「指物」(さしもの)とは、戦国時代以降の武士(兵)が、戦場において自身の所在を明らかにするためなどに使った旗のことです。元々は儀式や祭礼の際に用いられていた旗は、平安時代後期の「源平合戦」で、源氏が「白」、平家が「赤」の旗を掲げて、敵味方を区別したのを機に、戦場においても用いられるようになりました(旗印)。ここでは「武具としての旗」に焦点を当ててお話しします。
「旗指物」(はたさしもの)は、戦国時代以降の武士が、戦場において自らの存在や所属などを示すために身に着けていた旗のことです。
旗が合戦で使用される以前には、衆人の注目を集め、威儀を正すためなど、主に朝廷や寺院での儀式、神社の祭礼などに用いられていたと言われています。
また守護神を迎え、加護を祈るための「招代」(おぎしろ)、「依代」(よりしろ)にすることにも利用されていたように、平和的な使用が一般的でした。
こうした旗の使用方法に変化が生じたのが、平安時代末期。以後、敵味方を区別するための陣具として、使われるようになります。当初、使われたのは、旗の上部のみに竿を通し、下部は固定しない旗。これらは「流れ旗」や「長旗」と呼ばれました。
のちに風の影響や、移動の際に絡まってしまうことを防ぐため、旗の横も竿に固定する形式の「幟旗」(のぼりばた)が制作されるようになります。
時代は進み、合戦での戦い方が騎馬武者の一騎打ちから、歩兵らによる集団戦へと変化するにつれて、瞬時に敵味方の区別を行なう必要性が高まりました。
そこで考案されたのが旗指物。腰に差す「腰指」(こしざし)もありましたが、戦国時代後半に、背中の受筒に差して使う形式が定着したとされています。また、戦国時代から江戸時代にかけて戦時に編成された部隊である「備」(そなえ)のひとつとして、「旗組」が組織されました。
戦国時代において、ひとつの部隊を率いる武将が陣に据える旗は、主家を表す「大馬標」(おおうまじるし)、「纏」(まとい)を、幟旗の側に置きます。侍大将の側には「小馬標」を置くことで、備の位置や武威を内外に示しました。
また旗は、兵の進退を指示する道具としても、利用されています。戦況などの状況を表す「旗色がいい(悪い)」や、自身の立場を明らかにする「旗幟(きし)を鮮明にする」と言う言葉は、旗指物の役割に由来しているのです。
源頼朝
軍旗などの「旗印」(はたじるし)は、戦国時代に入ってから戦場に登場したのではなく、それ以前から用いられていました。
その発祥は、平安時代までさかのぼります。政情不安などにより、平安時代末期には、天皇家などの皇族・貴族が私設の軍隊を持つことが常態化。これに伴って、武士の存在感が増大し、表舞台に登場するようになります。
そして、棟梁を中心として地縁や血縁で結ばれた家は「武家」となり、戦闘行為を生業としていきました。このような武士達が、戦場において一目で敵味方を区別できるようにするために、旗印が登場したのです。
旗印は平安時代末期に源氏が白、平家が赤を用いた源平合戦の頃から本格的に用いられるようになります。合戦の勝者となった源氏の棟梁「源頼朝」による鎌倉幕府開府により、本格的な武家政権が誕生。
そのあと、合戦にて旗印を用いる文化が一般的になっていったのです。
歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!
旗印と馬標の大きな違いは形です。一般的に、長方形で旗の形をしていれば旗印、旗の形でなければ馬標。
馬標を使用する以前は、旗を独自の意匠にして、総大将の馬の側に置き、所在を示していました。のちに旗の形にとどまらず、様々な素材をもとに馬標が考案されます。
遠くからでも確認できるように、高く大きく目立つように作られましたが、ひとりの馬標持が扱えるほどの大きさを限度としていました。時代が進むにつれて、馬標は大馬標と小馬標に分岐。
小馬標は主に布帛(ふはく:布)、紙、木材、竹材、鯨のひげ、鳥毛、皮革などの素材を使用して制作されます。これに金銀箔や漆、顔料、染料などを用いて作り込まれ、様々な意匠が誕生。
大馬標に比べて変化に富んでいたと言われています。
流れ旗
軍旗が登場した平安末期から用いられてきた古典的な軍旗が流れ旗です。流れ旗の特徴は、旗の下部を固定しないこと。
旗の上部にのみ竿を通す方法で、旗を固定していました。流れ旗は、室町時代まで主流の軍旗として用いられていましたが、下部を固定しないため、風の影響を受けてしまいやすいことや、移動の際にからまりやすいなどの不便な点があったことから、室町時代に入ると、あまり使用されなくなっていったのです。
幟旗
流れ旗に代わって登場したのは、風の影響を受けやすいという流れ旗の弱点を補う形で開発された幟旗。
この旗は、旗の上部だけでなく横も固定しており、以後、全国に普及していきました。その裏には、流れ旗の弱点を克服しただけでなく、管理の容易さも関連していると言われています。
