関ヶ原の戦いの結末

領地を加増・安堵された大名

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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に東軍が勝利。大将「徳川家康」(とくがわいえやす)は、12日後の9月27日に「大坂城」(おおさかじょう)の西の丸に入り、論功行賞(ろんこうこうしょう:功績の程度により賞を与えること)のため、勲功の調査へと動きました。
担当は、「井伊直政」(いいなおまさ)、「本多忠勝」(ほんだただかつ)、「榊原康政」(さかきばらやすまさ)、「本多正信」(ほんだまさのぶ)、「大久保忠隣」(おおくぼただちか)、「徳永寿昌」(とくながながまさ)の6名。彼らによる精力的な調査・査定活動によって、徳川家康から論功行賞が発表されたのが、10月15日のことです。
戦いぶりを評価され、領地を加増・安堵された大名についてご紹介します。

関ヶ原の戦いの戦後処理

徳川家康の直轄領は圧倒の400万石に!

徳川家康

徳川家康

論功行賞(ろんこうこうしょう:功績の程度により賞を与えること)にあたって「徳川家康」(とくがわいえやす)と調査担当者は、「石田三成」(いしだみつなり)、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、「小西行長」(こにしゆきなが)など、西軍側に関与した外様大名88名を改易(領地を没収し、身分を剥奪する刑罰)としました。その没収所領高は、416万1,084石。

また、「毛利輝元」(もうりてるもと)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)など5名が減封(所領や屋敷の一部を削減)となり、この没収所領高216石3,110石。さらに「豊臣家」(とよとみけ)の減封により召し上げた220万石とも合わせると780万石にも及びました。

徳川家康は没収した所領を、自分と東軍の大名達に恩賞として配分することに。まずは自分の直轄領を増やし、250万石から400万石にしています。こうすることで、他の大名を圧倒するだけの力を持ち、かつ絶対者であることを示したのです。

徳川家一門を贔屓。東軍の豊臣系大名は地方へ移封

この論功行賞で、特別な待遇を得たのは、「徳川家一門」です。

結城秀康」(ゆうきひでやす:徳川家康の次男)、「松平忠吉」(まつだいらただよし:徳川家康の四男)、徳川家康の娘婿の「蒲生秀行」(がもうひでゆき)、譜代であり徳川家康の娘婿の「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)など、他の大名とは別格に加増されています。

特に、「武田信吉」(たけだのぶよし:徳川家康の五男)は、「江戸城」(えどじょう)で留守番をしていただけで加増され、明らかに徳川家に偏りのある評定でした。

東軍の豊臣家側の大名で、手厚く加増されたのは、「福島正則」(ふくしままさのり)や「黒田長政」(くろだながまさ)、「池田輝政」(いけだてるまさ)、「細川忠興」(ほそかわただおき)。そのなかには、東軍に寝返った「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もいました。

また、本戦で活躍していなくても、その前に起きた戦いで武功のあった「加藤清正」(かとうきよまさ)や「最上義光」(もがみよしあき)、「京極高次」(きょうごくたかつぐ)などは、高く評価。なお、東軍・西軍と分かれた戦いのなかで、親子・兄弟・一族で東西両軍に分かれて戦っていた場合は、東軍側での戦功が重視されました。

しかし、与えられた土地は石高は多かったものの、関東、東海、畿内の要地ではなく、北陸、中国、四国、九州という地方の土地。これは、江戸の防御のため、「豊臣氏」(とよとみし)への監視のため、そして西国大名と豊臣家へのけん制のために再編されたものであり、江戸時代の大名配置の原型となるものでした。

加増率の高い大名達

結城秀康

結城秀康

結城秀康

結城秀康は、徳川家康の次男で、11歳のときに「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の養子になりました。

養子とは言え実質は人質のようなもので、幼い頃から運命に翻弄された人生。

その人物像は、器量よしで文武両道、人望も厚かったと言われています。

27歳のときに起きた「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では、前哨戦である「会津討伐」(あいづとうばつ)に参戦。

石田三成の西軍が挙兵すると、徳川家康は東海道から、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は中山道から関ヶ原へ向かい、結城秀康は、上杉景勝を抑えるため、宇都宮に留まるよう命じられました。

