ヶ原の戦い」ののち、上田城は破却されてしまいましたが、真田氏に代わって入城した仙石氏が再建。現存する石垣や西櫓は、江戸時代に造られました。

本丸跡は現在、公園として整備されていますが、堀や土塁は真田昌幸の時代に築かれた物。城好き歴女ならば、じっくり鑑賞したいポイントです。

また、1994年(平成6年)に復元された「東虎口櫓門」(ひがしこぐちやぐらもん)も見所のひとつ。この門の石垣の一部には、城内一巨大な石である「真田石」が使われています。

本丸跡には、真田幸村と上田城の歴代城主を祀る「眞田神社」(さなだじんじゃ)や、真田一族にまつわる貴重な品を展示している「上田市立博物館」などの観光スポットが点在。

毎年4月下旬には「上田真田まつり」が開催され、真田幸村や真田一族の歴史を感じられるイベントも行なわれています。真田幸村ファンの歴女は、ぜひ開催日を狙って訪れてはいかがでしょうか。

真田幸村の原点!真田発祥の地 真田町

石碑・真田氏記念公園

石碑・真田氏記念公園

上田城を満喫したあとは、車で10分ほど郊外へ進み、真田氏発祥の地である真田町へ。

真田幸村の原点とも言える真田町の入口には「真田氏記念公園」があり、「真田家発祥の郷」という石碑が建っています。

実は、この石碑に彫られた字は、真田一族を描いた歴史小説「真田太平記」(さなだたいへいき)の著者「池波正太郎」(いけなみしょうたろう)による物。公園内には、真田家を発展させた祖父・真田幸隆(ゆきたか)、父・真田昌幸、そして真田幸村の真田家3代の巨大レリーフが置かれていますが、このレリーフは、上田市出身の彫刻家「岡田益雄」の作品。

石碑と巨大レリーフを見ると、真田発祥の地にやってきたという実感が得られます。真田幸村ファンの歴女ならば、必ず立ち寄りたい撮影スポットです。

真田幸村の隠し湯!?別所温泉・石湯

別所温泉・真田幸村隠しの湯

別所温泉・真田幸村隠しの湯

上田駅から上田電鉄別所線に乗って、終点まで揺られること約30分。電車を降りると、そこは信州最古の温泉地「別所温泉」(べっしょおんせん)の入口です。

かつて、武将達は温泉に浸かって戦の疲れや傷を癒やしていたと言われています。歴女の中には、温泉巡りが好きな方も多いのではないでしょうか。

別所温泉は、「枕草子」(まくらのそうし)にも記載がある歴史ある温泉で、戦国時代には上田城主である真田氏と家臣団が入湯していたという記録も。真田氏の聖地巡礼には欠かせないスポットです。

また、歴史小説・真田太平記では、真田幸村がたびたび別所温泉を訪れるシーンが描かれています。なかでも、大きな自然石で造られた岩風呂がある「石湯」は、真田幸村と主要人物達との重要なシーンの舞台となっており、別所の湯は真田幸村の「隠し湯」だったとされているのです。

この石湯の前には、「真田幸村公隠しの湯」という標石が建てられており、これは真田町の石碑と同様に、池波正太郎の筆跡。

さらに、石湯から歩いて約10分の場所には、真田太平記で真田幸村の定宿として描かれている古刹(こさつ:歴史のある寺院)「安楽寺」(あんらくじ)も。歴女としては、真田家ゆかりの別所の湯宿に泊まって旅の疲れを癒やしながら、上田市の聖地を巡ってみたいものです。

大坂冬の陣・夏の陣の史跡を巡る

真田家の本拠地・信州上田で真田幸村のルーツを辿ったあとは、やはり真田幸村が大活躍した大阪(大坂)も外せません。

関ヶ原の戦いで支持した「西軍」が敗れたため、父・真田昌幸と共に高野山へ蟄居(ちっきょ:武士または公家に対して科せられた 刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させること)を命じられていた真田幸村。蟄居中に父・真田昌幸を亡くし、14年の月日を経て最後の戦いに臨むため、真田幸村は大坂城へと向かいます。

