参戦した西軍武将

西軍 宇喜多秀家

文字サイズ

「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」と、「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる「西軍」が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県)関ケ原を舞台に行なった合戦です。
「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、西軍として参戦し、西軍の中心的人物として活躍した武将。本戦は、わずか6時間で決着しましたが、宇喜多秀家とその子々孫々は、日本の歴史上、最も数奇な運命をたどった一族として名を残しました。
「宇喜多家」(うきたけ)は関ヶ原の戦いのあと、江戸時代265年に亘る歳月を「八丈島」(はちじょうじま:現在の東京都八丈町)と言う絶海の孤島で生きることを余儀なくされたのです。関ヶ原の戦いを通じて、宇喜多秀家の生涯、及び宇喜多家が八丈島でどのように過ごしたのかをご紹介します。

子々孫々まで関ヶ原の戦いの影響を受けた宇喜多秀家

豊臣秀吉の養子となった宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、1572年(元亀3年)備前国(びぜんのくに:現在の岡山県岡山城主「宇喜多直家」(うきたなおいえ)の次男として誕生。

1581年(天正9年)、父である宇喜多直家が病没したのち、宇喜多秀家は「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の養子になりました。

当時、どこにでも見られた政治的な面からの養子入りでしたが、そのあとの宇喜多秀家に対する豊臣秀吉の処遇は一貫して厚く、しかも揺るぎなかったと言われています。

これは、同じく豊臣秀吉の養子となり、その有力な後継者ともてはやされながらも、豊臣秀吉に実子が生まれると「小早川家」(こばやかわけ)へ出され、その存在価値をなくした「小早川秀秋」(こばやかわひであき)とは違っていました。

豊臣秀吉の宇喜多秀家に対する信頼度がよく分かるのが、「前田利家」(まえだとしいえ)の四女であり豊臣秀吉の養女となった「豪姫」(ごうひめ)との婚姻です。豪姫は、日頃から豊臣秀吉に「婿にするなら戦国一の将を」と言われながら育てられた姫でした。その豪姫との婚姻を認められた宇喜多秀家は、「豊臣家」(とよとみけ)の一翼を担うにふさわしい将としての才を見出されていたのです。

五大老・五奉行制のなかで、宇喜多秀家ひとりだけの特権があった

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉は病気に臥しながらも政権の中枢機関「五大老・五奉行制」(ごたいろう・ごぶぎょうせい)を設置します。

当初、「五大老」に選ばれたのは、「徳川家康」(とくがわいえやす)、前田利家、「毛利輝元」(もうりてるもと)、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)、そして宇喜多秀家。なお、小早川隆景の没後は「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が代わりに任命されます。

一方で「五奉行」は、五大老の下で豊臣政権の実質的な政務を行なう機関。「前田玄以」(まえだげんい)、「浅野長政」(あさのながまさ)、「増田長森」(ましだながもり)、「石田三成」(いしだみつなり)、「長束正家」(なつかまさいえ)が選ばれています。

豊臣秀吉は西国の大名を、隠居後のお城として建立したの「伏見城」(ふしみじょう:に、東国の大名を「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)に集めた上で、制度化したばかりの五大老・五奉行制と、自身の身内に宛てた11ヶ条から成る遺言書を丁寧に申し渡しました。内容の半分は、豊臣秀吉の嫡男「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を支えるようにと記載され、そして残りは法度の遵守や、政務の代行などが事細かに記載してあったと言います。

特に興味深いのは、五大老・五奉行の役割が明記されたなかで、宇喜多秀家ひとりだけが趣の異なった内容が記されていたこと。

遺言状には、「宇喜多秀家は、幼少の折から豊臣秀吉が取り立てた身であるから、豊臣秀頼のことは避けて通れない義理がある。そのため、五大老のひとりであると共に、五奉行の一員ともなって、えこひいきなしに尽力して欲しい」と記されていたのです。

運命を決定付けた関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の没後に起きた「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で、宇喜多秀家が豊臣方の西軍に就いた理由は、前出の通りの経緯があったからでした。

関ヶ原の戦いが起きるおよそ2ヵ月前、西軍は「毛利氏」(もうりし)という一大勢力の長である毛利輝元を総大将に据え、宇喜多秀家を副将に挙兵。

1600年(慶長5年)7月19日の「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)では、西軍が勝利を収めます。以後、西軍と東軍は勝ったり負けたりを繰り返し、同年9月15日に運命の関ヶ原の戦いを迎えるのです。

宇喜多秀家は、1万7,000の軍勢を率いて「大垣城」(おおがきじょう)に入城。9月14日の深夜、石田三成、「島津義弘」(しまづよしひろ)、「小西行長」(こにしゆきなが)、そして宇喜多秀家の順で大垣城を出陣。1600年(慶長5年)9月15日未明、関ヶ原へ到着。

石田三成軍は「笹尾山」(ささおやま)、そして宇喜多秀家軍は「南天満山」(みなみてんまやま)に布陣。関ヶ原にはすでに「大谷吉継」(おおたによしつぐ)をはじめ、「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「朽木元網」(くつきもとつな)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「平塚為広」(ひらつかためひろ)、「戸田重正」(とだしげまさ)ら6,000余りの軍勢が布陣していました。

また、「南宮山」(なんぐうざん)には「毛利秀元」(もうりひでもと)、「吉川広家」(きっかわひろいえ)、「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)、長束正家らが率いる3万余りの大軍の他、関ヶ原の狭い平地を見下ろす好立地にある「松尾山城」(まつおやまじょう)には、小早川秀秋の軍勢1万1,000が配置。大垣城を守護する7,500余りを加えると、西軍は9万にも上る軍勢を集めたことになります。

