甲冑(鎧兜)の分類

現代の甲冑

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乱世であった戦国時代のあと、太平の世が長く続いた江戸時代が終焉を迎えると、日本は一気に近代化へと進んでいきます。西欧から次々と文明の賜物が押し寄せる中、甲冑にはどのような変化が起きていくのでしょうか。「武士」と言う身分が失われると、甲冑のあり方もそれまでとは変わらざるを得なくなっていきました。 ここでは、江戸時代末期から明治時代、そして現代へと繋がる甲冑の歴史についてご紹介します。

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甲冑が役割を終える江戸時代後期から末期

徳川慶喜

徳川慶喜

1603年(慶長8年)から始まった江戸時代は、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の「大政奉還」(たいせいほうかん)によって 、1868年(慶応4年/明治元年)に幕を閉じます。

武士の魂であった刀剣とともに甲冑は、時代の流れの中で無用の物となっていったのです。

ひとつの終わりに向かって進む時代

江戸幕府の求心力が失われていた江戸時代後期

200年以上に亘って徳川政権を維持し続けた江戸時代。前期、中期、後期と言うように、3つの時期に分けた場合、1800年代半ば以降が後期にあたります。

すでに戦乱の世は遠く、武家同士の争いはなくなってはいましたが、庶民の生活を安定させるには至りませんでした。

加えて、1833年(天保4年)に「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)が起こると、生活の厳しさにあえぐ農民の一揆が頻発。1837年(天保8年)には、江戸幕府の元役人であった「大塩平八郎」(おおしおへいはちろう)が反乱を起こします。

その後、幕府主導で立て直しを図り、老中「水野忠邦」(みずのただくに)による「天保の改革」が断行されますが、庶民に質素倹約を呼びかけて贅沢を排除しようとするも、庶民からの反発を買うばかりで、経済的な効果には結び付きませんでした。

幕末は開国からはじまった?

国内政治の求心力が失われていく中、1853年(嘉永6年)、軍艦4隻を率いるペリーが浦賀(うらが)に現れ、日本へ開国を迫ります。

大国の勢いに押される形で、翌1854年(嘉永7年/安政元年)には「日米和親条約」を締結。日本の鎖国体制が崩れ、西欧諸国が次々と日本に対して強硬な姿勢で、不平等条約を要求するようになったのです。

この当時の国内の思想は、「佐幕」(さばく:幕府を支持し、倒幕に反対していた派閥)、「公武合体」(こうぶがったい:「公」である朝廷と「武」である江戸幕府の協力を図り、政局の混乱を収めようとした思想)、「尊王/尊皇攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国を排除しようとした思想)などが複雑に対立し、「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)、「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)、「土佐藩」(とさはん:現在の高知県)、「肥前藩」(ひぜんはん:現在の佐賀県)などから優れた人材が世に送り出される一方で、次第に江戸幕府の存続が困難になっていきました。

やがて、幕府方と新体制側の戦が本格化すると国内は二分され、倒幕の勢いが加速し、新しい時代へと突き進んでいきます。

江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、土佐藩15代藩主「山内容堂/豊信」(やまうちようどう/とよしげ)の進言を受け入れ、自ら退くことを決断。

しかし、1867年(慶応3年)の大政奉還後も「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が続き、1869年(明治2年)、「函館/箱館戦争」(はこだてせんそう)の終結をもって、旧幕府体制が完全に崩壊することとなったのです。

時代の大変革と甲冑

武家のステータスとなっていく甲冑

主だった戦も少なく平穏な時代であった江戸時代の265年間において、本格的な最後の内乱となったのは、1637年(寛永14年)に起こった「島原の乱」(しまばらのらん)。

これ以後は、武士が甲冑を必要とするような事態は、あまり見られなくなりました。甲冑は、武家の蔵の奥深くに保存されるか、代々伝わる家宝として飾られることになっていったのです。

江戸時代の後期に入っても、甲冑が求められる機会はありませんでした。太平の世を謳歌していた時代には、甲冑としての実用面よりも、威風堂々とした装飾性が高められていきます。