豊臣家徳川家が繰り広げた大合戦「大坂冬の陣・夏の陣」において、真田幸村が現代の大阪に遺した戦の功績を辿りましょう。

真田幸村が築いた真田丸跡に建つ心眼寺

心眼寺

心眼寺

豊臣軍の要請に応えて、山を抜け出し大坂城へ入城した真田幸村。

1614年(慶長19年)の最初の戦い「大坂冬の陣」では、真田幸村は大坂城の唯一の弱点である南方に、「真田丸」(さなだまる)という出城を築きます。

この真田丸における戦いにおいて、圧倒的な数的不利をものともせず、真田隊は徳川軍を翻弄。大将の徳川家康は、豊臣方との講和の道を模索し始めます。

こうして真田幸村は、徳川軍を苦戦させた武将として武功を挙げ、その名を轟かせることとなりました。

現在も城の周辺地区には、真田丸の史跡が残されています。まず、大阪城と一緒に巡る史跡として歴女にお薦めしたいのが「心眼寺」(しんがんじ)。この寺院は、安土桃山時代後期の「豊臣秀吉」の時代に創建され、大坂冬の陣のあとに真田丸と共に取り壊されました。

しかし、1622年(元和8年)に真田家の先祖にあたる海野氏(うんのし)が復興。心眼寺は、現在の真田丸跡に真田幸村と嫡男・真田幸昌(ゆきまさ:通称・大助)を供養するために再建されました。「大坂夏の陣」で命を落とした真田幸村と、敗戦の末に殉死した息子・幸昌は、真田丸が築かれた場所で供養されていたのです。

寺院の山門横には、真田丸の跡地を示す「真田幸村出丸城跡」という石碑もあります。かつて真田幸村が徳川軍を翻弄した真田丸の跡地に鎮座する心眼寺。真田幸村ファンの歴女には、ぜひ参拝に訪れてもらいたい寺院です。

大坂城への抜け穴!?が残る三光神社

三光神社境内

三光神社境内

大阪城東南部の丘陵地の宰相山公園(さいしょうやまこうえん)内に鎮座する「三光神社」(さんこうじんじゃ)。

第18代「反正天皇」(はんぜいてんのう)が在位していた5世紀頃に創建されたと伝えられる歴史ある神社の境内には、真田幸村が掘ったとされる城への抜け穴があることで知られています。

大坂冬の陣で真田丸を築いた際、真田幸村は大坂城と真田丸を結ぶ地下道を設けていたという言い伝えがあり、現在も三光神社の境内に残されているこの穴が、秘密のルートの跡ではないかと考えられているのです。

この穴の脇には、1987年(昭和62年)に建てられた真田幸村の銅像があります。冒頭で紹介した真田幸村のふるさと・上田駅にある騎馬像は、青年らしさが感じられる凛々しい姿でしたが、この銅像は大坂冬の陣・夏の陣で指揮を執る真田幸村を再現しているため、雄々しく気魄の感じられる姿です。

また、台座には上田にある真田家菩提寺「長谷寺」(ちょうこくじ)の石が使われているとも言われています。真田幸村が掘った抜け穴と、最後の戦いに挑む真田幸村の姿は歴女必見です。

歴女必訪!真田幸村最期の地 安居神社

安居神社

安居神社

大坂冬の陣の翌年、真田幸村にとって最後の戦いとなる大坂夏の陣が始まります。

徳川家康からの講和を受け入れていた豊臣方は、大坂城の一部と真田丸の取り壊し、さらに堀の埋め立てを許可していたため、圧倒的に不利な立場に陥ることに。

真田幸村は丸裸になった大坂城から飛び出して、徳川家康の首を取るために徳川本陣に突撃します。徳川本陣の「馬印」を倒し、徳川家康に自害を覚悟させるなど、あと1歩のところまで追い詰めた真田幸村でしたが、最終的に力尽きてしまいました。

精根尽き果て、神社の境内にある松の下で休んでいた真田幸村は、「松平忠直」(まつだいらただなお)隊の「西尾仁左衛門」(にしおにざえもん)に討たれ、49歳で人生の幕を閉じたのです。

