関ヶ原の戦いの結末

江戸幕府の成立

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豊臣政権最大の内紛「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。「東軍」も「西軍」も共に、「豊臣家」(とよとみけ)のための戦いという大義名分を掲げて戦っており、東軍も初めから「徳川家康」(とくがわいえやす)を征夷大将軍にし、江戸幕府を開かせるために参戦したわけではありません。
しかし、東軍の大将である徳川家康は、関ヶ原の戦いの結果得た莫大な所領によって、これまでの封建制支配を覆す「幕藩体制」(ばくはんたいせい:幕府の支配下に置きながら、独立の領地をもつ諸藩を統治する政治体制)を確立します。表向きは「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の後見役という立場を利用し、一方では着々と徳川の世に遷す(うつす)準備をしていました。

関ヶ原の戦いは何を変えたか

大名の鉢植え化を実現した幕藩体制の成立

源頼朝」(みなもとのよりとも)が鎌倉時代を成立させたことによって始まった「封建制支配」(ほうけんせいしはい)ですが、その理想形が、江戸時代の「幕藩体制」(ばくはんたいせい:幕府の支配下に置きながら、独立の領地をもつ諸藩を統治する政治体制)です。

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、大名が自国を治める「分権国家」(ぶんけんこっか)から、天下人が実権を握る「集権国家」(しゅうけんこっか)へのきっかけとなりました。そもそも戦国時代は、力を持った戦国大名達が領土を争う「群雄割拠」(ぐんゆうかっきょ)の状態。戦国大名は、他領を侵略することで、家臣に与える領土を増やしていかなくてはならなかったのです。

織田信長」(おだのぶなが)は、幕府を中心とした中央集権的な秩序を求め、群雄割拠の状態を終わらせようとしましたが、長らく続いた分権国家を崩そうとするのはたやすいことではなく、かえって多くの敵を作り、力のある戦国大名達から激しい抵抗を受けます。

その結果、織田信長、そしてその意志を継いだ「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の力で全国統一を成し遂げても、土地に執着する大名達の分権国家体制を完全に崩すことはできませんでした。これを成し遂げるには、少しずつではなく、一気にすべてを変えるような大掛かりなきっかけが必要で、それが関ヶ原の戦いだったのです。

徳川家康

徳川家康

さらには、関ヶ原の戦いで得た632万4,194石という莫大な所領高を、「徳川家康」(とくがわいえやす)ひとりで自由に再配分できたのは、とても重要なことでした。

徳川家康はまず、古くから忠誠を尽くしてきた家を譜代大名として大量に取り立て、信頼関係のある大名達を要地に配置することで、盤石な土台を築くことを考え付きます。

これによって、一方では恩賞の名目のもと、武士と土地を切り離す「転封」(てんぽう:幕府の命令で、大名の領地を他に移すこと)を行ないながら、江戸時代の大名をお上の考えひとつで別の領地へ転勤させることのできる、いわゆる「大名の鉢植え化」を実現しました。江戸時代が安定政権として長続きしたのは、このときに生まれた幕藩体制がうまく機能したからなのです。

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身分を固定する「兵農分離」の定着

関ヶ原の戦い後の大規模な転封によって、はじめて「兵農分離」(へいのうぶんり)の徹底が図られることになりました。それは「論功行賞」(ろんこうこうしょう:手柄に見合った恩賞)において「武士は大名に属するので連れていくが、農民は土地に属する者なので置いていく」という考え方があったからです。

大名行列を平伏して見送る

大名行列を平伏して見送る

これまでは、専業武士は上層家臣のみで、中層・下層家臣は武士であり、農民でもある状態でした。

普段は農業を行ない、戦いとなると参陣するという兼業で仕えていたのです。

このように兵農分離が徹底できない理由は、簡単には先祖代々住んできた土地を離れるわけにはいかない事情からでした。

当時の家臣達は「兄は武士」、「弟は農民」というような状態で対応したと言われています。

徳川家康の行なった大規模な転封によって、江戸時代からは身分が固定されることになりました。ここではじめて兵農分離の徹底が行なわれ、士農工商の身分固定という幕藩体制の根幹が、関ヶ原の戦いによって固められたと言えます。