この功によって結城秀康は、下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封となり、「安土城」(あづちじょう)に匹敵する巨城と言われた「福井城」(ふくいじょう)が天下普請で築城されたのです。この加増については、徳川家康の次男である結城秀康を差し置いて、三男の徳川秀忠を将軍候補としていたための配慮とも言われています。

関ヶ原の戦いにおいては、三男の徳川秀忠が遅刻するという失態もあったため、徳川家康は、もともと重臣らが推していた結城秀康を後継にするかどうか再検討したという話もありますが、結局、徳川秀忠が2代将軍となりました。

なお、徳川家康からは、越前67万石の藩祖として、徳川家のルーツである松平姓を名乗ることを許されています。結城秀康自身が松平となることはありませんでしたが、嫡男の「松平忠直」(まつだいらただなお)には、遺言で松平姓を名乗るよう伝えています。

松平忠吉

松平忠吉は、徳川家康の四男で関ヶ原の戦いが初陣。宇喜多軍勢に鉄砲を撃ち、一番槍の功名を得たと言います。

関ヶ原の戦いの終盤は、小早川秀秋の寝返りで西軍の勢いに陰りが出始め、石田三成が逃亡すると、残された島津軍は、あろうことか東軍の真ん中へ向かって突進し、ひるんだ徳川家康軍の隙をついて決死の覚悟で逃げだしますが、この「島津の退き口」と呼ばれる伝説的な撤退戦で、伊勢街道で追い詰めて死闘を演じたのが、松平忠吉をはじめ「井伊直政」(いいなおまさ)、「本多忠勝」(ほんだただかつ)らの東軍の有力武将達です。

松平忠吉自身は「島津義弘」(しまづよしひろ)の甥である「島津豊久」(しまづとよひさ)を討ち取る大手柄でしたが、このとき頭に傷を負ってしまったのです。そののち、武蔵国「忍城」(おしじょう)10万石から清須52万石へと取り立てられましたが、1607年(慶長12年)に28歳の若さで亡くなりました。

蒲生秀行

蒲生秀行の父は、「織田信長」(おだのぶなが)に重用され、豊臣秀吉も一目置かれた「蒲生氏郷」(がもううじさと)です。病弱だった蒲生秀行は、京都の「南禅寺」(なんぜんじ)で僧になっていましたが、父の蒲生氏郷の急死により還俗し、13歳で家督を継ぐことになりました。

のちに湧き起こった家臣同士の内紛により、会津若松92万石から下野宇都宮12万石へと減転封に。しかし、そこへ関ヶ原の戦いが起こり、好機が訪れます。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康の娘を正室に持つ蒲生秀行は東軍に付き、本戦には参戦せず、宇都宮を離れる徳川家康のため、会津にいた上杉景勝の動きを阻みました。この働きによって、戦後は上杉領から60万石を与えられ、ようやく会津へ復帰します。

そのあとは松平姓を名乗ることを許されるなど、徳川の一門衆として認められるようになりましたが、1611年(慶長16年)会津地方を襲った「会津地震」によって体調を崩し、1612年(慶長17年)は30歳の若さで亡くなりました。

池田輝政

池田輝政

池田輝政

池田輝政は、「小牧・長久手の戦い」(こまきながくてのたたかい)で徳川軍に父と兄が討ち取られたため、そののち、家督を継いで「大垣城」(おおがきじょう)の城主となり、のちに13万石の「岐阜城」(ぎふじょう)の城主となりました。

豊臣政権下では、豊臣家一族と同格の扱いを受けていましたが、豊臣秀吉が亡くなると、石田三成襲撃事件に関与するなど徳川家康へ鞍替えする動きを見せました。

このことをきっかけにして徳川家康に接近した池田輝政は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった「岐阜城の戦い」(ぎふじょうのたたかい)で一番乗りして、「織田秀信」(おだひでのぶ)の守る岐阜城を攻略。

さらに本戦では、南宮山で西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)や「吉川広家」(きっかわひろいえ)らと対峙し、これを牽制しています。この戦功によって池田輝政は、徳川家康から「姫路城」(ひめじじょう)52万石を与えられ、姫路藩の初代藩主となりました。

池田家は、次男・三男の所領も合わせると100万石近い石高を持ったため、「姫路宰相100万石」と称されるほど。1601年(慶長6年)には、姫路城の大改修を行なっています。

