武具の基礎知識

戦国武将の旗印

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戦国時代の合戦の様子を思い浮かべたとき、戦場にはためく色とりどりの旗をイメージすることは難しくないでしょう。戦国時代には「旗印」(はたじるし)と呼ばれる軍旗が、戦場で用いられていました。ただ、その存在を知っていても、実際に戦場でどのような役割を果たしていたのか、あるいはどのような形状をしていたのかについて詳しくは知らないという方も少なくないのではないでしょうか。
ここでは、戦国時代に用いられていた旗印を、それを用いた武将とともにご紹介します。

合戦旗指物・幟写真/画像合戦旗指物・幟写真/画像
武将や戦国時代にまつわる芸術品「旗指物」を解説や写真でご覧頂けます。

戦国時代の著名な旗印とデザイン

旗印には、様々なバリエーションが存在していました。すなわち旗印は、戦国武将が身にまとっていた「当世具足」と同様に、それを用いる武将の思想や世界観が反映されていたのです。

特に著名な武将に関しては、研究例も多く、近年では旗印の発祥や由来についても、様々な角度から研究が行なわれています。

織田信長の旗印

織田信長の旗印

織田信長の旗印

織田信長」は、「永楽通宝」を図案化した旗印を使用していました。

「永楽通宝」とは、「明」(当時の中国)の「永楽帝」が作らせた通貨で、江戸時代初期まで実際に流通していたことでも知られていますが、「日明貿易」における輸入品として、日本に輸入されています。

現在では想像することが難しいのですが、当時の日本では、こうした通貨の輸入はごく一般的なことであり、貿易の主要な輸入品でもありました。

もっとも、日明貿易を主導していたのは織田信長ではなく、なぜ旗印に永楽通宝があしらわれているかについては、詳しいことは明らかではありません。

有力に唱えられているものとして、織田信長は、「楽市楽座」を始めたと言われているなど、領国経営では、特に経済・商業政策を重視していた戦国大名であることから、貨幣経済への関心が高かったと言う説があるのです。

そうした織田信長だけに、永楽通宝を図案化した意匠は、家紋のひとつとしても使用。同時に、「黒田官兵衛」など複数の家臣に下賜されています。

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豊臣秀吉の旗印

豊臣秀吉の旗印

豊臣秀吉の旗印

豊臣秀吉」は、旗地が金色に光った旗印を使用していました。

この旗印は、「総金」と呼ばれ、豊臣秀吉が羽柴姓を名乗っていたころから用いられ、天下人となったのちまで使用され続けていたと言われています。

総金には文字などはありませんでしたが、戦場に金色に輝く、この旗がはためくことで豊臣秀吉の存在感を表現していました。

晩年において「大坂城」に設置した黄金の茶室や、「聚楽第」の建設などにも表れているように、豊臣秀吉の派手好きは広く知られているところです。

総金は、こうした豊臣秀吉の嗜好を端的に示しています。

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徳川家康の旗印

徳川家康の旗印

徳川家康の旗印

徳川家康」は「葵の御門」(三つ葉葵)が入った旗印と、自身の願いを記した旗印を使い分けていたと言われています。

特に有名なのは、後者の旗印で、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)と記されていました。この言葉は、現代語に訳すと「穢れた国土を離れ、極楽浄土を求める」。

これは、平安時代の高僧・源信が著した「往生要集」のなかで、世情不安の世の中において、人々の不安を救う言葉として記した言葉。この旗印は、徳川家康がかかわった合戦を題材とした浮世絵にも、描かれているのです。

その後、「桶狭間の戦い」で「今川義元」が討ち取られたあと、織田軍の猛攻によって窮地に立たされた徳川家康は、「大樹寺」の第13代住職「登誉上人」(とうよしょうにん)から、この言葉を授けられます。

これを聞いた徳川家康は、戦乱が続いている戦国の世を「穢土」、戦のない泰平の世を「浄土」と位置付けました。以後、徳川家康はこの8文字を染め抜いた旗印を掲げて奮戦します。

