歴女オススメ・武将の史跡めぐり

徳川家康ゆかりの史跡

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戦国時代を終わらせ、泰平の世となった江戸時代を築いた「徳川家康」。戦国の最終覇者として、歴女からの人気はもちろんのこと、誰もが知る戦国武将のひとりです。そんな徳川家康が、実は幼少期から天下人を目指すまでは、苦難の人生を歩んでいたことをご存じでしょうか。
今回は、江戸幕府300年の礎を築いた将軍・徳川家康のルーツとなった史跡に焦点をあて、天下人への道を歩むきっかけとなった、徳川家康ゆかりの地をご紹介します。

天下人・徳川家康の始まりとなった生誕地 愛知県岡崎市

徳川家康

徳川家康

1542年(天文11年)、三河国(現在の愛知県東部)の「岡崎城」(おかざきじょう)内で誕生した「徳川家康」。

三河国の土豪「松平氏」(まつだいらし)の嫡男として生まれましたが、戦乱の影響を受けた幼少期から少年期にかけて、「織田信長」の父「織田信秀」(おだのぶひで)や「今川義元」(いまがわよしもと)のもとで、人質生活を送っていました。

幼い頃に父母と別れた徳川家康は、このように不遇の少年時代を過ごしましたが、幾多の困難を乗り越えた19歳の頃に、再び岡崎城へと戻ることができたのです。

徳川家康が生まれた城 岡崎城

岡崎城

岡崎城

岡崎城の歴史は、室町時代中期に、三河国の守護代を務めていた「西郷稠頼」(さいごうつぎより)・「西郷頼嗣」(さいごうよりつぐ)親子が、城郭を建てたことに始まります。

そして、徳川家康が生まれる約10年前、祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)が、この城を奪って改修し、現在地に岡崎城を築きました。

その後、今川氏のもとで成長した徳川家康が、主君・今川義元の死をきっかけに岡崎城を取り戻し、ここを軍事拠点として、その活躍の場を広げ、新しい時代を切り拓いていったのです。

徳川家康が天下統一を果たしたあと、岡崎城は「神君出生(しんくんしゅっせい)の城」と称され、神聖視されるようになっていきます。そのため、江戸時代を通して岡崎城には、家格の高い譜代大名が入城し、「本多氏」(ほんだし/ほんだうじ)や「松平氏」などが、歴代城主を務めました。

岡崎藩の石高は、5万石前後と少なかったものの、岡崎城主になることが、大名にとっては誇り高き名誉だったのです。

しかし、明治維新を迎えると、1873年(明治6年)の「廃城令」によって、岡崎城における城郭の大部分が取り壊されることに。同城の堀と石垣の一部は、その後も往時の面影を残していましたが、岡崎のシンボルである天守閣を復元させたいという市民の声が広がったことで、1959年(昭和34年)に、忠実に復元した天守閣が建てられることとなりました。

こうして、3層5階建ての天守が復元された岡崎城は、2006年(平成18年)に「日本100名城」に選定され、現在も多くの観光客が訪れる、徳川家康ファンはもちろん、歴女を含む歴史ファンの聖地となっているのです。

岡崎城内では、各階で展示が行なわれ、ジオラマシアターなども設置されており、岡崎城の歴史を紹介する歴史資料館となっています。また、最上階には、岡崎市内を一望できる展望室も。かつての徳川家康も天下統一を夢見ながら、この景色を眺めていたかと思うと感慨深いものです。

神君・徳川家康が生まれた岡崎城は、歴女の皆さんにとって、天下人のパワーを感じられる特別なスポットだと言えます。

現在の岡崎城の城跡は、岡崎市のシンボルである「岡崎公園」として整備されており、桜の名所としても知られる観光スポットのひとつです。

岡崎城へ行こう!徳川家康が生まれた城
徳川家康生誕の地「岡崎城」や岡崎公園内にある家康ゆかりのスポットをご紹介。
岡崎城写真集
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「岡崎城」
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三河武士のやかた家康館で徳川家康のルーツを学ぼう

