歴女のためのお城見学ポイント

御殿

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「御殿」(ごてん)と言うと、江戸城本丸御殿内にある私邸(大奥)を舞台に繰り広げられた女性達の愛憎ドラマ「大奥」が、歴女にも人気です。大奥に入ると鈴が鳴り、両端に、かしずく女中の間を将軍様以下御台所、側室らが悠然と歩いていく、あの総触れのシーンは大奥の世界観を示すお馴染みの光景。大奥に限らず、御殿は城主の権力の象徴として造られた物であり、どこを観てもため息が出るほど贅を尽くした造りです。現存の御殿は4城ある他、復元された御殿が全国各地に点在。ここでは、歴女なら誰もが憧れる御殿の基礎知識と、日本全国の有名な御殿をご紹介します。

政庁と住まいをかねた公邸であり、お城の中心だった御殿

近世城郭は、「織田信長」の安土城にその輪郭が作られ、「豊臣秀吉」の統一事業の過程で全国に広まり、「徳川家康」の「天下普請」(てんかぶしん)によって大成しました。

そして、お城の役割も時代の経過と共に変化していきます。防御や戦闘としての軍事的機能だけではなく、政治・経済の中心地として、さらに権力の象徴を示す機能も備えていったのです。

なかでも、お城の中心的役割を担ったのは「御殿」(ごてん)でした。御殿は、藩主の住居と政庁が合わさった公邸であり、来客をもてなす迎賓館もかねています。なお、お城の敷地内に御殿が造られはじめたのは、戦国時代の終わり頃からです。乱世の真っ只中に築かれた山城は敷地が狭く、また立地的にも住居を別に確保する余裕がなかったため、お城とは離れた場所に政治のための政庁を置いていました。

しかし、織豊期(しょくほうき:織田信長と豊臣秀吉が政権を握った時代)になり、大名の力が強くなってくると、お城はより広大な平地に築かれるようになったため、政治と軍事の機能を集中させ、政庁や城主の住居も城内に造られるようになったのです。

知られざる本丸御殿の内部~表の世界~

江戸城

江戸城

お城の中心部にある、本丸に建てられていた建物を「本丸御殿」と呼びます。

皇居の東御苑にある将軍家の居城「江戸城」は、本丸の面積約35,000坪、東京ドームの約2.5倍ありました。

現在は、本丸御殿の痕跡はなにもなく、広い敷地があるばかりですが、歴女ならそこにある遺構をじっくり観ることで、その雰囲気を肌で感じられるでしょう。

政治に使われることの多い本丸御殿ですが、面積が狭いため、二の丸や三の丸に御殿を築くことも多かったと言います。なお、本丸御殿、二の丸御殿、三の丸御殿という呼び方は、配置された場所によって呼ばれる便宜上の呼称。

本丸は、「表」、「奥」(中奥:なかおく)、「大奥」と区分されていて、君臣の対面の儀式などを行なったのが表、城主の日中を過ごす公務の場が奥(中奥)、城主と家族のプライベート空間が大奥です。

表は、公式行事や将軍の謁見、儀式などが行なわれ、庭園や芝生に面した屋外には能舞台、御殿内には茶室が設けられました。会合の手段として茶会が催されることも多かったと言います。

なお、家臣や使者との対面には、広間や書院が使われました。相手の身分によって決められた部屋を使っていたため、表御殿には、格の違う多数の広間や書院があり、それぞれ室内の雰囲気や装飾の調度品が異なっていたと言います。

江戸城では、表の中に「大広間」、「白書院」、「黒書院」、「御座之間」、「ご休息」があり、大広間と白書院をつなぐところに「松之廊下」がありました。松之廊下と言えば、忠臣蔵の舞台であり、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかった場所として有名。他にも、「執務室」、「控室」、「諸職の部屋」など、様々な部屋がありました。

江戸城を見た2人の外国人

当時、この表に入った外国人の使者が2人います。ひとりは、貿易船隊司令官「ジョン・セーリス」。もうひとりは、スウェーデン人の「オロフ・エリクソン・ヴィルマン」。

1613年(慶長18年)、東インド会社の貿易船隊司令官ジョン・セーリスは、駿府城で徳川家康に謁見し、その後、江戸城を訪れました。ジョン・セーリスが記した「日本渡航記」には、以下のような記述があります。

「江戸は、駿府よりはるか大きな都会で、建築も立派で、はなはだ壮麗な外観である。棟瓦(むながわら)と隅瓦(すみがわら)とは華麗に鍍金(ときん:メッキのこと)してあり、その戸口の柱は鍍金して漆塗されている。

硝子(がらす)の窓はひとつもないが、木製の大きな窓が扉で開くようになっており、その扉は絵画できれいに飾ってある」

また、1651年(慶安4年)に来日したスウェーデン人のオロフ・エリクソン・ヴィルマンは、4代将軍「徳川家綱」の時代に来城。オロフ・エリクソン・ヴィルマンが著した見聞記「日本王国略誌」には、江戸城の外観がより詳細に記されています。

