歴女のためのお城見学ポイント

土塁・堀

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お城造りの達人達は、敵が侵入するのを防ぐため、入念な防御策を施しました。門や櫓はもちろんのこと、お城の周囲に「堀」を張り巡らせ、さらに土を高く盛って斜面を付けた「土塁」(どるい)を造り上げたのです。土塁と堀はセットで、お城を守る最前線に置かれました。
敵の侵入を防ぐ最強の土塁・堀とはどういう物で、一体誰が築いたのでしょうか。地味に思えて知れば知るほど面白い、土塁・堀の世界。歴女必見のコンテンツです。

侵入されにくく攻撃しやすい最強の砦とは

土塁のなりたちと作り方

「土塁」(どるい)とは、土で築いた「塁」(るい:とりで、堤防)のことです。土塁は、弥生時代の環濠集落や古代山城が起源。

中世城郭においては、最初に山城(やまじろ)が作られ、戦国時代に入ってから、平山城(ひらやまじろ)が造られるようになりました。山城や平山城では、本丸の周りに幾重にも堀をめぐらせ、本丸に近い堀を「内堀」、遠い堀を「外堀」として呼び分けていたのです。

江戸時代初期の軍学者「山鹿素行」(やまがそこう)の著書「武教全書」(ぶきょうぜんしょ)という古書には、土塁について、こんな記述があります。

それは、土塁の高さで理想とされたのは3間(約5.5m)であり、上部は塀を設置するため、2間(約3.3m)の幅で平らにするのが良いこと。こうすることによって塀の内側には、「武者走」(むしゃばしり)や「犬走」(いぬばしり)と呼ばれる、兵や馬が動けるスペースができました。

なお、土塁の斜面の理想は、45度。これ以上鋭角になると、雨で崩れやすくなり、逆に角度を広げると登りやすくなってしまうため、45度がちょうど良いとされたのです。

土塁の成り立ちと造り方

土塁の成り立ちと造り方

土塁のメリット

安土城跡

安土城跡

土塁は、石垣が登場したあとも使われ続けました。最初に石垣を使ったのは「織田信長」で、「安土城」においてです。

これにより、お城の防御に石垣を高く積み上げるのがスタンダードになったものの、関東以北のお城では、石垣の石材が用意しにくいという事情から、「江戸城」や「小田原城」を除き、土塁がほとんどでした。

もちろん、江戸城にも土塁はあります。江戸城の「本丸」や「二の丸」は総石垣造りですが、「三の丸」は本丸・二の丸の周囲を囲むように大きく造られることになったため、土塁になっているのです。

土塁が使用された理由として、ひとつ目は、土を盛るだけという、作り方がとても簡単で、特殊な技術がいらなかったから。ふたつ目は、城内の仕切りとしてすでに使われていたから。武家などの屋敷のまわりを土塁で囲み、身分の違いを知らしめていました。3つ目は、使い勝手が良かったからだと考えられます。

土塁の上は広く歩くことができるため、通路としても利用でき、戦いのときは土塁の上から弓矢や鉄砲で攻撃して、有利な戦いに持ち込むことができました。低い土塁であっても、土塁に隠れながら鉄砲を撃て、また、弾ごめのときに弾よけになり、もし鉄砲の弾が当たったとしても、土塁には幅があり石も含んでいるので貫通することがありません。土塁には、石垣にはないメリットが多かったのです。

土塁の種類

作り方による種類

たたき土居
「たたき土居」(たたきどい)とは、小石や粘土を土塁の中に混ぜて、叩き固めた物。

土砂を叩いては乾燥させ、その上にさらに土砂を叩き固めていくことを繰り返して、どんどん層を築いて強固な土塁とした物です。

なかには、土砂に粘土や油を混ぜることによって、強度を高めた物もありました。

芝土居
「芝土居」(しばどい)とは、土塁に芝を植えた物。法面(のりめん)の崩れを防ぎ、強固な土塁を造ることができました。

芝は、根が張ると土を押し固める効果があるため、たたき土居よりも、斜面を急にすることが可能。そのため芝を重ねたり、土塁一面に芝を植えたりしました。

構造上の種類

腰巻石垣
「腰巻石垣」(こしまきいしがき)とは、土塁の下部だけを石垣にした物です。

水堀や川に面している土塁では、水によって土塁が削られてしまうので、水面の少し上の高さまでを石垣にすることで土塁が削られ、崩れることを防いでいます。また、石の節約にもなりました。