この真田幸村終焉の地とされている神社が、現在も大阪市天王寺区に鎮座している「安居神社」(やすいじんじゃ)。

安居神社の歴史は古く、もともと国造りの神様である「少彦名神」(すくなひこなのかみ)を祭神として祀っていたところ、太宰府へ左遷された「菅原道真」(すがわらのみちざね)が道中に立ち寄って休憩したことをきっかけに、菅原道真の死後942年(天慶5年)に村人達によって菅原道真も共に祀られるようになったと伝えられています。

真田幸村は、菅原道真が休憩していた場所だということを知っていたのか否かについては定かではありません。

現在、神社の境内には、真田幸村が最後に休息を取ったと言われている一本松の2代目「さなだ松」が植えられており、真田幸村がこの地で戦死した証しとして、「真田幸村公之像」と「真田幸村戦死跡之碑」も建てられています。

注目すべきは真田幸村の銅像。三光神社に建っている、戦に燃える真田幸村像とは対照的に、立てひざをついて座り、松の下で休む真田幸村の姿は、どこか儚げな印象です。真田幸村最期の地である安居神社は、真田幸村の足跡を辿った歴女が行きつく最後の場所なのかもしれません。

果敢な突撃によって、徳川軍をあと1歩のところまで追い込んだ様子について「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評された真田幸村。戦国最後の名将として歴史に名を刻んだ彼の原点と終着点を辿る歴女旅を計画してみてはいかがでしょうか。

真田幸村ゆかりの史跡

真田幸村ゆかりの史跡をSNSでシェアする

「歴女オススメ・武将の史跡めぐり」の記事を読む


細川忠興ゆかりの史跡

細川忠興ゆかりの史跡
「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」といった権力者に仕え、戦国の世を渡り歩いた武将「細川忠興」(ほそかわただおき)。細川家と言えば、清和源氏の名門・足利家の支流で、父「細川藤孝/幽斎」(ほそかわふじたか/ゆうさい)は、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に幕臣として仕えていました。細川忠興は、文化人としても有名な父の血を受け継ぎ、猛将でありながら優れた教養人として歴史に名を残した人物です。一方で、妻への愛が「深すぎる」武将としても語られてきた細川忠興。「エリート武将」と「危ない夫」という二面性が、歴女の好奇心を掻き立てる存在でもあります。 今回は、強烈な個性で歴女にも人気の高い戦国武将・細川忠興の人物像に迫りながら、ゆかりのある関西と九州の史跡を辿ってみましょう。

細川忠興ゆかりの史跡

石田三成ゆかりの史跡

石田三成ゆかりの史跡
天下人「豊臣秀吉」にその才を見出され、のちに豊臣政権の五奉行にまで上りつめた「石田三成」(いしだみつなり)は、歴女人気の非常に高い戦国武将のひとりです。武将と言っても石田三成は、武功を挙げることよりも聡明な頭脳を活かし、「太閤検地」(たいこうけんち)などの難易度の高い政務をこなしたことから、知略に長けた生真面目な「智将」として知られています。 石田三成は、主君・豊臣秀吉の右腕として共にあり、豊臣秀吉の死後もなお、豊臣家に忠義を尽くしたという「義」の人物。群雄割拠(ぐんゆうかっきょ:多くの英雄達が各地に勢力を持ち、互いに対立して競うこと)の戦国時代を駆け抜けた石田三成の史跡をご紹介します。

石田三成ゆかりの史跡

本多忠勝ゆかりの史跡

本多忠勝ゆかりの史跡
徳川四天王のひとりで、生涯「徳川家康」を支え続けた「本多忠勝」(ほんだただかつ)。初陣から57回の戦歴のなかで1度も手傷を負わなかったという武勇伝を持ち、戦国最強の武将とも語られている人物です。本多忠勝の猛将ぶりもさることながら、徳川家康に忠義を尽くした重臣という性格が、歴女からの人気が高い理由のひとつ。ここでは、徳川家康に追従して拠点を置いた、東海・関東の本多忠勝ゆかりの史跡を紹介します。