「江戸城は、3重の城壁で築城されている。第一壕(ごう:堀のこと)は幅六十歩、城壁の厚さ十六歩、堅牢に装備された鉄門が2つある。内側に大領主らが妻子と共に貴重な家財を抱えて居住している。

第二壕は幅四十歩、城壁は十二歩、中央が大門で左右に小門が付いていて、ここまでは馬で乗り入れられるが、この先からは下馬する。馬をつなぐ大広間があり、奥には皇帝のすべての血縁親族が居住している。ここが二の丸である。

第三壕は幅六十歩、城壁は十六歩で非常に深い。ここまでは乗物で入れるが、偉大な王、領主と言えども徒歩で銅張りの5つの大門を通らねばならない。各門の内側に、戦時の際は数千名の兵が配置できる正方形の大広間がある。そして、その奥に皇帝が居住している」

お城好きな歴女なら、最強の要塞と言われた江戸城の様子がありありと想像できるでしょう。

知られざる本丸御殿の内部~奥の世界~

大奥

大奥

政治の実務が行なわれた場所を表、将軍の執務と居住の場所を中奥、城主の妻である正室が取り仕切っていた場所を大奥と呼びますが、こういった表と奥の使い分けは室町時代からあり、3代将軍「徳川家光」の時代に制度として確立したのです。

江戸城の大奥は、「本丸」、「二の丸」、「西の丸」にそれぞれ女性だけの特別な社会「大奥」を形成しました。

本丸には、将軍の正室(御台所)が住み、二の丸に前の将軍(大御所)の正室、西の丸大奥に大御所や後継者とその家族が居住したと言います。

大奥に勤める女性の数は、1,000人もいたと言われており、将軍に接触できる「御目見以上」(おめみえいじょう)、それ以外の「御目見以下」(おめみえいか)、女性達が私的に雇った「部屋方」(へやかた)に分けられました。

将軍は毎年、徳川歴代将軍の月命日の墓参りで寺への参拝を行なうため、その前日の「お渡り」は禁止でした。江戸後期にもなると、月命日の日数も増え、月の半分ほどしか大奥へ行けなかったうえに、何かと制約が多く、苦痛に感じる将軍もいたと言います。

大奥での暮らしぶりは、ドラマや映画で表現されていますが、その敷地面積は6,300坪と言われ、東京ドーム約4個半にも及びました。本丸御殿全体の面積でみると、約6割が大奥で占められていたのです。

そして、完全なる女の園であった大奥は、男性が入れば死刑となりました。将軍が出入りする「御錠口」(おじょうぐち)は鍵が取り付けられており、人の出入りが厳しく制限されていたのです。

なお、大奥は完全なる身分社会であったため、実際にはドラマ以上のことがあったのは想像に難くありません。一体どのような出来事が起きていたのか、歴女でなくともとても気になるところです。

貴重な遺構・現存する本丸御殿・二の丸御殿へ行こう

御殿があまり現存していない理由

明治時代に入り、廃藩置県で藩が廃止されると、御殿は次々と取り壊されていきました。破却を免れても、災害や戦争によって多くが焼失してしまったのです。

現在ある多くの御殿は、後世に復元された建造物であり、京都府の「二条城」二の丸御殿、静岡県の「掛川城」二の丸御殿、高知県の「高知城」本丸御殿、埼玉県の「川越城」本丸御殿の4棟のみが当時から残る現存御殿です。

川越城本丸御殿(埼玉県)

川越城本丸御殿

川越城本丸御殿

川越城は、1848年(嘉永元年)、17万石を誇った掛川藩主「松平斉典」(まつだいらなりさだ)が造営。

本丸御殿は、明治維新後の解体により破却されており、現在は「玄関」、「大広間」と移築復元された「家老詰所」のみが存在します。

玄関に入ると、廊下が部屋を取り囲み、広々とした空間。派手な装飾はなく全体的に質素ですが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えなどは堂々としており、とても立派です。

高知城本丸御殿(高知県)

高知城本丸御殿

高知城本丸御殿

国の重要文化財である高知城の本丸御殿は、あくまで仕事上の対面所として造られたため、城主は居住していませんでした。

書院造になっていて、「上段の間」、「二の間」、「三の間」、「四の間」、「納戸」、「三畳二室」、「雪隠」、「入側」などがあります。

現在、ここは「懐徳館」(かいとくかん)という名称で、築城主「山内一豊」をはじめとした山内家ゆかりの品や土佐の偉人、歴史資料などを展示・公開。天守にのぼることもできます。

日本の城 高知城 YouTube動画

「高知城」現存12天守

掛川城二の丸御殿(静岡県)