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関ヶ原の戦いの戦後処理と徳川政権の確立

1600~1603年(慶長5~8年)までの動き

関ヶ原の戦いを終え、徳川家康が征夷大将軍として江戸幕府を成立させるまでの3年間には、何があったのか年表をもとに見てみましょう。

1600年(慶長5年)
9月27日 徳川家康が「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)で勲功の調査を命じる
10月1日 石田三成」(いしだみつなり)・「小西行長」(こにしゆきなが)・「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)を京都六条河原で処刑
10月15日 徳川家康が論功行賞を発表する
石田三成

石田三成

「東軍」は、敗軍の将である石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を捕らえました。

徳川家康は、さらに「長束正家」(なつかまさいえ)、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)を捕らえて、この5人を一緒に処刑しようと考えていましたが、30日に長束正家が居城「水口城」(みなくちじょう)を攻められて自刃したのをきっかけに、先に捕らえていた3人を処刑することにしたのです。

3人は大坂・京都の町を曳き廻され、京都の六条河原に用意された刑場で首を斬られて、長束正家の首と共に三条橋で衆人に晒されました。

その翌日には、五奉行のひとりだった「増田長盛」(ましたながもり)の処分を発表。関ヶ原の戦いのときには、大坂城の留守居として「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を守っていた敵方です。その裏では、大坂城の情報を徳川家康に密告したり、献金したりと徳川家康側に内応していたため、命は助け所領没収という形としました。

10月15日には、他の大名に対する論功行賞が発表され、この年の内に「西軍」に属した大名の処分をほぼ決定させるなど、非常に素早く行なわれています。

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1601年(慶長6年)
2月 豊臣秀頼が徳川家康・「徳川秀忠」(とくがわひでただ)父子をもてなす
8月17日 上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の会津120万石を没収し、出羽米沢30万石とする
9月28日 毛利輝元」(もうりてるもと)が、子の「毛利秀就」(もうりひでなり)を江戸に人質として出す
9月30日 徳川秀忠の娘「珠姫」(たまひめ)が「前田利常」(まえだとしつね)に嫁ぐ

2月には豊臣秀頼は、徳川家康・徳川秀忠父子をもてなしました。理由ははっきりとしていませんが、豊臣秀頼の意識では、徳川家康は有力家臣のひとりという思いがあったため、関ヶ原の戦いの勝利を祝い、功労を賞するつもりだったのではないかと言われています。

8月に入ると徳川家康は、「板倉勝重」(いたくらかつしげ)を京都所司代に任命。これは、徳川家康の根拠地は江戸であり、京や大坂ではないことを暗に示す行為でした。そして、毛利輝元の子を人質として江戸に下すなど、徳川家康による江戸を中心とした国づくりが着々と行なわれていったのです。

また、徳川家康は豊臣秀吉の死後、精力的に進めていた有力外様大名との婚姻政策を、再び活発化させています。しかし世間では、西軍に属し改易された大名の家臣達が路頭に迷い、浪人があふれる事態となり、徳川家康にとっては気の休まらない日々でした。

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1602年(慶長7年)
正月 「前田利長」(まえだとしなが)が江戸に参勤する
2月14日 徳川家康が上洛して「伏見城」(ふしみじょう)に入城
3月14日 大坂城の豊臣秀頼に、徳川家康が謁見
6月1日 伏見城の修築を、徳川家康が諸大名に命ずる
9月15日 徳川家康が「安南」(あんなん:ベトナム中部)に渡航する船に朱印状を与える

正月には、前田利長が江戸に参勤しています。母の「芳春院」(ほうしゅんいん)を人質として江戸に送っていたためで、この参勤は、のちの「参勤交代制度」の原形となりました。

しかしこのときは、参勤交代制度の根本にある江戸幕府との従属関係はありません。そのため徳川秀忠は、五大老の前田利長が江戸に参勤するということで、自ら出迎えて敬意を示しています。