三河武士のやかた家康館

三河武士のやかた家康館

岡崎城と合わせて見学したいポイントが、岡崎公園内にある「三河武士のやかた家康館」。

ここでは、岡崎城で誕生した徳川家康が、天下統一を果たすまで道のりを紹介すると共に、徳川家康を支え続けた「三河武士」にもスポットがあてられています。

徳川家康が天下統一できたのも、この三河武士の活躍があったからと言われているほど、彼らは徳川家康の生涯を語るうえで欠かすことのできない存在でした。

三河武士と徳川家康の関係を学びながら、徳川家康が岡崎城から天下を目指した歴史について、詳しく学ぶことができる資料館です。

館内の地階展示室では、徳川家康をこの世に送り出した松平氏の発祥から江戸時代の幕開けまでを、4つの時代に区分し、常設展示で紹介しています。

なかでも、歴女の皆さんに注目して頂きたいポイントは、徳川家康が勝利を掴んだ「関ヶ原の戦い」を再現したコーナー。ここでは「決戦!関ヶ原」と題した直径7mの可動式ジオラマや、大型スクリーンで合戦の様子を鑑賞できます。

また、火縄銃や長槍などの模型も設置されており、兜の模型をかぶって戦国武将の装備を体験することが可能。さらには、1階展示室と特別展示室では、1年を通して、大人から子どもまで誰でも楽しめる、様々な企画展示が行なわれています。

そして、三河武士のやかた家康館前の広場で観られるのが、1990年(平成2年)に完成した高さ約6mの時計塔。毎時00分、30分になると、徳川家康が能を舞い、遺訓を語るというからくりが仕掛けられているのです。三河武士のやかた家康館を訪れたら、珍しい徳川家康のからくり時計もぜひ見学してみましょう。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

歴女にオススメな撮影スポット!岡崎公園内に建つ4つの徳川家康像

徳川家康 石像

徳川家康 石像

岡崎公園内には、徳川家康のからくり時計の他にも、歴女の皆さんに注目して頂きたい撮影スポットがいくつかあります。

なかでも、特にオススメしたいのが、各時代の徳川家康をもとに造られた4つの徳川家康像です。

まずは、からくり時計がある広場で観られる、徳川家康ファンにはお馴染みの肖像画「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(とくがわいえやすみかたがはらせんえきがぞう)をもとに立体化した石像。

もとの肖像画は、通称「しかみ像」と呼ばれており、当初は、1572年(元亀3年)に行なわれた「三方ヶ原の戦い」において、「武田信玄」率いる大軍に敗戦した徳川家康の悔しさを表していると伝えられていました。

しかし現在では、神格化した徳川家康を表現した作品だという見解も示されています。この肖像画を忠実に立体化した徳川家康像は珍しいので、歴女必見のポイントです。

そして、広場から天守へ向かう途中には、1965年(昭和40年)、徳川家康没後350年を記念して建てられた銅像「徳川家康公像」があります。次に観られるのは、1992年(平成4年)の「家康公生誕450年祭」の際に寄贈された、「松平元康像」(まつだいらもとやすぞう)。改名前の若き徳川家康の姿を再現した松平元康像の背景には、石垣に流れる滝が表現されており、生誕地である岡崎から、天下人へとのし上がる徳川家康の姿が感じられます。

最後は、天守の近くに造られた「家康公・竹千代像ベンチ」に座って記念撮影を。このベンチは、石の日本三大産地のひとつである岡崎の石職人による高度な技術と、品質の高い地元産の御影石を使って造られているとか。「竹千代」(たけちよ)は徳川家康の幼名で、この石像は、幼い竹千代と天下を取った貫禄溢れる徳川家康の対比を楽しめるようになっています。

「石都」(せきと)とも称される岡崎で、多種多様な徳川家康像を探してみてはいかがでしょうか。

歴女必見の一大イベント家康行列とは

桜と共に、岡崎市の春を彩る一大イベント「家康行列」をご存じでしょうか。

徳川家康と、徳川四天王率いる三河武士団の騎馬隊が市内の中心部を練り歩き、総勢700人の少年武者や姫などによる行列が観られ、毎年多くの市民や観光客で賑わうイベントです。

家康行列の歴史は、江戸時代にまでさかのぼり、現在の岡崎公園内にある「龍城神社」(たつきじんじゃ)の祭典が起源。同神社は、徳川四天王の中でも戦国最強の武将と称された「本多忠勝」(ほんだたかつ)を祭神として祀るために創建され、その当時は「映世神社」(えいせいじんじゃ)と呼ばれていました。この映世神社で岡崎藩の武士達が行なっていた儀式が、家康行列へと繋がっていきます。

明治時代においても、旧岡崎藩士達がこの儀式を武者行列として引き継ぎ、戦後に巻き起こった徳川家康ブームがきっかけで、岡崎商店街連盟と商工会議所の支援によって、「家康まつり」として開催されるようになりました。

その後、1959年(昭和34年)に岡崎城天守が復元されたことを足掛かりに、岡崎市観光協会主催のもと、盛大なイベントとして全国的に知られるようになっていったのです。

毎年、徳川家康の命日である4月17日に近い日曜日に開催され、現在では、一般参加者の公募も行なっています。さらに、祭りのクライマックスには、河川敷で戦国模擬合戦も行なわれるなど、歴女にとって魅力的なイベントが目白押し。

桜舞う春に岡崎を訪れて、ぜひ家康行列を体験してみましょう。

歴女におすすめ!徳川家康ゆかりの地

大樹寺は若き徳川家康の命を救った寺院!?

