歴女のためのお城見学ポイント

天守

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城主の権威を見せ付ける「天守」は、まさにお城の顔。どれも同じように見えますが、それぞれの城主の思いや考えのもとに造られており、外観が似ることはあっても、そっくり同じ天守は存在しないと言われています。天守の種類や形式を知れば、「築城主」や「時代背景」、「文化」、「風習」など、様々なものが見えてくるのです。
そして、歴女とお城は切っても切り離せない関係にあります。なぜなら、お城と言えば名のある戦国武将達が居住した他、数々の合戦が繰り広げられた舞台でもあるからです。

天守の歴史を知る

天守の生みの親は織田信長

織田信長

織田信長

はじめて天守が造られたのは、「織田信長」が築城した「安土城」。その原型は、山城にあった掘っ立ての物見櫓(ものみやぐら:遠方の監視や防御のための櫓)です。

各地域の大名による領地争いが激しくなり、櫓も次第に頑丈さを増していく一方で、領主や城主の権威を示すために、「破風」(はふ:屋根の妻側の造形)のある豪華な高層建築へと変貌していきました。

時代が進むにつれて、軍事的な意味合いとしてよりも、「権力を見せ付けるための象徴」になっていったのです。

なお、「てんしゅ」という呼び方は織田信長が付けたと言われており、当時は現在のように天守ではなく、「天主」と書いていたことから、織田信長の人並み外れた感性を窺い知ることができます。

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安土城は演出のお城

安土城は、1579年(天正7年)に完成しましたが、僅か3年で天守部分が焼失。

図面や絵画などには残されていないものの、「実際に天守を観た」という人物が記した「安土記」(あづちき)の情報を頼りに、研究が行なわれてきました。

その研究をすすめた城郭考古学者「千田嘉博」(せんだよしひろ)氏は、京都「清水寺」のように、建物の一部がテラスのようにせり出しているのではないかという説を提唱し、世間を驚かせます。

また、水墨画の大家「狩野永徳」(かのうえいとく)が写実した「安土城図屏風」には、天守の下に構造物が描かれていることから、「これが懸け造りの上部のテラスではないか」と推測されました。

織田信長の一代記を記した史料「信長公記」(しんちょうこうき)によると、1582年(天正10年)の正月に安土城がお披露目され、織田信長は多くの家臣衆を天守西側の「御白洲」(おしらす:奉行所など訴訟機関における法廷が置かれた場所)に集合させて、直接声をかけたという描写がありますが、もしテラスがあったとすれば、大勢の家来が殿の御成りを今か今かと待つ中、テラスから殿が登場するという劇的な演出も想像できると言うのです。

映画さながらの派手な演出に、家臣団も度肝を抜かれただろうことは容易に想像できます。織田信長ファンの歴女も、その場に居合わせてみたかったと思うかもしれません。

天守ブームは江戸時代に一時激減

大阪城

大阪城

権威の象徴として織田家内で広まった天守は、以降「豊臣秀吉」にも受け継がれ、全国に普及しました。

そして、「関ヶ原の戦い」後は、諸大名が新天地にこぞってお城を築いたため、天守のあるお城が乱立したと言います。

さらに江戸時代初頭には、「天下普請」(てんかぶしん:江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行なわせた土木工事)が敷かれました。

このときに幕府の中心となった「江戸城」をはじめ、西国の押さえとなった「名古屋城」や「大阪城」(徳川期)に天守が建造され、徳川政権においても、天守のお城は受け継がれていったのです。

しかし、徳川幕府が発布した「一国一城令」と「武家諸法度」により、大名の居城となる1城以外のお城は破却され、お城の新築工事禁止が定められてしまったことで、およそ95%ものお城が消滅するという事態に至ります。

現存する天守が12例しかないのも、そういった事情からなのです。

シロサンポ
日本の城ブログ「シロサンポ」で「現存12天守」に関するブログをご紹介!