開戦後、4時間ほどは東軍・西軍互角の戦いを繰り広げていました。宇喜多秀家軍が対峙したのは、豊臣秀吉子飼いの武将「福島正則」(ふくしままさのり)の軍勢およそ6,000。その戦いは、軍記「関ヶ原軍記大成」(せきがはらぐんきたいせい)によると「福島家[ふくしまけ]の旗と、宇喜多家[うきたけ]の旗が双方とも2、3度退却した」と記述されるほどの一進一退の攻防で、激戦だったと言われています。

戦闘が始まってしばらくしたあと、予期しないできごとが起きました。松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返ったのです。また、「何があっても毛利氏のためには動かない」と言う吉川広家などの動向に、当日まで去就を明らかにしていなかった西軍諸将が呼応して次々と東軍に寝返り、戦線は崩壊し、西軍は大敗を喫します。

265年間を「八丈島」で暮らした宇喜多秀家の子々孫々

八丈島

八丈島

関ヶ原の戦いのあと、宇喜多秀家は伊吹山(いぶきやま)に逃げ込みましたが、そののち身柄を拘束。

斬首は免れたものの、絶海の孤島「八丈島」(はちじょうじま:現在の東京都八丈町)に流され、84歳で没するまでの約50年間を流罪人として生きました。

また、敗軍の将となった宇喜多秀家の子々孫々も、泰平の江戸時代265年間を、八丈島と言う天然の牢獄で過ごします。

「宇喜多一類」(うきたいちるい)と呼ばれた宇喜多家は、生まれながらに罪人として生涯を送ることを宿命付けられましたが、一方で宇喜多秀家を誇るべき祖先として崇め、「休福明神」(きゅうふくみょうじん)として祀りました。

そののち、明治時代に入ってようやく八丈島から出ることを許されます。

しかし、長い歳月を過ごしたことで、八丈島は宇喜多家にとって流刑地ではなく、馴染み深い故郷と言う認識になっていたため、のちに八丈島に戻った者もいました。

宇喜多秀家の子孫は、現在でも八丈島に在住し、宇喜多秀家のお墓を守りながら暮らしています。

西軍 宇喜多秀家

西軍 宇喜多秀家をSNSでシェアする

「参戦した西軍武将」の記事を読む


西軍 島津義弘

西軍 島津義弘
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)関ヶ原を舞台に開戦し、東軍が勝利した戦いです。 「天下分け目の戦い」とも言われる合戦として有名ですが、西軍に属した武将のなかには、東軍に参加するつもりが、情報伝達の不十分さから西軍の中心人物として参戦せざるを得なくなってしまった人物がいました。それは、九州の「薩摩国」(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)、「大隅国」(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)、「日向国」(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)の3国を統治していた「島津義弘」(しまづよしひろ)。 また、関ヶ原の戦いにおいては「島津の退き口」、通称「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる決死の敵中突破を行なったことでも有名です。

西軍 島津義弘

西軍 石田三成

西軍 石田三成
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、のちの歴史からみると、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、1600年(慶長5年)9月15日に、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦し、結果的に徳川家康が勝ち、江戸幕府開府へと向かう、まさに「天下分け目の戦い」でした。 そこにはもちろん、語り尽くせないほどのドラマがあったのですが、全体として捉えると、いよいよ天下に王手のかかった徳川家康に、「石田三成と豊臣官僚集団」が「待った」をかけるため挑んだ戦いという構図が見えてくるのです。敗者となった西軍の実質的な代表者である石田三成に焦点を当ててご紹介します。

西軍 石田三成

西軍 大谷吉継

西軍 大谷吉継
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を、わずか6時間で決めた戦いです。 西軍に付いた「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、豊臣秀吉が一目置いていた軍略に富む人物。当初から西軍の勝利は「冷静にみて、やはり無謀だ」と読んでいた節があります。 しかしそれでも、親友「石田三成」(いしだみつなり)を尊重し、心をひとつに戦う覚悟を決めたのです。そんな、大谷吉継にスポットを当てご紹介します。

西軍 大谷吉継

西軍 小西行長

西軍 小西行長
1600年(慶長5年)9月15日に開戦した「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、勝利した東軍「徳川家康」(とくがわいえやす)が、その天下を決定的なものとし、江戸幕府開府へとつながるまさに天下分け目の戦いでした。 しかし、この結果が逆転していたら、日本の歴史はどうなっていたのでしょうか。敗者となった「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍にも、十分に勝機はあったと言われています。 なぜなら、西軍には石田三成はもとより、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)がその才能を買っていた人物達が名を連ねていたからです。「小西行長」(こにしゆきなが)もそのひとり。キリシタン大名としても知られる小西行長をご紹介します。

西軍 小西行長

西軍総大将 毛利輝元

西軍総大将 毛利輝元
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。 1600年(慶長5年)9月15日、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦。東軍が勝って、徳川家康の天下を決定的としました。興味深いのは、天下の行く末を決めた戦いでありながら、わずか6時間で決着という、まさに短期決戦であったこと。では、なぜこれほど早く終わったのでしょうか。 実は、そこには「毛利氏」(もうりし)の存在が大きく関与しています。西軍の実質的な代表者は、「太閤の恩顧に報いん」と挙兵した石田三成ですが、西軍総大将となったのは毛利輝元です。安芸広島120万5,000石を誇った中国地方の大名で、豊臣政権下での「五大老」のひとりでもあります。実はこの毛利輝元、西軍総大将でありながら、戦いの場にその姿はありませんでした。関ヶ原の戦いを毛利輝元と毛利氏に焦点を当てて、ご紹介します。

西軍総大将 毛利輝元

注目ワード
注目ワード