弓矢は、狩猟の道具として作られた武器です。間接的に遠方の標的を仕留められることから、霊力が宿る神聖な道具と見なされるようになり、祈祷や魔除けなどの道具として使われるようになりました。また、対人用の武器として合戦に導入されてからは、合戦の形態に合わせて弓矢も徐々に形状や構造が変わっていき、鉄砲が登場するまでは主要武器として長く使用されます。
狩猟用武器として作り出されてから現代に至るまで、弓矢がどのような変化を遂げたのか。日本における弓矢の歴史をご紹介します。
正倉院
「正倉院」が所蔵する27張の弓のうち、最短は6尺6分(約183.7cm)、最長は8尺5寸5分(約259.2cm)あり、弥生時代頃には、すでに長大な和弓が使用されていました。
素材には、信濃国(現在の長野県)近辺で採れた「峰棒」(みねばり:カバノキ科の落葉高木)の他、「檀」(まゆみ)や「槻」(つき)などの樹木が用いられています。
丸木を削って太さを一定にし、内側に浅い樋(ひ:溝のこと)を彫り、両端には銅製の弭(はず:弦をかける部位)が付けられました。
献物帳(けんもつちょう:寺社へ奉納する品物を記した奈良時代の目録)には、「黒塗」(くろぬり)、「鹿毛塗」、「黒斑」(こくはん/くろふ)など、表面に塗られた模様や色の名称が記されています。なお、漆などを塗っていない状態の弓は「白木弓」と呼ばれていました。
伴大納言繪巻
(国立国会図書館Webサイトより)
平安時代末期に制作された絵巻物「伴大納言絵詞」(ばんだいなごんえことば/とものだいなごんえことば)に描かれている弓を観ると、およそ6尺前後(約180cm)程度と、後世の和弓に比べて短いことが分かります。
一方で、狩猟用や戦闘用の弓は7尺(約210cm)以上の長弓を用いており、高い威力を有していました。
この頃になると、外側に竹を張り合わせた「伏竹弓」(ふせだけのゆみ)、及び弓の内外に竹を張り付けた「三枚打ち」(さんまいうち)が登場し、威力を保ったまま矢を遠くへ飛ばせるようになります。
また、弓の大きさに合わせて矢の形状も長大になったことで、その重さから矢をつがえる際に取り落とす恐れが出てきたため、弓を握る部分の右側に「椿」(づく/ずく)と呼ばれる突起を付けて、鏃(やじり:矢の先端部、標的に刺さる部分)の支えにしました。
依然として三枚打ちが主流だった一方で、丸木弓も用いられます。合戦でより使い勝手を良くするために、「籐弓」(とうゆみ)という「籐」(とう:ヤシ科の植物)を巻き締めた弓が広く浸透しました。
籐弓における籐の巻き方は様々ありますが、弓に籐を巻くことで、竹と木の接着を補強し、さらに威力を向上させることができたと言います。なかでも代表的なのは「重籐弓」(しげとうゆみ)。長さが2m以上ある世界最大の弓で、最大飛距離は400m。
また、有効射程(敵に致命傷を負わせられる距離)は、約80mもあったと言われており、鎌倉時代における最強の武器として重用されました。
黒漆塗二引両重籐弓
四方竹弓
戦闘が激化したことで、弓矢もさらなる変化を遂げました。
威力を増大させるために、四方を竹で囲った「四方竹弓」が考案され、それに伴って鏃の素材や形状も多様化。
手裏剣のように打つことを目的とした投擲(とうてき:投げること)用の武器「打根」(うちね:非常に短い矢)の原型が考案されるのもこの時代です。
弓胎弓
江戸時代になると、大規模な合戦が起きなくなったことから、次第に弓矢も競技用の道具に変化し、それに伴い競技における「射法」が明確になりました。
寺院などで行なわれる「通し矢」(軒下から矢を射通す競技)の「堂前射法」、神前で行なわれる騎乗による「流鏑馬」(やぶさめ)の「騎射」、地面に立って行なう「徒射/歩射」(かちゆみ/ぶしゃ)が代表的な射法です。
競技用の弓は、素材のほとんどに竹を使用した「弓胎弓」(ひごゆみ)が用いられ、射程距離がさらに伸びました。
また、籠に乗せるための短弓「籠半弓」(かごはんきゅう)と言う、比較的短い弓が考案されたのも江戸時代です。
なお、籠半弓は紀州国(現在の和歌山県全域、三重県南部の尾鷲市、熊野市近辺)の武道家「林李満」(はやしりまん)が開発したことから「李満弓」(りまんきゅう)とも呼びます。