また、過去の甲冑に関する研究が盛んに行なわれるようになると、鎌倉時代などの形式も復活してきましたが、あくまで見栄えが重視されていたのです。

しかし、そのような研究は十分とは言えなかったため、決まりごとに背いた異質な甲冑も数多く作られています。

実質的な武士軍団が消滅していた時代にあって、甲冑は装飾技術の粋を凝らした武家のステータスを表現するための武具となっていました。

雪の下胴

雪の下胴

そのため、実戦では邪魔になりそうな防具など部品を付ける風潮も見られるようになったのです。一方で、藩独自で伝えられた技法や様式の甲冑も残されています。

仙台藩」の歴代藩主を務めた「伊達家」に伝わる重厚な作りの「雪の下胴」(ゆきのしたどう)や、「細川家」の簡素な「越中具足」(えっちゅうぐそく)、「前田家」の高度な工芸技術を施した「加賀具足」(かがぐそく)などです。

甲冑における様式美は大切に保存されながらも、その活躍の場は徐々に少なくなっていました。

もはや甲冑の時代ではない

幕末になると再び戦乱の時代となります。長州藩と薩摩藩を中心とした倒幕派と幕府軍は、激しい戦闘を拡大。

ところが開国後、すでに欧米諸国からは新式の銃や強大な威力を持つ大砲、近代的な兵法などが輸入されており、戦の様相も大きく変貌を遂げていきました。

切り合いが行なわれる接近戦であれば、甲冑は防御の役割を担いますが、射程距離が長く貫通力の高い洋式銃の前では、単なる的(まと)に過ぎません。

また甲冑を身に着けていることは、被弾した際に、かえってダメージが大きくなる可能性もあったのです。

江戸幕府の終焉とともに役割を終えた甲冑

そんな中でも、近代化の遅れた幕府軍は、旧来の装備で対抗していました。

しかし、討幕軍が取り入れた近代兵器の圧倒的な威力の前に、考えを改めざるを得なくなります。それまで培われた軍学や軍政、武士の誇りをもってしても、最新鋭の兵器と戦術、軍装によって組織された倒幕軍に到底及ばなかったのです。

戦のあり方そのものが変わり、武器の主流は近代的な洋式銃や大砲などに移りました。甲冑では、近代の戦闘法に対応できないことを思い知らされた幕府軍も、早急に近代的な軍備を整えますが、遅きに失します。

武士の魂であった刀剣のみならず、甲冑でさえも時代の流れには逆らえません。江戸幕府の終焉とともに、甲冑はその役割を終えたのです。

甲冑から軍服に着替えた武士達

洋装への対応を迫られる

洋式の軍備や兵制の導入により、戦闘服についても、甲冑から動きやすい服装へと変化が起こります。

それまでの和装姿では、近代軍隊に対応しづらく、洋装への移行が進められていったのです。しかし、これまで経験のない洋式のシャツやズボン、靴になじむまでには、時間がかかったことが想像できます。

これまでの甲冑と「」(やり)では戦力にならないことから、倒幕派はもちろん、幕府方でも洋装軍服の着用を進めました。

しかし、武士階級の意識が色濃く残る幕末には、洋装の下に和服の下着を着ていたり、シャツと袴を組み合わせたりといったことは珍しくなく、また、洋式軍服に「陣笠」(じんがさ)や「陣羽織」(じんばおり)を身に着け、帯刀している姿も多く残っています。

幕府軍の軍服

幕府が当初採用したのは、オランダ軍の様式をもとにした軍服です。蘭学者の「高島秋帆」(たかしましゅうはん)が、オランダ砲術をもとに高島流砲術を創始し、洋式の兵学が導入されます。

その当時の軍装では、高島秋帆が考案したとされる「ペロトン笠」や「トンキョ笠」などと呼ばれる三角の被り物に、「筒袖着物」(つつそできもの)と「裁着袴」(たっつけばかま)を着用し、「脇差」(わきざし)を腰に差していました。

さらには、襷(たすき)がけで「ゲベール銃槍」を背負い、足もとは地下足袋(じかたび)や草鞋(ぞうり)が一般的な姿。洋式の軍服が取り入れられていたとは言っても、革靴が支給されていたのは、小隊長以上の将校であったと伝えられています。

被り物については、のちに不人気だったペロトン笠から、江戸幕府における軍学者であった「江川太郎左衛門」(えがわたろうざえもん)が考案した「韮山笠」(にらやまがさ)に代えられました。