鉢巻石垣
「鉢巻石垣」(はちまきいしがき)とは、土塁の上部に造った石垣です。

土塁は、土を盛って固めただけなので、重量に耐えられず崩れてしまうことがありました。土塁の上に櫓を建てるため、石垣で強固にした物がこの土塁です。

鉢巻腰巻石垣
鉢巻腰巻石垣

鉢巻腰巻石垣

鉢巻腰巻石垣は、鉢巻石垣と腰巻石垣を合体させた物で、土塁の上部と下部のみが石垣になっており、真ん中だけが普通の土塁となっています。

そこまでするならすべてを石垣にしたほうが良いのでは、と考える方もいるのではないでしょうか。これにも理由があるのです。

石垣を造るには、運ぶのにも加工するのにも、積み上げるのにも相当の人手と技術が必要。つまり、莫大なお金がかかります。

鉢巻腰巻石垣は、なるべくお金をかけずに、総石垣と変わらない防御力を得るための苦肉の策だったのです。

また、この方法は、スピード感を重視した作り方でもありました。例えば、「関ヶ原の戦い」の直後に、幕府直轄の天下普請(てんかぶしん)で築かれた「彦根城」の石垣は、江戸城(現在の皇居)と同じ構造が取り入れられ、下から上まで石を積み上げるのでなく、中間部分には芝土居の斜面を築いています。

関ヶ原の戦いのあとは政治的に緊張していたため、次の合戦がいつ始まってもおかしくない状況。そのため江戸幕府は、前線基地である彦根城を一刻もはやく完成させなくてはいけないと考え、彦根城では、鉢巻腰巻石垣が採用されたのです。

豊臣秀吉の造った二条城の最強砦 御土居

豊臣秀吉」が、京都の町を囲むために造った台形の土塁のことを、「御土居」(おどい)と言います。基礎部分の幅約20m、頂上部の幅と高さが約5mの台形状をしており、外側には堀幅は約10m、深さ最大約4.5mという巨大な堀も備えていました。

このように大規模な御土居ができたのは、朝鮮出兵「文禄の役」、「慶長の役」で手薄になった京の防御壁として、または鴨川の氾濫から京都の街を守る防災壁として造られたからだと言われています。

2016年(平成28年)に行なわれた発掘調査では、深さ4.5m、推定幅18mの堀が南北44mに渡って出土しました。この御土居も、地面に急な堀を造り、堀から出た土を利用して45度の土塁を築いたことが確認されています。堀や土塁の規模などから鉄砲の攻撃に対処した物であり、御土居が軍事目的で築かれたことを示す重要な証拠となったのです。

豊臣秀吉は、土塁の内側を「洛中」(らくちゅう)、外側を「洛外」(らくがい)と呼び、要所には洛外との出入口になる「七口」(ななくち)を設けました。

江戸時代には、洛外まで街が広がったため、次第に御土居は取り壊されていき、現在は土塁と川を使った堀が一体となった「北野天満宮」(京都市上京区)など、数10ヵ所が残っています。御土居の上には美観のため、竹が植えられていました。京都市内を1周する御土居作りには数万人が携わり、歴女もびっくりのわずか4ヵ月で完成したと言われています。

堀とは何か

堀の種類

土を掘って高低差を設け、攻め寄せてくる敵を遮断する堀は、防御の基本であり、お城には欠かすことのできない防備の要です。

堀には、「水堀」(みずぼり)と「空堀」(からぼり)の2種類があります。お城が平地にある場合は、河川などの水を引き入れて水堀を造り、有事の際には飲料水として使うことも想定されていました。一方、山や台地にあるお城は、水がなく深く窪んだ空堀を造りました。これら2種類の堀では、空堀は狭く、水堀は広く造ります。

このように幅が違う堀を造るのは、空堀は幅が広いと敵が移動しやすくなり、水堀は幅が狭いと敵が泳いで渡ってきてしまうからです。さらに敵が潜って身を隠すこともあるので、堀の底に尖った木材を埋めたり、ツルの長い植物を植えて足に絡み付くようにしたり、という細工をしていたとも言われています。

空堀より水堀のほうが防御力が高いように思えますが、そんなことはありません。「名古屋城」や「大阪城」でも、大規模な空堀が存在します。これらの空堀は、堀が深すぎて飛び降りることができませんし、登ることもできません。オーソドックスな空堀も、水堀に劣らぬ活躍を見せていたのです。

  • 水堀

    水堀

  • 空堀

    空堀

堀の歴史

堀の歴史は古く、縄文・弥生時代の、獣から村や作物を守るための溝が起源だと言われています。古くは「吉野ヶ里遺跡」(よしのがりいせき)でも見られ、その後は古墳や寺、豪族の館にも堀が造られていたそうです。

山城などの土の城でも堀が見られるようになり、山麓部では自然の川を利用して堀とすることもあったものの、たいていが水のない空堀でした。

堀の活用方法

労力や時間が少なくても、効果的な場所に堀を掘るには、その活用方法が重要です。どんな場所に堀を掘っていたか、見てみましょう。

横堀
横堀

横堀

空堀は、その配置により様々に分けられています。

最も一般的な堀は、斜面に対して直角に掘られた「横堀」(よこぼり)です。

これは、曲輪を取り巻くように掘られていたり、出入口である虎口の周辺に掘ったり、敵がのぼってこられるような、ゆるやかな斜面があるところにも防御力を高めるために造られました。

