歴女オススメ・武将の史跡めぐり

直江兼続ゆかりの史跡

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歴女人気の高い戦国武将「上杉謙信」の跡を継ぎ、出羽国置賜郡(でわのくにおきたまぐん:現在の山形県南部置賜郡地方)米沢藩初代藩主となった「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)。そして、上杉景勝の右腕として藩政を主導し、米沢藩上杉家を生涯かけて支え続けた人物と言えば「直江兼続」(なおえかねつぐ)です。
上杉謙信の遺志を継ぐ者として語られることの多い直江兼続は、家老でありながら2009年(平成21年)に放映されたNHK大河ドラマ「天地人」の主人公に抜擢され、上杉謙信と同様に歴女から圧倒的な人気を集める戦国武将になりました。今回は、上杉謙信亡きあとの上杉家を守った名将・直江兼続の史跡をご紹介します。

上杉家の城下町・米沢で直江兼続ゆかりの史跡を訪ねよう

歴女必見!直江兼続の兜を所蔵する 上杉神社稽照殿

米沢藩上杉家は、上杉景勝が「関ヶ原の戦い」で西軍に就いたことから、合戦後は会津120万石から米沢30万石へ減封されて、江戸時代の幕開けと共に苦境に陥ることになりました。

米沢藩は、合戦直前の1598年(慶長3年)に、「豊臣秀吉」の命で、米沢城主となっていた直江兼続によって、新たな道を切り拓いていくことになります。

直江兼続は、上杉家を支えるために奔走し、米沢の産業発展に尽力して城下町・米沢の基盤を築きました。

米沢城」は、直江兼続が居城した城。現在の本丸跡には、上杉謙信を祭神として祀る「上杉神社」があります。

  • 直江兼続

    直江兼続

  • 上杉神社

    上杉神社

上杉神社の境内にある「稽照殿」(けいしょうでん)は、上杉謙信や上杉景勝、直江兼続の遺品を中心に、米沢藩上杉家に伝わる刀剣甲冑、絵画など、約300点を収蔵・展示している宝物殿です。

稽照殿では、上杉景勝が所用していた日輪の前立兜の甲冑「紫糸威伊予札五枚胴具足」(むらさきいとおどしいよざねごまいどうぐそく)の他、直江兼続が所用していたと言われる、「愛」と書かれた前立が印象的な甲冑「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく)を展示しています。

直江兼続と言えば、この愛の前立が思い浮かびますが、この大きく主張した愛の由来は2説あると言われており、ひとつは、武神である「愛染明王」(あいぜんみょうおう)から来ている説。もうひとつは、上杉謙信が信仰していた「愛宕権現」(あたごごんげん)から来ている説。

なお、この兜は上杉家独自の製法で作られていることから、上杉家から直江兼続に与えられた物と推測されます。

  • 直江兼続のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 上杉謙信のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 直江兼続のエピソードや、それに関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

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直江兼続が建てた学問の寺院 法泉寺

法泉寺

法泉寺

法泉寺」(ほうせんじ)は、1618年(元和4年)に直江兼続が創建したと言われる臨済宗の寺院。

米沢における「文教の発祥地」と言われており、当初の名は「禅林寺」。

禅林寺から法泉寺に改称されたのは1690年(元禄3年)のことで、法泉寺の名称の由来は、米沢藩2代藩主「上杉定勝」(うえすぎさだかつ)の3女「亀姫」の法名「法泉院」からです。

直江兼続は、この寺院に「九山禅師」(きゅうざんぜんじ)を呼び寄せました。九山禅師は、日本最古の学校と言われる「足利学校」で修業していた禅師(ぜんじ:高徳の僧侶)。

直江兼続や九山禅師は、収集した書物を寺内に置き、米沢藩士を教育するための学問所「禅林文庫」を創立します。米沢藩における学問の流れや、寺院に集められた蔵書は、米沢藩9代藩主「上杉鷹山」(うえすぎようざん)が建立した藩校「興譲館」(こうじょうかん)に伝来したのち、1909年(明治42年)に開館した「市立米沢図書館」に収蔵されました。