本多忠勝ゆかりの史跡

黒田長政ゆかりの史跡

黒田長政ゆかりの史跡
九州の最大都市、福岡ゆかりの武将として知られる「黒田長政」(くろだながまさ)。父は天才軍師と呼ばれた「黒田孝高」(くろだよしたか)こと通称「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)です。 近年では、2014年(平成26年)に放映されたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」によって、黒田親子が一躍脚光を浴びました。「関ヶ原の戦い」で戦功を挙げたことで、福岡藩初代藩主を務めることとなった黒田長政は、1601年(慶長6年)から約7年の歳月をかけて「福岡城」を築き、城下町を発展させていったのです。 今回は、歴女ならば一度は訪れたい壮大なスケールの福岡城跡を中心に、福岡の基盤を築いた黒田長政の史跡を見ていきます。

黒田長政ゆかりの史跡

前田利家ゆかりの史跡

前田利家ゆかりの史跡
「前田利家」と言えば、派手な長槍を振り回し、「槍の又左」(やりのまたざ)と呼ばれた「かぶき者」として有名な人物。派手好きな長身美男子という風貌でありながら、勇ましい猛将である前田利家に、心を掴まれる歴女も多いはず。血気盛んな青年時代から壮年期まで、前田利家が過ごした町を舞台に、前田利家ゆかりの史跡を巡っていきましょう。

前田利家ゆかりの史跡

徳川家康ゆかりの史跡

徳川家康ゆかりの史跡
戦国時代を終わらせ、泰平の世となった江戸時代を築いた「徳川家康」。戦国の最終覇者として、歴女からの人気はもちろんのこと、誰もが知る戦国武将のひとりです。そんな徳川家康が、実は幼少期から天下人を目指すまでは、苦難の人生を歩んでいたことをご存じでしょうか。 今回は、江戸幕府300年の礎を築いた将軍・徳川家康のルーツとなった史跡に焦点をあて、天下人への道を歩むきっかけとなった、徳川家康ゆかりの地をご紹介します。

徳川家康ゆかりの史跡

伊達政宗ゆかりの史跡

伊達政宗ゆかりの史跡
歴女ブームの火付け役として知られる戦国武将「伊達政宗」。伊達政宗を主人公に据えたゲームが大ヒットしたことで、幅広い年齢層の女性ファンが歴史の世界へ誘われることになり、伊達政宗に魅了される歴女は増え続けています。 伊達家の繁栄をかけて戦国の世を駆け抜けた伊達政宗は、奥州(おうしゅう:現在の東北地方)の覇者となってからも飽くなき野望を抱き続け、天下取りを夢見ていました。今回は、伊達政宗が戦国から江戸時代にかけて拠点地としていた宮城県に伝わる史跡をご紹介します。

伊達政宗ゆかりの史跡

豊臣秀吉ゆかりの史跡

豊臣秀吉ゆかりの史跡
日本の歴史上、最も出世した人物として語られる「豊臣秀吉」。時代を変えた戦国武将として、「織田信長」、「徳川家康」と共に「戦国三英傑」と称され、農民という低い身分から天下人へと上り詰めた経歴を持つことで、絶大な人気を誇っています。謎に包まれた出自や、物語性を感じる武将人生から、多くの歴女を虜にしてきた天下人。今回は、豊臣秀吉の故郷である愛知と、天下統一を果たした大坂(大阪)に残る豊臣秀吉ゆかりの史跡を見ていきましょう。

豊臣秀吉ゆかりの史跡

直江兼続ゆかりの史跡

直江兼続ゆかりの史跡
歴女人気の高い戦国武将「上杉謙信」の跡を継ぎ、出羽国置賜郡(でわのくにおきたまぐん:現在の山形県南部置賜郡地方)米沢藩初代藩主となった「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)。そして、上杉景勝の右腕として藩政を主導し、米沢藩上杉家を生涯かけて支え続けた人物と言えば「直江兼続」(なおえかねつぐ)です。 上杉謙信の遺志を継ぐ者として語られることの多い直江兼続は、家老でありながら2009年(平成21年)に放映されたNHK大河ドラマ「天地人」の主人公に抜擢され、上杉謙信と同様に歴女から圧倒的な人気を集める戦国武将になりました。今回は、上杉謙信亡きあとの上杉家を守った名将・直江兼続の史跡をご紹介します。

直江兼続ゆかりの史跡

注目ワード
注目ワード