また、フランス軍事顧問団から近代戦術の指導を直接受けた「伝習隊」(でんしゅうたい)では、フランス陸軍の軍装を導入。

幕府軍将校の軍装は、フランス式のフロック型マンテルと呼ばれる「外套」(がいとう)の内側にチョッキとズボン、「レキション羽織」、革靴やブーツを身に着ける姿。被り物は陣笠、ベルト帯革には武士の伝統にしたがって、刀剣を差していました。

将校の軍服の特徴であるレキション羽織は、筒袖の陣羽織です。「羅紗」(らしゃ)で仕立てられており、背中には、乗馬を容易にするための深いスリットがあります。

レキション羽織をはじめ、将校が身に着ける軍装は非常に高級品でしたが、軍装はすべて自前のため、武器類を含めてかなりの負担となりました。

一般の兵である歩兵については、軍装はすべて貸与、もしくは支給されましたが、ここでも革靴などまでは手が回らず、草履履きや地下足袋を着用。

頭には、兜頭巾(かぶとずきん)を被り、立襟で釦留め(ぼたんどめ)になっている筒袖上衣に、「段袋」(だんぶくろ:「シャモ袴」とも呼び、武士の訓練用として、袴をゆったりとしたシルエットに改良したズボン)などの「陣股引」(じんまたひき)を履いていました。

また歩兵は、武器として脇差と銃剣を帯刀し、「背嚢」(はいのう:軍人などが背中に負って用いた、布製、または皮製の方形の鞄)を背負っていたのです。

諸藩の軍服

諸藩では、オランダ軍の他、イギリス軍やフランス軍などの様式をそれぞれに取り入れ、和式の軍備と合わせて、アレンジして導入されました。

薩摩兵は立襟釦留めの軍服に、ペロトン笠をもとに薩摩藩で考案された「半首笠」(はっぷりがさ)を被っているのが特徴。筒状軍帽ほど高さのある形状ではありませんが、やはりかなり目立っていたと言えます。

また、長州藩で結成された「奇兵隊」(きへいたい)は、最初から統一された西洋的な軍服を着用していた訳ではなく、当初は胴着に袴と言う和装軍服が用いられており、生地やその色などに関しては、身分ごとに細かい決まりがありました。

これは、軍服用に毛織物を輸入し、和装から洋装軍服に変わってもしばらくの間は続いていたと伝えられています。

しかし、1868年(慶応4年/明治元年)に起こった「鳥羽・伏見の戦い」の前後には、羅紗の生地で全軍が統一され、身分に関係なく同じ軍服で戦うようになりました。

例えば、この鳥羽・伏見の戦いを画題とした合戦浮世絵である「徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公」(「長谷川貞信」作)からも、和装軍服ではありますが、旧幕府軍の総大将であった徳川慶喜が、その他の兵士達と同じ軍服を着用していたことが窺えます。

近代国家の開始から現代へ

開国から内乱を経て、近代国家への道を歩みはじめた日本。まったく異なる社会へと変容する時代にあって、日本式の甲冑はどのような扱いとなったのでしょうか。

明治時代ってどんな時代?

文明開化で庶民の生活も一新
1868年(慶応4年/明治元年)の明治天皇ご即位によって始まった新しい社会は、人々の暮らしや考え方を変えていきます。

それまでの武士が支配した封建的な制度から、天皇を中心とした立憲君主制国家へと移り、江戸を東京と改めて皇居が置かれました。

現実的には、士族階級が政治を動かしてはいましたが、名目上は身分制度が撤廃されたことで、それまでの身分における上下関係の意識が薄れていきます。

ザンギリ頭

ザンギリ頭

また、1871年(明治4年)に出された「散髪脱刀令」(さんぱつだっとうれい:通称「断髪令」)により、武士や町人の区別がつかない「ザンギリ頭」が一般化したことも、身分の平等化に一役買ったと考えられているのです。