旗の上部と横がしっかりと固定されている幟旗は、流れ旗と比べて丈夫なつくりをしており、ある程度粗雑に扱われる戦場での耐久性が備わっていると言う点も重要でした。幟旗は、旗竿に固定する部分の形状によって名称が異なります。
「乳」(ち)と呼ばれる小型の布で旗を固定した形が「乳付型」、旗竿を1枚の布でくるむように旗を固定した物は「縫いくるみ型」と呼ばれていました。
流れ旗と幟旗は、ともに縦3m60cm、幅76cm程度が一般的な大きさだったと言われています。
もっとも、大きさに一定の決まりはなく、武将によってまちまちでした。また、旗の大きさには流行があったり、家の独自規定が存在したりしており、そうした規定によって大きさが決められていたとされています。
四半(左)・四方(右)
軍旗には、正方形の物と長方形の物で異なる名称がありました。
縦横の比率が正方形に近い物を「四方」、長方形に近い物を「四半」と呼び、これらは主に馬標や纏(まとい:江戸時代に火消しが用いた旗印)に用いられていました。
もっとも、これも流れ旗や幟旗と同様に、決まったサイズという規定は存在せず、現在残されている遺品を調べても縦横の長さや比率には、様々な種類が存在します。
さらに、装飾品として旗の上部に小さな旗や小物を装着することもありました。
旗の上部にもうひとつ取り付けた小型の流れ旗を「招き」と呼び、他にも武将によって様々な小物が装着されていたとされており、これらの小物は「出し」と総称されます。
このように、軍旗は武将ごとに意匠をこらして制作されていました。ある意味、現代で言うところの「社旗」に近い存在だったと言えます。
戦国も後期に差し掛かると、旗だけでは差別化が難しくなり立体の目印も作られるようになりました。
こうした立体の識標を「作物」(つくりもの)と呼びます。作物は、木や紙などを加工し、立体に成型することで識標としての役割を果たしました。
また、こうした立体の識標をつくるという発想はのちに数多くの個性的な馬標が生まれることになったきっかけともされています。
軍旗が担う最も重要な役割として、部隊指揮官の所在について、諸兵や指揮官のさらに上司にあたる人物(総大将など)に知らしめるという役割がありました。
当時は現代と違って無線などで部隊の位置を相互に伝え合うことが不可能だったため、当時としては、部隊の位置を知らせる手段として軍旗が重宝されたのです。
これによって、諸兵は部隊指揮官の所在地を把握して自身の任務に従事することができ、各部隊を統括する軍の大将らが部隊の位置を把握することで、戦場での現状認識や、臨機応変な作戦の立案に、大きく貢献しました。
独自の意匠を有する軍旗を保有することができたのは、功を認められた限られた武将のみでした。
すなわち、軍旗の所有を認められることは、武将として武功を有していることの証明であり、客観的な自身の評価を象徴する道具でもあったのです。
そのため、単なる所在等の確認手段である以上に、武将自身が自らの武勇を部下達に示すという役割もかねていたと言えます。
武将達が率いている部隊ごとに異なる軍旗を使用していた理由は、自軍の軍功を示すためでもありました。
戦国武将達にとって軍功を挙げることは「仕事」そのものであり、戦場における軍功の扱いは極めて重要。なぜなら、合戦後に行なわれる論功行賞に直結するため、武将達にとって軍功を挙げ、それを証明することができるか否かは、非常に重要な問題だったのです。
そのため、戦場において軍旗によって部隊の所在を確かめ、当該部隊の軍功の有無を確認する「軍監」(ぐんかん)と呼ばれる役割を担う者も配置されていました。
前述のように、戦国時代において自らの軍旗を持つことができるのは、一部の武将や大名に限られていたと言われています。
そのため、軍旗を所有していない個人は指物と呼ばれる小物を身に着け、軍旗と同じような役割をもたせました。個人が身に着けていた旗指物は、読んで字のごとく背中に小さな旗などを差し、武士(兵)自身の所在や軍功を証明する手段として用いられるのが一般的。
また、旗指物の名前自体はそれを指していた人物の立場や、役職によって変化していたと言われています。
旗指物は、職階ごとに揃いの意匠で統一され、戦場においては足軽が用いる「足軽指物」、本陣と部隊の連絡役が用いる「使番指物」(つかいばんさしもの)、特定の役職が与えられた者には「番指物」などの指物が使用されるようになります。
一方、武将自身が背に指す場合は、固有の意匠で制作された、指物を用いました。
指物を装着する当世具足
指物は、集団戦が主流となった時代において、敵味方を区別する手段などで欠かすことのできない存在。
そのため、この時代に登場した「当世具足」(とうせいぐそく)を象徴する装備だと言えます。
当世具足の背中には、指物を挿入する「受筒」(うけづつ)の上部を支える「合当理」(がったり)、受筒の下部を差し込んで胴に固定する「待受」(まちうけ)を装備。これにより、指物を装着しての戦いが可能になりました。