前田利長

「前田利長」(まえだとしなが)の父は、「前田利家」(まえだとしいえ)です。多くの武将達から人望を集めていた父の前田利家は、徳川家康が最も警戒していた人物。有力武将のストッパー役になっていた前田利家でしたが、62歳で病死。ここから徳川家康の好き放題が始まります。

長男の前田利長が跡目を継ぎ、五大老のひとりとして「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に仕えると、徳川家康にそそのかされ、「3年は加賀に戻らず大坂で豊臣秀頼を守るように」という前田利家の遺言を破って、加賀に戻ってしまいます。

そこを狙って「徳川家康の殺害を企んでいる」と謀反の噂を流された前田利長は、「前田家」(まえだけ)を守るため、徳川家康に謝罪して「母のまつを人質に出し、異母弟で養子にしていた前田利常[まえだとしつね]と徳川家康の孫娘の珠姫[たまひめ]と結婚させる」ことを条件に、和解して貰うという屈辱の決断をするしかありませんでした。

こうして徳川家康の下に就くことになった前田家は、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、北陸戦線で加賀「大聖寺城」(だいしょうじじょう)を攻め落とします。他にも西軍「丹羽長重」(にわながしげ)を撃破するなどの戦功によって、弟「前田利政」(まえだとしまさ)の領地などを加増され、加賀、能登、越中に120万石もの領地を持ちました。

期せずして徳川家と血縁関係となったことで、前田家は安泰に続くことになったのです。

黒田長政

黒田長政

黒田長政

黒田長政は、天才と呼ばれた軍師「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)の子です。

黒田長政は、東軍として「黒田家」(くろだけ)の持つ兵力のすべてを動員して戦いに臨み、斬り込み隊長として石田三成の軍勢と対峙しました。

しかし、強力な石田軍を崩すことができなかったため、迂回して側面から攻撃。この機転によって石田軍の「島左近」(しまさこん)が戦線離脱させることに成功し、徐々に優勢になっていきます。

本戦でも大活躍を見せた黒田長政の戦いぶりでしたが、戦功として評価されたのは、福島正則の監視、小早川秀秋、吉川広家らに対する根回し。黒田長政の働きによって、吉川広家は参戦せず、小早川秀秋が寝返った結果、東軍は勝ちを決めることができたのです。黒田長政は、筑前国名島(えちぜんのくになじま:現在の福岡県)52万3,000石の大封(たいほう:大きな領地のこと)を得ました。

福島正則

福島正則

福島正則

豊臣恩顧の筆頭であった福島正則は、石田三成と仲が悪く、「豊臣家の将来のために徳川家康に就く」と発言して東軍に就きました。

福島正則は、尾張の「清洲城」(きよすじょう)から出撃します。

美濃国(みののくに:現在の岐阜県)の「竹ヶ鼻城」(たけがはなじょう)を落とすと、次は織田秀信が籠る岐阜城を襲撃しました。

本戦では、3倍もの兵を持つ宇喜多秀家の軍と一進一退の激闘を繰り広げ、さらに島津義弘軍を包囲し、敵軍をほぼ壊滅させる大活躍を治めます。これを評価した徳川家康は、論功行賞で20万石近い領地を与え、福島正則は西軍に属した毛利輝元に代わり、「広島城」(ひろしまじょう)の城主となりました。

小早川秀秋

小早川秀秋

小早川秀秋

小早川秀秋は、西軍から東軍へ寝返ったとされていますが、戦後処理では他の裏切り組が厳しい扱いを受けたのに対し、なぜか30万石から51万石へ加増されています。

しかし、人々からは打算的な裏切り者と評価されるようになったのです。1602年(慶長7年)、小早川秀秋は精神を病み、急死しました。

藤堂高虎

藤堂高虎

藤堂高虎

東軍「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、最前線の西軍「大谷吉継」(おおたによしつぐ)隊と相対します。

一時劣勢に立たされますが、「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「朽木元綱」(くつきもとつな)、「小川祐忠」(おがわすけただ)を寝返えらせて盛り返します。

また、小早川秀秋は唐突に寝返ったと言われるのが通説ですが、最近では藤堂高虎によって調略を受けたからとも言われているのです。

論功行賞では、これまでの「宇和島城」(うわじまじょう)8万石の安堵に加えて、新たに「今治城」(いまばりじょう)12万石が加増され、合わせて20万石となりました。

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