参戦した西軍武将

西軍 島津義弘

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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)関ヶ原を舞台に開戦し、東軍が勝利した戦いです。
「天下分け目の戦い」とも言われる合戦として有名ですが、西軍に属した武将のなかには、東軍に参加するつもりが、情報伝達の不十分さから西軍の中心人物として参戦せざるを得なくなってしまった人物がいました。それは、九州の「薩摩国」(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)、「大隅国」(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)、「日向国」(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)の3国を統治していた「島津義弘」(しまづよしひろ)。
また、関ヶ原の戦いにおいては「島津の退き口」、通称「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる決死の敵中突破を行なったことでも有名です。

決死の突破劇を見せ、敵からもあっぱれと称賛された

島津義弘は、戦上手で文化人としても優れていた

島津義弘

島津義弘

島津義弘」(しまづよしひろ)は、1535年(天文4年)「島津家」(しまづけ)の15代当主「島津貴久」(しまずたかひさ)の次男として「伊作城」(いざくじょう)で誕生。

16代当主であり実兄の「島津義久」(しまずよしひさ)の補佐役を長く務め、戦国時代における「薩摩島津家」(さつましまづけ)の領土拡大に大きく貢献しました。

また、島津義弘は武将であると同時に、「茶の湯」、「易学」、「漢学」なども好んだ文化人です。「慶長の役」(けいちょうのえき)から帰還する際には、朝鮮より陶工職人40余人を連れ帰って、薩摩の陶磁器「薩摩焼」文化の発展にも大きな影響を与えました。

西軍に就いた理由

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、当日、関ヶ原の地だけで行なわれた合戦ではありません。本戦の前には、45の合戦が行なわれ、本戦後も25の合戦が全国を舞台に繰り広げられています。

そのはじまりとなったのが、「石田三成」(いしだみつなり)が西軍をまとめ、初めて挙兵したの「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)。伏見城の戦いは、島津義弘にとって関ヶ原の戦い以上に重大な一戦でした。

東軍に入るか、はたまた西軍に入るか。戦後の世にあっては、忠誠心よりもいかに生き残るかが大事なことです。諸大名達は大いに迷い、去就が定まらないうちに本戦が終わってしまった武将もいました。そして、そのなかで明確に東軍に就くと決めていたにもかかわらず、西軍に就いてしまったのが島津義弘です。

島津義弘は、「徳川家康」(とくがわいえやす)と親しい関係にありました。徳川家康は以前から、有事の際には徳川家康の拠点である「伏見城」(ふしみじょう)を守護するように島津義弘に依頼していたのです。実際に、徳川家康が会津の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を討つために「会津攻め」に向かうと、島津義弘はそれを守るべく行動を起こし、伏見城を守る「徳川家」(とくがわけ)の家臣「鳥居元忠」(とりいもとただ)に入城を要請します。

しかし、鳥居元忠はこの時点で島津義弘が援軍として来ると連絡を受けていなかったため、島津義弘の入城を拒否。周りには総勢4万の西軍が集結しており、このなかで完全に孤立した島津義弘は、やむを得ず西軍として関ヶ原の戦いに参戦したのです。

伏見城の戦い

毛利輝元

毛利輝元

1600年(慶長5年)7月18日、西軍は「毛利輝元」(もうりてるもと)の名で伏見城の鳥居元忠らに降伏開城を求めます。

しかし、鳥居元忠らは玉砕を覚悟で開城を拒絶。これにより西軍は、伏見城への攻撃を開始します。

総大将は、関ヶ原の戦い本戦で西軍の副将を担った「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)。それに続いて参戦したのは、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)、「吉川広家」(きっかわひろいえ)、「毛利秀元」(もうりひでもと:毛利輝元の養子)、「小西行長」(こにしゆきなが)、「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)、「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)。そして、入城を拒絶された島津義弘が加わります。

西軍は、主力の軍勢4万を動員して伏見城を攻撃しますが、半月経っても落城させることができないでいました。ここまで長期戦になった理由は諸説ありますが、一説にはこの時点ですでに去就を決めかねていた小早川秀秋や、主君である毛利輝元が西軍の総大将になったために、形式的に西軍へ付いた吉川広家、そして伏見城への入城を鳥居元忠に拒絶された島津義弘など、攻める側の戦意が低かったことが影響していると言われています。

石田三成は、膠着状態のまま遅々として進まない伏見城の攻防戦に痺れを切らして自ら出陣。陣頭で指揮を執り、伏見城を陥落させることに成功します。

関ヶ原の戦い前夜

そのあとも東軍と西軍の小競り合いは続き、両軍共に勝ったり負けたりを繰り返しました。

1600年(慶長5年)9月14日、関ヶ原の戦い本戦前日。西軍は、「杭瀬川の戦い」(くいせがわのたたかい)で勝利を収めます。そののち、西軍の拠点となっていた「大垣城」(おおがきじょう)で今後の作戦について軍評定を開催。