関ヶ原の戦い」や「大坂冬の陣・夏の陣」などの激戦を経て、天下を手中に収めたことで、戦いのない世の中を実現。厭離穢土欣求浄土を実現したのです。

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武田信玄の旗印

武田信玄の旗印

武田信玄の旗印

武田信玄」は、「孫子」の言葉を引用した「風林火山」として知られる漢詩を染め抜いた旗印を使用していました。

正確には、「風林火山」の四文字がそのまま旗印に記されていたわけではなく、「疾如風徐如林 侵椋如火不動如山」(疾きこと風のごとく、徐[しず]かなること林のごとし。侵掠[しんりゃく]すること火のごとく、動かざること山のごとし。)と染め抜かれていました。

この言葉は、孫子の「兵法書」に登場。武田信玄は、孫子の兵法に深い感銘を受けていたと考えられます。引用の経緯などについては、はっきりとは分かっていないことから、「風林火山」も創作ではないかとも言われているのです。

また、武田信玄については、「使番」(つかいばん)が使用した旗指物も独特です。武田信玄軍において、大将が発する命令を前線で展開している各部隊に伝達する役目を担う使番は、ムカデが描かれた「使番指物」を用いました。

ムカデが図案化された理由としては、ムカデは前に進むことはあっても、後退することがなかったとされていたことから、戦場において縁起の良い虫だと考えられていたためであると言われています。

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上杉謙信の旗印

上杉謙信の旗印

上杉謙信の旗印

上杉謙信」は、仏教の教えに基づいた旗印を使用していました。上杉謙信には、著名な旗印が2種類存在。

ひとつは「毘」(び)の文字をあしらった旗印で、もうひとつが「龍」の文字をあしらった旗印です。

毘と言う文字は、「毘沙門天」(びしゃもんてん)の頭文字。毘沙門天とは、四方を守護する四天王である持国天、増長天、広目天、多聞天のうちの、多聞天を表しました。

七難を避け七福を与える北方の守護神であり、闘いの神としても厚く信仰されています。

上杉謙信は自身を、毘沙門天の生まれ変わりであると信じ、家臣にも「我を毘沙門天であると思え」と言ったとされる逸話もありました。上杉家で誓約を結ぶ際は、居城の「春日山城」内にある毘沙門堂で行なわれます。

あるとき、急いで誓約をしなければならなかったときがありました。毘沙門堂に行く時間がなかったことから、上杉謙信は自分の前で誓うよう家臣に伝えます。しかし、家臣は従いませんでした。上杉謙信は「私がいてこそ、毘沙門天が降りてきます。私を毘沙門天だと思い、ここで誓いなさい」と語ったのです。

上杉謙信は、自身を毘沙門天の化身と自称しながらも、毘沙門堂に安置していた毘沙門天に、熱心に祈っていたと言われています。出陣前には毘沙門堂にこもり、勝利祈願を行なっていました。

龍と言う文字も、仏教において魔を払う「不動明王」を象徴する動物として描かれた龍から取られています。仏教に深く帰依していた上杉謙信らしい旗印だと言えるのです。敵に総攻撃を仕掛ける際、本陣に立てていたと言われています。

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明智光秀の旗印

明智光秀の旗印

明智光秀の旗印

明智光秀」は、水色の旗地に「桔梗紋」(ききょうもん)を白く染め抜いた旗印、または白地に水色の桔梗紋を染め抜いた旗印を用いていました。

一見、異色とも思えるカラフルな色使いですが、これは、土岐氏の支流に当たる明智家の家紋が「水色桔梗紋」だったため。一説には、先進的な考えの持ち主としても知られた織田信長が羨ましがったとも言われているのです。