竪堀
竪堀

竪堀

斜面を登ってきた敵の横移動を防ぐため、山の斜面に対して直角に掘られた物が「竪堀」(たてぼり)です。

曲輪ギリギリに掘った竪堀は、城の周囲を取り囲まれないようにしたり、敵部隊の横の連携を乱したりすることを目的としています。

畝状竪堀
畝状竪堀

畝状竪堀

竪堀と土塁をいくつも連続して並べた物が、「畝状竪堀」(うねじょうたてぼり)です。

竪堀で横移動できなくなった敵は、もはや堀底をまっすぐに通るしかなくなるので、竪堀の出口で待ち伏せして一気に狙い撃ちしたのです。

堀切
堀切

堀切

山頂にある主郭部分を目指す場合、尾根に沿って進み、敵陣へ侵入するのが有効です。

しかし、細長い尾根筋を歩いていったのに、突然、道が切り取られているとしたら、どうでしょう。これ以上進むことができず、引き返すしかありません。

このように、築城の際に、尾根筋を切っておくことを「堀切」(ほりきり)と言います。普段は堀切に橋をかけておき、敵に攻められたときには橋を外して渡れないようにするのです。

城の背後のような曲輪と曲輪を区切る場所で使われることが多く、いくつも重ねて使われました。

障子堀
山中城の障子堀

山中城の障子堀

障子の桟(さん)のように縦横に四角く区切った堀を「障子堀」(しょうじぼり)と言います。

後北条氏の小田原城などで多用されたユニークな堀で、ワッフルのような網目が美しく、歴女にも人気があります。

山中城」(やまなかじょう:静岡県三島市)にある障子堀は、土がむき出しの空堀で、よじ登ることはできません。

この堀に入ったら最後、敵は完全に封じ込められ、頭上から集中攻撃を受けるしかないのです。

堀底のバリエーション

中世では、堀の幅は10m程度。弓矢や槍での攻撃は、堀幅10mあれば十分です。しかし、鉄砲が使われるようになると、堀の幅は30m以上必要になってきました。そのため、堀の底のバリエーションが増えることとなったのです。

薬研堀
薬研は、漢方薬などをつくるとき薬を粉にするのに使う器具のことで、底が細いV字になっています。

「薬研堀」(やげんぼり)は、最も労力が少なくてすむシンプルな堀の形で、一度堀へ落ちてしまうと登るのは困難。

古代から作られてきましたが、幅が狭いため鉄砲の時代になると鉄砲がとどいてしまうというデメリットがありました。

片薬研堀
鉄砲戦に弱いという薬研堀のデメリットに対して、「片薬研堀」(かたやげんぼり)城内側は鋭角、場外側はゆるやかな斜面を造りました。ちょうどカタカナの「レ」の形をした堀です。

薬研堀の「堀底は歩きにくく、急こう配の壁で登りにくい」というメリットを活かしながら、片側をゆるやかにすることで堀の幅を広くでき、そのため鉄砲がとどかない距離まで広くすることができます。

毛抜堀
「毛抜堀」(けぬきぼり)は、毛抜道具のようにU字の堀底をしています。

片薬研堀と同じような考え方から、堀の幅は広くしておきたいが堀の底を道として敵に使わせたくない場合に使われます。

箱堀
「箱堀」(はこぼり)は、堀底が直線となった堀です。堀の幅を広くしていくと両端の距離が離れ、堀底を丸くすることが難しくなったために、この形が生まれました。

堀底が直線だと敵が自由に行き来できてしまうため、畝(うね)や杭(くい)などの障害物を作ったのです。

広島県・三原城の堀

三原駅

三原駅

歴女におすすめの堀と言えば、広島県三原市にある、かつて存在した「三原城跡」の堀です。

1567年(永禄10年)に、「小早川隆景」が築城した三原城は、四方が堀で囲まれ、瀬戸内海に浮かんでいるように見える「浮城」(ふじょう)として知られました。

見張り台である「天主台」(てんしゅだい)が置かれ、その南側(海側)に本丸があるという構造で、幕末まで利用されます。

しかし明治維新後は、1894年(明治27年)に鉄道を通すことになったことを理由に、本丸、二の丸は取り壊しになり、盛り土を切り崩して駅が建設されました。現在の山陽新幹線と山陽本線、呉線が停車する「三原駅」は、三原城の一部を削って建設されているのです。

新幹線ホームの下には、天主台の長い石垣を観ることができ、北口の通路はその石垣をくり抜く形で設けられ、新幹線改札からすぐに「三原城天主台」へ行くことができます。

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