同日の夜、石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の順で大垣城を出陣し、関ヶ原に布陣。なお、このときの島津義弘は主力部隊として配置されていますが、兄の島津義久が増援要請に応じなかったため、兵の数は1,500程度と、主力と言うにはあまりに少ない軍勢でした。

石田三成の救援要請に「各々戦う」と返答

1600年(慶長5年)、9月15日。「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の戦いが開戦。

なお、当日の軍勢については諸説ありますが、一般的に東軍は9万弱、西軍は8万強と言われています。西軍は数の上で不利でしたが、高地に陣を取っていたことが有利に働き、開戦からしばらくは優勢でした。

笹尾山の石田三成陣跡

笹尾山の石田三成陣跡

当初、東軍が集中的に攻撃したのは、実質的に西軍を指揮する石田三成隊がいた笹尾山

この最前線で東軍の猛攻を防いでいたのは、石田三成の軍師として名高い「島左近」(しまさこん)です。

しかし、島左近が「黒田長政」(くろだながまさ)隊の銃撃によって負傷し戦線を離脱すると、徐々に状況は悪化。石田三成勢は、笹尾山に押し込まれる形で撤退を余儀なくされるのです。

島津義弘のもとに石田三成の救援依頼が来ますが、ここで予期しないできごとが起きます。救援要請に来た石田三成の家臣「八十島助左衛門」(やそしますけざえもん)が、島津義弘に対して馬上から救援要請を行なう大失態を働いたのです。島津義弘は、この無礼な態度に激怒。次に自ら救援要請をしに来た石田三成に対しても「今日の戦はそれぞれ勝手にやる」と追い返します。

なお、島津義弘が救援を拒絶した本当の理由は明確になっていません。島津義弘自身も1,500ほどの軍勢で、また東軍の「井伊直政」(いいなおまさ)らの猛攻撃を受けていたため、救援に向かえるほどの余裕がなかったのではないかとも言われています。

島津の退き口(捨て奸)

本戦開始からしばらく経ち、合戦の行方を左右するできごとが発生。それは、小早川秀秋をはじめとした西軍諸将による「東軍への寝返り」です。

西軍として参戦していた毛利秀元、及び吉川広家は、事前に東軍と内通して合戦の最中も他の西軍諸将の動きを封じていました。西軍の頼みの綱であった毛利秀元と吉川広家の軍勢3万余りが動かず、さらに西軍で最も多くの軍勢を率いていた小早川秀秋が東軍に寝返ったことで、戦況は大きく東軍に傾いたのです。

しかし、西軍の敗戦が濃厚になってもなお、石田三成隊は必死に戦い続けました。黒田長政や「細川忠興」(ほそかわただおき)らの猛攻に耐えていましたが、不利な状況のなかでついに戦線は崩壊。石田三成は戦場を脱し、伊吹山方向へ敗走します。

そして、戦場に取り残される形になったのが、石田三成勢の南方、北国街道沿いに陣取っていた島津義弘でした。情報伝達の不足が原因で西軍に属し、それでも武士としての意地を貫き戦いましたが、敗北は目に見えています。

島津の退き口(捨て奸)

島津の退き口(捨て奸)

島津義弘は初め、徳川家康本陣への突撃も考えたと言われていますが、甥である「島津豊久」(しまずとよひさ)に止められ、生き延びることを選びました。

指物などの余計な武具を捨てた島津隊は、島津義弘の号令により正面の東軍へ向け突進。

これがのちに「島津の退き口」、通称「捨て奸」(すてがまり)として語り継がれる撤退戦です。

島津義弘らは、井伊直政や「本多忠勝」(ほんだただかつ)など、名のある猛将による包囲網を潜り抜けて、伊勢街道へと駆け抜けました。途中、追撃してくる東軍諸将に立ち向かった島津豊久が討ち取られるなど、島津勢の被害は大きかったものの、島津義弘は東軍の猛攻を振り切り、見事に敵中突破を成功させます。

開戦から6時間が経過した頃、東軍は徳川家康から撤退命令を受け、島津勢の追撃を中止。この追撃戦が、関ヶ原の戦いにおける最後の激闘となり、合戦は終わりました。そののち、島津義弘達は無事に薩摩まで退却したと言います。

戦後処理

関ヶ原の戦いが終わったあと、西軍、及び東軍諸将への戦後処理が行なわれました。西軍から東軍へ寝返った大名のなかには、事前に寝返ることを伝えていなかったために改易された者がいる一方で、反対に領土を拡大・安堵された大名もいます。

島津義弘は、事前に東軍と内通していたにもかかわらず、最後まで西軍の将として生き残りましたが、戦場では東軍諸将とはほとんど戦っていなかったこと。また、敗走の際に行なった捨て奸においても、戦線から離脱するために行なっただけであったことなどを理由に、処罰などは一切与えられませんでした。

関ヶ原の戦いののち、島津義弘は隠居して、85歳で没するまで若者の教育に尽力したと言います。

西軍 島津義弘

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