構造からデザインのこだわりまで

天守は、美しさを追求した芸術品でもあります。見学するときには、細かい構造や意匠に注目してみましょう。

天守のみ単独で造られた物よりも、小天守や櫓と共に造られているお城が多いのは、敵が直接天守に入れないようにする防御面と、重厚感を際立たせるためと言われています。

そして、同時に神社建築で用いられていた破風を外観にいくつも取り入れて、三角形の頂部に「懸魚」(げぎょ)という飾りを付けるなど、装飾性を高めたのです。

白い天守と黒い天守

姫路城

姫路城

天守は、大きく分けて2つに分類されます。ひとつは、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の「白い天守」。

徳川政権時代に築かれ、歴女にも人気がある「白鷺城」の異名を持つ「姫路城」がこちらに該当します。

もうひとつは、下見板張りの「黒い天守」。豊臣政権時代に築城された「松本城」(別名・烏城[からすじょう])などが挙げられます。

また、どちらの様式においても、お城の窓に細かい工夫を凝らしているのが特徴。例えば、通常のお城では実用的な格子窓が使われていますが、「犬山城」や「彦根城」では、寺院建築の「華頭窓」(かとうまど:火灯窓とも書かれる)が用いられています。

窓には通常、敵が襲ってきたときに城内から石を落として攻める「石落とし」が設けられていますが、単に穴を空けただけでなく、外観とのバランスを考えた意匠となっているのです。

天守の建築様式

天守の建築様式は、「望楼型」(ぼうろうがた)と「層塔型」(そうとうがた)に分類されます。

望楼型は、「織豊時代」(織田信長と豊臣秀吉の時代)に多く、層塔型は徳川家康が開いた江戸時代に多く見られるのが特徴。

天守の形を確認すれば、おおまかな築城時期を推測することができるのです。

自由度が高く豪華で頑丈な初期天守 望楼型

彦根城

彦根城

望楼型は、1階または2階建ての入母屋造(いりもやづくり)の上に、小型の建物を乗せたお城で、慶長年間初期によくみられた様式です。

下層階や石垣の底面に影響されることなく自由に乗せられるため、はじめて高層の天守が築かれた安土城上層の望楼は、八角形の望楼を極彩色や金で飾った、派手な造りだったと言われています。

内部は、1階と2階の間取りが同じで、下層の柱の位置が同じ場所になるため、頑丈な構造になるのが特徴。

望楼型の見分け方は、「大きな入母屋屋根を持っているか」、「望楼部に廻り縁があるか」、「望楼部の柱や長押(なげし:鴨居の上や敷居の下などの側面に取り付けた、柱と柱の間をつなぐ横材)が見えるか」などが挙げられます。

望楼型の代表的なお城

丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城高知城

コストカットで生まれたスマートな天守 層塔型

今治城

今治城

築城名人と謳われ、歴女にも人気がある「藤堂高虎」が、「今治城」(いまばりじょう)で試みたのが、日本初の層塔型のお城です。

同じ形の建物を下の階層から徐々に小さくしながら積み上げていくという、五重塔のような建築方法なので、見た目は望楼型に比べてすっきりした形に見えます。

上下一体で設計されていることから、工期が短縮できる上に建築費用が抑えられるという利点により、慶長期から全国に広まりました。

層塔型の見分け方は、「小ぶりな破風と寄棟屋根を持っているか」、「望楼部は内部望楼型で、廻り縁を持たない造りか」、「望楼部の柱や長押が見えていないか」、「下層から上層に向けて規則正しく逓減(ていげん:小さくなっていく)しているか」です。

簡単に言うと、最上階以外に入母屋破風があれば望楼型で、なければ層塔型と見ることができるのです。

なお、例外として江戸時代に焼失した天守を焼失前と同じ形に再建した高知城などもあるため、歴史の確認は必須です。

層塔型の代表的なお城

天守の構成(4つの分類)