伏見城

伏見城

関ヶ原の戦い以前の徳川家康は、豊臣大名のひとりという立ち位置でしたが、この頃には伏見城の修築をさせるなど、他の諸大名を自分のために使役するようになりました。

豊臣秀吉が築いたお城である伏見城を、徳川のお城に塗り替えて豊臣色を一掃するためです。

このときから近い将来、豊臣秀頼と一戦交える可能性も念頭において、その場合のための拠点としたとも言われています。

一方、そんな徳川家康の動きをよそに、豊臣秀頼の方は社寺造営に執心で、豊臣秀吉が大坂城に蓄えていた金銀を湯水のように使っていました。

1603年(慶長8年)
1月1日 大坂城にて、諸大名が豊臣秀頼に年頭の挨拶
1月2日 諸大名が伏見城で徳川家康に年頭の挨拶
2月8日 徳川家康は、大坂城へ出向いて豊臣秀頼に謁見
2月12日 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる
7月28日 徳川秀忠の娘「千姫」(せんひめ)が豊臣秀頼に嫁ぐ

この年、徳川家康は62歳、豊臣秀頼は11歳。諸大名の年頭の挨拶は、以前から豊臣秀頼が先、徳川家康があとの順で行なわれていました。建前としては、豊臣秀頼の後見役に過ぎない状態であり、2月には徳川家康も伏見城から大坂城へ出向き、豊臣秀頼に年頭の挨拶をしています。しかしその後、征夷大将軍に任命されたのをきっかけに、二度と豊臣秀頼のもとへ出向くことはありませんでした。

徳川家康は、伏見城から竣工間もない「二条城」(にじょうじょう)へ移転。二条城は、徳川家康が朝廷から将軍宣下を受けることを想定して造営されたお城で、宣下後は多くの諸大名や公家が祝いに駆け付け賑わったと言います。

しかし、徳川・豊臣両家の関係が表面上は良好であったことから、世間では「徳川氏」(とくがわし)が天下の支配権をいずれ「豊臣家」(とよとみけ)に返すと思われていました。もちろん、徳川家康も豊臣家を刺激しないよう、豊臣秀頼を内大臣に推挙し、徳川秀忠の娘を豊臣秀頼に嫁がせるなどの手を打っています。

10月には、徳川家康は江戸に向かいました。江戸に幕府が開かれることになり、諸大名は江戸に屋敷を構えるようになります。

大坂の陣と覇権確立への道のり

1604年(慶長9年)8月、京都「豊国神社」(とよくにじんじゃ)の祭礼が盛大に行なわれ、徳川家康は豊臣秀吉の威光の大きさと、外様大名達との深い絆を目の当たりにしました。そこで1605年(慶長10年)には、老齢を理由に将軍職を徳川秀忠に代えることを朝廷に「奏請」(そうせい:天皇に許可を願い出ること)。これは、豊臣恩顧の外様大名や世間に対して、徳川政権の永続性を示す手段であり、その効果はてきめんに現れたと言います。

1607年(慶長12年)に駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)に居を移すと、大御所政治を展開し、「外様大名の統制」、「社会秩序の安定」に積極的に取り組みました。有力外様大名に対して松平姓を授けたり、縁戚関係を結ぶ一方で、江戸に屋敷を構えて妻子を置かせたり、「天下普請」(てんかぶしん:江戸幕府が諸大名に行なわせた土木工事など)をさせたりなど、剛柔を効かせた統制を行なっています。

豊臣秀頼

豊臣秀頼

1611年(慶長16年)、徳川家康は二条城で豊臣秀頼と会見。

このとき、19歳となっていた豊臣秀頼の姿に不安を感じ、大坂討滅を本気で考えるようになりました。

当時、外様の重鎮が相次いで死去。外様大名家でも豊臣恩顧の大名から、徳川氏と縁故のある大名へと代替わりするなど、「徳川家」(とくがわけ)にとって好都合な情勢になりつつありました。

1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)をきっかけに、「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)が勃発。その頃には、豊臣秀頼のために動く外様大名はおらず、すでに徳川氏の時代へと変わっていたのです。

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