寺内の「法泉寺庭園」は「米沢三名園」のひとつで、九山禅師の時代に造られた庭園。世界遺産として知られる京都「天龍寺」(てんりゅうじ)の名園を模して造られたと言われています。

上杉家菩提寺 春日山林泉寺

春日山林泉寺

春日山林泉寺

春日山林泉寺」(かすがさんりんせんじ)は、米沢城跡から南へ車で5分ほど下った場所にある、直江兼続が眠る上杉家の菩提寺。

春日山林泉寺は、1496年(明応5年)に越後国高田(えちごのくにたかだ:現在の新潟県上越市)に建立された寺院で、上杉謙信の祖父にあたる「長尾能景」(ながおよしかげ)が、父である「長尾重景」(ながおしげかげ)の功績を讃えて菩提を弔うために開山したと言われています。

その後、上杉謙信が上杉家当主を継ぐと上杉家菩提寺となり、上杉謙信によって上杉家の氏神である「春日明神」が勧請されたため、山号が「春日山」になりました。寺号は、長尾重景の法名「林泉寺殿實渓正眞大居士」に由来しています。

1601年(慶長6年)、上杉景勝が米沢に減封となったことで、菩提寺である林泉寺も米沢へ移転することが決まり、米沢城南に位置する現在地へ堂宇伽藍を建立して、1617年(元和3年)に遷座されました。

上杉家の菩提寺となった林泉寺ですが、1732年(享保17年)9月に起こった火災で伽藍が焼失。現存の伽藍は、火災後に再建された物です。

境内には、上杉景勝と正室「菊姫」(きくひめ)、上杉景勝の母「仙桃院」(せんとういん)など、歴代藩主の妻子が眠る上杉家廟所があり、境内の奥に進むと直江兼続と正室「お船の方」(おせんのかた)の墓所が設けられています。2人の墓石は並んで建てられており、夫婦共に同じ大きさの墓石というのは、当時としては珍しい物でした。

林泉寺庭園」は、米沢三名園のひとつに数えられる庭園。秋には、寺内の紅葉が色付いて絵画を観ているような景色が広がるため、ロマンチックな歴女に、おすすめの撮影スポットです。

米沢を発展させた直江兼続ゆかりの史跡を訪ねよう

直江兼続が米沢の町を眺めていた地に鎮座する 西明寺

西明寺」(さいみょうじ)は、米沢市民から「なでら山」の名で親しまれ、笹野山の麓にある直江兼続ゆかりの寺院。

林泉寺と同様に越後、会津、米沢の順に上杉家と共に移転を繰り返してきました。

西明寺は、米沢市街を見渡せる高台にあり、直江兼続は時々西明寺を訪れて、米沢の城下町ができていく様子を眺めていたと言われています。

境内にある石碑には、「遠山西に望む西明寺 はるかに憶う最明寺投宿の秋 暮月林間まさに外にめぐらんとし 無端の衣色金風に満つ」という詩が刻まれていますが、これは直江兼続が紅葉狩りに出かけた際に、遠山の西に位置する西明寺の雄大な秋の景色に心を打たれて詠んだ詩です。

西明寺は、山の麓にあるため四季折々の景色が楽しめます。春は桜、夏は木陰が涼しく、秋には真っ赤に色付く紅葉、冬は雪景色に覆われて、いつ訪れても心休まる穏やかなひと時を過ごせるため、かつて直江兼続が愛した景色を堪能したい歴女なら、必ず訪れたい場所です。

直江兼続が米沢を守るために築いた 直江石堤

直江石堤

直江石堤

「直江石堤」(なおえせきてい)は、西明寺から車で南へ下った先の、最上川沿いの河川敷に整備された「直江堤公園」にある直江兼続が築いた堤防。

この石堤は、「谷地河原堤防」(やちがわらていぼう)とも呼ばれ、直江兼続が米沢の町づくりを進めるなかで、何度も氾濫を繰り返していた松川(現在の最上川)の水害から領民を守るために築いた堤防です。

約10㎞にも及ぶ石積みの大堤防の工事は、下級武士を従えて直江兼続自らが指揮を取って進めたと言われています。直江石堤が暴れ川を鎮めたことによって、城下には新たな居住区が整備され、広大な農地の開拓にも成功しました。