本能寺の変」において、迫りくる軍勢について問われた「森蘭丸」は、織田信長に対して、こう返答しています。

「旗印は水色桔梗紋。明智日向守光秀殿、謀反でございまする」。これを聞いた織田信長は一言「ぜひに及ばず」と答えました。つまり織田信長は、森蘭丸の「旗印は水色桔梗紋」の言葉によって、明智光秀が軍を率いて本能寺に攻め込んできことを知り、覚悟を決めたのです。

本能寺の変を題材としている浮世絵には、白と水色の旗印がはためく様子が描かれています。

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戦国三英傑の馬標

合戦が大規模化すると、旗印はさらなる発展を遂げました。それまでのいわゆる旗状の物から様々な意匠を用いた「馬標」が登場。総大将が陣取った「本陣」の場所の指標となったのです。

馬標と言う言葉の由来は、本陣の馬の側に立てられていたこと。こうした馬標が用いられるようになったのは、戦国時代後半だと言われています。

織田信長の馬標

馬標 織田信長

馬標 織田信長

織田信長の馬標は、黄金に輝く「唐傘」(からかさ)でした。

傘の生地がすべて金色で塗られた派手な意匠。唐傘は、和風の笠ですが、織田信長の馬標の意匠は、南蛮文化の影響が色濃く表れた形をしています。

現代においても使用されているコウモリ傘のようにも見える形状です。

馬標の発祥については、諸説入り乱れている状況ですが、織田信長を主人公とした江戸時代初期の仮名草子(かなぞうし:仮名で記された物語類の総称)「信長記」(しんちょうき)には、1570~1573年(元亀元年~3年)の頃から使用が始まったとする記述があります。

豊臣秀吉の馬標

馬標 豊臣秀吉

馬標 豊臣秀吉

豊臣秀吉は、派手好きで知られている武将。そんな天下人の馬標は、「軍配」の意匠を用いた「大馬標」、「瓢箪」(ひょうたん)の意匠を用いた「小馬標」ともに金色に塗られ、自身の存在を強くアピールしています。

豊臣秀吉と瓢箪が結び付いたきっかけは、1567年(永禄10年)の「稲葉山城」攻め。

豊臣秀吉が先陣を切って難攻不落の山城・稲葉山城に侵入し、城に火を放った際、織田信長本隊への合図に用いたのが、の先に付けた瓢箪だったと言われているのです。

こうした豊臣秀吉の活躍により、稲葉山城は落城。武功を上げた豊臣秀吉に対して、織田信長は、馬標に瓢箪の意匠を用いることを許します。

豊臣秀吉は以後、戦場において、軍配を象った大馬標とともに、瓢箪を象った黄金の小馬標を使うようになったと言われているのです。

徳川家康の馬標

馬標 徳川家康

馬標 徳川家康

徳川家康は、金扇の大馬標を好んで使いました。1辺が2mを超える巨大な大馬標とともに、銀の繰り半月の意匠を用いた小馬標も使用されていました。

これらの馬標が用いられるようになった時期については、江戸幕府の公式史書である「徳川実紀」に手がかりとなる記述が残されています。「小牧・長久手の戦い」において、本陣の象徴としての「金扇の御馬標」と言う文字を確認することができるのです。

そのあと、徳川家康が出陣した合戦を題材にした屏風には、必ず馬標が描かれたと言われています。

「徳川家康と馬標」については、あまりに衝撃的な逸話が有名です。それが、2度に亘って馬標を倒されてしまった大事件。

1度目は「三方ヶ原の戦い」で武田信玄軍の前に敗退を余儀なくされたときで、2度目が大坂夏の陣において、「真田幸村」(信繁)が率いる真田隊の決死の突入を受けたときです。

合戦において、総大将が陣取る本陣に立てられる馬標が倒されることは、本陣が敵の攻撃にさらされたことを意味しています。

すなわち、自軍の敗戦と総大将の死を意味しているのです。命を落としてもおかしくはないほどの大事件に2度も遭遇しながら、最終的に江戸幕府を開いた徳川家康は、類稀なる「運」を持っていたとも言えます。

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