はじめは独立して築かれていた天守ですが、天守の防御力を上げるために、小天守や櫓を天守に絡ませて築かれることが多くなっていきました。

天守の構成は、どのように建物と連結しているかという配置によって、「複合式」、「連結式」、「連立式」、「独立式」の4種類に分けられます。

天守だけの独立式

弘前城

弘前城

独立式は、天守だけが単独で建っている、ごく簡単な造りのこと。

天守の地階や、1階などから直接入れるため、出入りがしやすい一方で、敵が本丸に侵入した場合は容易に天守への突撃を許してしまうという防御面の弱さがあります。

織田信長や豊臣秀吉の時代は、頻繁に合戦があったため、この構造のお城はありませんでしたが、平和になった江戸時代以降にはよく建てられました。

現存する天守の中には、明治時代以降の改革によって附櫓が取り壊されてしまい、結果として独立式となった例もあります。

独立式の代表的なお城

弘前城、丸岡城、宇和島城、大阪城、高知城

天守と附属建物が直接ドッキングした複合式

松江城

松江城

複合式は、附櫓や小天守と呼ばれる建物が天主に直接接続している造りのこと。

初期の天守によく見られた形式で、附属建物を経由しなければ天守に入ることはできず、附属建物に侵入されても天守内から敵を迎え撃つことができました。

複合式の代表的なお城

松江城、彦根城、犬山城、備中松山城

天守と小天守を渡櫓で繋いだ連結式

名古屋城

名古屋城

連結式は、天守と小天守・櫓が「渡櫓」(わたりやぐら)を通じてつながっている造りのこと。天守に入るには、附属建物を通る必要があります。

名古屋城のように、小天守と大天守を土塀で囲む場合も連結式です。

なお、松本城のような連結式と複合式が一体となった物は、「複合連結式」と言います。

連結式の代表的なお城

名古屋城、会津若松城熊本城大洲城、松本城

ぐるりと輪になった連立式

和歌山城

和歌山城

連立式は、大天守の左右と対角線上に小天守を置き、渡櫓で環状に繋いだ造りのこと。

四隅に建物があるため、内側には中庭のような空間ができます。

有事の際には、この中庭へと敵を誘い込んで、櫓群から一斉射撃を仕掛けました。

連立式天守は、それだけで独立した「曲輪」(くるわ:お城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い)となるので、防御面に優れています。

和歌山城」は、枡形門をつなげることで、一層複雑で厳重な防御を敷いていました。なお、徳川家康が築いた江戸城の天守もはじめは連立式でしたが、2度の建替えを経て、3代将軍「徳川家光」の時代に独立式になったと言われています。

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天守を飾る破風

破風(宇和島城)

破風(宇和島城)

破風は、屋根の側面にある三角形の飾りのこと。お城の防備ではなく、天守を飾るために付けられました。

主な形態としては、「入母屋破風」(いりもやはふ)、「千鳥破風」(ちどりはふ)、「唐破風」(からはふ)、「切妻破風」(きりつまはふ)があります。

入母屋破風は、屋根部分と三角部分がくっついている形式の破風。2つ並んだ物を「比翼(ひよく)入母屋破風」と言います。

千鳥破風は、入母屋破風と似た形で、屋根との接続部分が出窓のように離れている破風のこと。築城名人・藤堂高虎が手掛けた宇和島城に使われています。宇和島城は、戦国時代の城郭にある軍事的な構造が見られず、破風を多用して外観にこだわったお城です。このことから、泰平の時代に築かれたお城であることが分かります。

切妻破風は、天守からせりだした三角形の破風。彦根城が有名です。

唐破風は、軒先を丸く盛り上げた破風。破風のアクセントとして、軒先中央部に設置されます。

天守の内部

天守の内部

天守の内部

天守の間取りはほぼ共通しており、内部はいたって単純な構造をしていました。

中央に部屋となる身舎(もや:主要な柱に囲まれた家屋の中心部分)が置かれ、その四方を入側(いりがわ:座敷と濡れ縁との間の細長い通路、武者走りとも言う)が取り囲んでいます。

なお、天守はお城の中で最も見晴らしが良く、大名の権威を示す象徴でしたが、その一方で居住するための空間ではありませんでした。なぜなら、窓が小さいために昼間であっても薄暗く、面積も狭い上に板敷きだったからです。そのため、実際に天守に住んだのは、織田信長だけだったと言われています。

江戸時代初期であっても、姫路城や熊本城などのように井戸を伴う台所や便所、畳敷きの部屋など、居住設備を設けていたという例もありますが、ほとんどは天守と別に居住のための屋敷を持つのが普通でした。

江戸時代中期以降は、倉庫として使用されることが多くなり、人の出入りもほとんどなくなったと言われています。

天守の構造は、「◎重◎階」と表現されるのが一般的です。「重」は、屋根の数。「階」は、内部の階数を示しています。

1609年(慶長14年)頃に、徳川家康により「5重以上の天守は、国持ちの有力大名に限られる」と天守の高さが制限されるようになると、4重目の屋根を造らずに5階平面を張り出させて5重を回避したり、4重目の屋根を庇(ひさし:雨除けなどの用途を持つ小型の屋根)とみなして、5重であっても名目上は「4重天守」としたり、また内部は5階建てでありながらも外観は3重にするなど、工夫が見られるようになりました。こうした理由から、◎重◎階の数が異なっていることが多いのです。

お城が好きな人の中には、「独立式のお城は堅実な感じがして好き」、「構造は連結式が一番かっこいい」など、こだわりを持っていることがあります。歴女の皆さんも、自分が好きな立地や構造のお城を見付けて、「お城巡り」を趣味のひとつにしてみてはいかがでしょうか。

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