こうして直江兼続は、治水事業と農業改革を進めることで大減封の危機を乗り越えて、米沢藩繁栄の礎を築いていったのです。

現在、直江堤公園には散歩コースが設けられており、道沿いには直江兼続の功績を紹介する石碑が建てられています。

直江兼続が最上川上流に置いた 龍師火帝の碑

直江石堤と併せて観ておきたいスポットが、最上川左岸にある巨石「龍師火帝の碑」(りょうしかていのひ)。

これは、直江兼続が直江石堤上流に築いた「猿尾堰」(さるおぜき)の鎮守で、水難が起きないことを願って直江兼続が置いたと言われる石碑です。

安山岩の自然石で造られた石碑の大きさは、高さ約1m、幅約3m、厚さ約1m。中央には、「龍師火帝」と大きく籠彫りされた字が刻まれています。

龍師火帝は、古代中国の梁(りょう)王朝の「武帝」が、文章家であり官僚の「周興嗣」(しゅうこうし)に作らせた漢文の長詩「千字文」(せんじもん)に書かれている句のひとつ。

千字文は、すべて違う1,000の漢字を、森羅万象にまつわる250個の四字句にまとめた物で、龍師火帝は19番目の句です。龍師は雨風を司る水神で、火帝は火の神を表していることから、 米沢の地に洪水や干ばつなどが起こらないように、直江兼続が祈祷したのではないかと言われています。

この石碑が置かれた猿尾堰は、李山(すももやま)地内から松川の堰上げを行ない、農業用水や城下への生活用水を送るための堰であっただけではなく、米沢城の外堀である堀立川へも流れていたことから、とても重要な存在だったのです。

ちなみに、別名は「切腹堰」。これは、堰上げが困難な場所であったことから、猿尾堰が完成するまでに幾度となく分水に失敗したため、責任者が切腹したことに由来します。

上杉軍鉄砲隊の聖地 直江城州公鉄砲鍛造遺跡

直江城州公鉄砲鍛造遺跡

直江城州公鉄砲鍛造遺跡

「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」(なおえじょうしゅうこうてっぽうたんぞういせき)は、米沢藩の鉄砲隊ゆかりの聖地。

直江石堤からさらに南下した場所にある白布(しらぶ)温泉郷に位置し、直江兼続によって米沢藩の鉄砲が製造されていたことを示す記念碑が建てられています。

1604年(慶長9年)、直江兼続は鉄砲の生産地で知られる近江国国友村(おうみのくにくにともむら:現在の滋賀県長浜市)と和泉国堺(いずみのくにさかい:現在の大阪府堺市)から鉄砲職人を呼び寄せ、人里離れた白布温泉に鍛冶工場を造設して火縄銃を製造しました。

直江兼続は、米沢の町づくりに奔走するなかで、戦への備えも怠らず、内密に鉄砲の領内製造に着手していたのです。なお、白布の温泉地が鉄砲の鍛冶工場に選ばれた理由には、火薬の原料である硫黄や、鍛冶に用いる炭などの供給に適していたためと考えられています。

国友村や堺からやってきた鉄砲職人達は、米沢城下に屋敷を与えられて、米沢藩の鉄砲製造・修理を行なっていました。米沢藩の鉄砲製造の基盤が固められると、直江兼続は「鉄砲稽古定」という鉄砲の扱い方の指南書を発行して、藩内における射撃訓練を奨励していきます。

また、白布で製造された米沢藩の火縄銃は、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」で用いられ、上杉軍の鉄砲隊は大きな戦果を挙げました。

あらゆる面で米沢を発展させ、生涯かけて上杉家を支え続けた直江兼続。米沢に残る直江兼続の史跡を辿ると、いかに優れた武将であったか再確認することができます。歴女の聖地巡礼の締めくくりには、意外な歴史が残る白布温泉郷で旅の疲れを癒やしてみてはいかがでしょうか。

「直江兼続 甲冑写し」のYouTube動画

直江兼続 甲冑写し

直江兼続ゆかりの史跡

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