掛川城二の丸御殿

掛川城二の丸御殿

掛川城の二の丸御殿は、1854年(嘉永7年)に大地震で倒壊したため、時の城主「太田資功」(おおたすけかつ)が、1855年(安政2年)から1861年(文久元年)にかけて再建しました。

廃藩置県による廃城と共に、「女学校」、「掛川町役場」、「農協」など様々な施設として転用され、現在に至ります。

庭を散策したり、部屋の中にも足を踏み入れたりすることができるので、歴女の皆さんも当時の人々がどのような生活をしていたか想像しながら、ぜひ探索してみてはいかがでしょう。

二条城二の丸御殿(京都府)

二条城二の丸御殿

二条城二の丸御殿

二条城は、徳川家康が征夷大将軍の任命式典の際に築いたお城。

現在の二の丸御殿は、1626年(寛永3年)に3代将軍・徳川家光が大改築を行なった際に建てられた建造物です。

名古屋城本丸御殿と並び、「双璧」と呼ばれるほどの絢爛豪華な屋敷だったと言われており、国内の城郭に残る唯一の御殿として国宝にも指定されています。

大名が最初に立ち寄るのが、控えの間である「遠侍」(とおざむらい)。獰猛な虎の絵が描かれた襖や壁の絵から「虎の間」とも呼ばれています。

最も有名なのが「四の間」に描かれた「松鷹図」(まつたかず)。襖の前面に巨大な松と勇壮な鷹が描かれており、桃山時代の様式を取り入れています。

復元された本丸御殿

佐賀城本丸御殿(佐賀県)

佐賀城本丸歴史館

佐賀城本丸歴史館

日本で初めて本丸御殿を復元したのは、「佐賀城」です。

現在は「佐賀城本丸歴史館」として、藩主の居室であった「御座間」や「堪忍所」を公開しています。

なんと言っても圧倒的なのが、45mも続く畳敷きの長い廊下と320畳の大広間。気持ち良いほど見通しの良いこの空間は、最も本丸御殿らしいと言えます。

ここでは、「幕末維新期の佐賀」をテーマとした展示の他、透明パネルや城内部の礎石、天井裏の梁を観ることも可能。幕末好きな歴女におすすめの御殿です。

名古屋城本丸御殿(愛知県)

名古屋城本丸御殿

名古屋城本丸御殿

二条城と共に「近世城郭御殿の最高傑作」と讃えられたのが、「名古屋城本丸御殿」。

1930年(昭和5年)、城郭では天守閣と共に国宝第一号に指定されましたが、1945年(昭和20年)の空襲により焼失。

その後、江戸時代の図面や記録、昭和時代の戦前期に作成された実測図、藩主の撮った古写真など第一級の史料が数多く残っていたため、2009年(平成21年)から復元がはじまり、2018年(平成30年)にようやく完成しました。

江戸幕府の将軍が宿泊するために、当時の名工を全国から集めて建造したとあって、天井、欄間、障壁画など、どこを観てもため息が出るほど豪華絢爛です。

日本の城 名古屋城 YouTube動画

「名古屋城」日本三名城

彦根城表御殿(滋賀県)

彦根城表御殿」は、江戸時代初期に建てられた御殿。彦根藩士が出勤して政務を行なった場所を「表向き」、藩主が暮らしていた場所を「奥向き」と呼び、御殿内で2つの機能を持っていました。

御殿の中央にあるのは、唯一現存している能舞台。博物館内部では、徳川譜代大名筆頭の彦根藩主「井伊家」に伝わる古文書や美術工芸品を展示。

また、発掘調査で発見された庭園や、「天光室」(てんこうしつ)と呼ばれる茶室の他、古地図に描かれている樹木や手洗鉢(ちょうずばち)なども再現されています。

熊本城本丸御殿(熊本県)

熊本城本丸御殿 昭君之間

熊本城本丸御殿 昭君之間

「日本三大名城」と称される「熊本城」は、歴女から人気が高い築城の名手「加藤清正」が築城したお城。

熊本藩初代藩主「細川忠利」(ほそかわただとし)が改修や増築を行ない、幕末時代まで存続しましたが、明治維新後の「西南戦争」で大小天守閣と共に焼失してしまいました。

2008年(平成20年)、安土桃山時代の武家風書院造の本丸御殿は、53室あったという部屋のうち、大広間、数寄屋棟など25室が復元。

見どころは、最も格式が高く、豪華絢爛な部屋「昭君之間」(しょうくんのま)と、御殿建築の中でも異例と言われる石垣でできた地下通路「闇り通路」(くらがりつうろ)。

闇り通路は、本丸御殿の下にある通路で、往時の際はこの通路から御殿に上がったと言われています。

日本の城 熊本城 YouTube動画

「熊本城」日本三名城

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