大樹寺

大樹寺

岡崎公園から車で約10分北上した場所に位置する「大樹寺」(だいじゅじ/だいじゅうじ)は、松平家と徳川将軍家の菩提寺。

徳川歴代将軍の位牌が安置されていることで有名です。

しかし、徳川家康にとっての大樹寺は、菩提寺というだけではありませんでした。実は、大樹寺は、徳川家康を天下人の道へと導いた特別な場所でもあったという逸話が残っています。

戦国時代の動乱期である1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で今川義元が織田軍に討ち取られ、主君を失った徳川家康(当時の名は松平元康)は、窮地に立たされていました。織田軍に追われる中で、徳川家康が命からがら逃げ込んだのが、大樹寺だったのです。

生きることを諦めた徳川家康が、松平家の墓前で自害しようとしているところに、大樹寺の住職「登誉上人」(とうよしょうにん)がやって来て「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど:穢れた[けがれた]現世から離れ、浄土を欣んで[よろこんで]求める)という言葉を掛け、徳川家康に生きる希望を与えました。また、このとき大樹寺の僧侶達は、織田軍の追手から徳川家康を守っていたと伝えられています。

このように、徳川家康にとって大樹寺は、戦国の世で生き抜くことを決心し、命を救ってもらった大切な場所となったのです。徳川家康が、まさに天下人を目指すきっかけとなった場所とも言えるのではないでしょうか。

徳川家康は、住職からかけられた「厭離穢土 欣求浄土」という言葉を生涯心に刻み、自身の旗印にも掲げていました。

この大樹寺の境内で目を引く建造物が、「多宝塔」(たほうとう)と称される形式で造られた仏塔。これは、1535年(天文4年)に、徳川家康の祖父・松平清康によって建てられたと伝えられています。

さらに、大樹寺の中で歴女の皆さんに注目して頂きたいのが、本堂の裏手に植えられている立派な椎の木(しいのき)です。岡崎市の天然記念物に指定されており、なんと徳川家康お手植えの木だと伝えられています。

徳川家康を救い、天下統一への道が始まった場所である大樹寺は、歴女にとって強力なパワースポットになるかもしれません。

徳川家康を天下人へと導いた伊賀八幡宮

伊賀八幡宮

伊賀八幡宮


大樹寺の近くには、もうひとつの徳川家康ゆかりのパワースポットと言える「伊賀八幡宮」(いがはちまんぐう)があります。

伊賀八幡宮は、徳川家康の先祖である松平氏4代当主・「松平親忠」(まつだいらちかただ)により、1470年(文明2年)に創建された神社で、松平家の子孫繁栄、武運長久の守護神とされていました。

特に、徳川家康は厚い信仰を寄せており、初陣の際に参拝したことをきっかけに、大きな戦の際には必ず伊賀八幡宮を訪れ、勝利祈願のために参拝していたと言われています。こうして徳川家康は大戦に勝利し、天下人の座を掴み取っていったのです。

伊賀八幡宮の本殿は、1611年(慶長16年)に徳川家康によって建立され、本殿や幣殿(へいでん)、拝殿が連なる「権現造」(ごんげんづくり)となっています。さらには、本殿に増築するようなかたちで建てられている社殿は、徳川家康の没後、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)によって造営されました。

徳川家康を神として祀る東照宮の総本山「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)を思わせるような極彩色の社殿は、1933年(昭和8年)に国宝に指定されています。また、境内の多くの建造物が重要文化財に指定されており、江戸時代初期の建築様式を鑑賞することができる、貴重な観光スポットです。

松平氏の時代から徳川家康が築いた徳川将軍家に至るまで、歴代当主から深く帰依(きえ:高僧や神仏などを信じ、その力を頼ること)されてきた伊賀八幡宮。徳川家を繁栄させたパワーを授かりに、歴女の皆さんも、ぜひ参拝に訪れてみてはいかがでしょうか。

徳川家康ゆかりの史跡

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