「文明開化」は欧米の影響を受け、日本人の生活が、一気に変わっていく様子を表している言葉。欧米からの思想や物品の流入による影響は大きかったと言えます。

この文明開化では模倣するだけでなく、日本既存の文化との融合など様々な形で新しい文化が生活に浸透していきました。

当時における日本の人々の驚きは、ガス灯や鉄道の出現などでもよく知られています。

しかし、こうした西洋化については、まだ都市部などに限られており、地方各地では、明治時代の終わり頃になっても、江戸時代の名残が色濃く残る場所もありました。

西欧の列強国に負けない国に
富岡製糸場

富岡製糸場

自由民権運動によって国会開設が求められるなど、政治面での成熟が急速に進み、欧米諸国に追い付くための産業振興についても、盛んになっていきます。鉄道の開業や「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう)の設立は、「殖産興業」(しょくさんこうぎょう)の象徴です。

外交では、幕末に結んだ各国との不平等条約に苦しめられていましたが、明治時代には「日清戦争」、「日露戦争」と言う大国との戦いで、大きな勝利を経験します。

これにより、国家として自信を得た日本は重工業に力を入れるなど、さらに強い国を目指して邁進。1911年(明治44年)には関税自主権を回復し、幕末以来の悲願であった不平等条約の完全撤廃に漕ぎ付けたのです。

明治時代以降の甲冑の評価

西欧から日本文化に注目が集まる
開国から「明治時代」と言う新しい時代に入った日本。

しかし欧米列国からは、当初「野蛮な国」と言う見方もされていたことも事実です。西欧とはまったく異なる文明を育み、長く鎖国政策を取っていた日本は、西洋人からは理解しがたい習慣も残していました。

一方で明治時代には、日本特有の文化や芸術に対して、海外からの関心が集まるようになります。繊細な手仕事や優美な色彩感覚が、諸外国の人々の目を魅了していったのです。

すでに従来の機能が見られなくなってしまっていた甲冑にも、「美術工芸品」としての観点からスポットが注目されるようになります。

戦闘のための装束でありながら、細部に亘って精緻な作りを凝らしたその技術に感嘆の声が上がり、海外からも高く評価されるようになりました。

装飾と技巧の粋
現代の合切袋

現代の合切袋

西欧の鎧は戦闘力のみが重視され、無骨な作りの物が多く観られます。金属を多用しているため、色彩も通常は単一です。

そうした西欧の鎧と比較して、日本の甲冑は多彩な色使いで仕上げられており、「縅」(おどし)ひとつ取っても様々な材質を用い、色彩豊かに繋ぎ合わされています。

また、繋ぎに使われている各部品には意匠が凝らされており、各大名家や武将によって、異なる甲冑が制作されたのです。

日本の甲冑はデザイン性が高く、当時の技巧の粋が集結しており、織物の文様や染め、彫金などの技術には汎用性があります。

甲冑は決して身近ではありませんが、そこに息付く技術は、「合切袋」(がっさいぶくろ:日常に用いる細々[こまごま]した物を携帯するための手提げ袋)や巾着(きんちゃく)、鞄、財布や名刺入れなどの製品の中に形を変えて、現代に引き継がれているのです。

現代に通じる美術品としての価値

これまで見てきたように、甲冑は伝統工芸技術の宝庫。戦で用いられていた時代の甲冑には、最上級の技術がふんだんに使われており、古美術品としてはもちろん、工芸技術や歴史資料としての高い価値があります。

戦いの装備としてだけではなく、武士の精神性を表現するために存在してきた甲冑は、戦乱のない江戸時代においても、象徴的な武具のひとつとして珍重されてきました。

現代に伝わる甲冑は、そうした背景において各時代の鍛鉄や彫金、皮革、漆、組紐、染、織と言ったあらゆる技術を駆使して制作されています。

世界中に根強いファンがいる日本文化の中でも、美術品としても価値が高い日本式の甲冑には、外国の人をも夢中にさせる深い魅力があるのです。

まとめ

江戸時代は、日本の歴史の中でも類を見ないほどの長期政権を誇った時代。

しかし、江戸時代後期から末期にかけては、時代の流れに古い仕組みが逆らえず、大きく揺らでいきます。やがて、再び戦乱の世となりますが、それまで武士の戦にとって要となっていた甲冑は、すでに過去の武具でした。

そうした転換を経た日本式の甲冑は、現在の平和の時代にあっても、世界から熱い視線を注がれているのです。甲冑作りに魂を込めた職人達の技は、時が経っても色あせることはありません。

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