参戦した西軍武将

西軍総大将 毛利輝元

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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。
1600年(慶長5年)9月15日、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦。東軍が勝って、徳川家康の天下を決定的としました。興味深いのは、天下の行く末を決めた戦いでありながら、わずか6時間で決着という、まさに短期決戦であったこと。では、なぜこれほど早く終わったのでしょうか。
実は、そこには「毛利氏」(もうりし)の存在が大きく関与しています。西軍の実質的な代表者は、「太閤の恩顧に報いん」と挙兵した石田三成ですが、西軍総大将となったのは毛利輝元です。安芸広島120万5,000石を誇った中国地方の大名で、豊臣政権下での「五大老」のひとりでもあります。実はこの毛利輝元、西軍総大将でありながら、戦いの場にその姿はありませんでした。関ヶ原の戦いを毛利輝元と毛利氏に焦点を当てて、ご紹介します。

一大勢力を誇った「毛利氏」が、関ヶ原の戦いのカギを握った

毛利輝元とは

毛利輝元

毛利輝元

毛利輝元」(もうりてるもと)は、「三本の矢」の逸話で知られる「毛利元就」(もうりもとなり)の孫です。

1553年(天文22年)に「毛利家」(もうりけ)の嫡男として生まれ、父の「毛利隆元」(もうりたかもと)が出陣先で急死したため、1563年(永禄6年)に11歳で毛利家当主を継承。

この毛利輝元の時代、「毛利氏」(もうりし)は中国地方で一大勢力を誇るようになります。

祖父の毛利元就は、早世した長男の息子である毛利輝元を自身の後継者に置き、次男を妻の実家である「吉川家」(きっかわけ)の養子に出し、「吉川元春」(きっかわもとはる)とします。

また、三男を強力な水軍を擁する「小早川家」(こばやかわけ)の養子としました。それが「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)です。

のちに「毛利両川」(もうりりょうせん)と称され、「吉川氏」(きっかわし)、「小早川氏」(こばやかわし)それぞれの正統な血統を絶やし、その勢力を吸収して毛利氏の勢力拡大を図りました。

毛利家の幾人もが、関ヶ原の戦いの主要人物に

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)の主要人物の顔ぶれを見ると、西軍総大将となった毛利輝元はもちろんのこと、毛利氏の面々が並んでいます。

小早川秀秋」(こばやかわひであき)は、関ヶ原の戦いでの裏切りが注目される人物です。「木下家定」(きのしたいえさだ)の五男として誕生し、1594年(文禄3年)に小早川隆景の養子になっています。実父の木下家定は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の正室「ねね」の兄です。

毛利輝元は、長く実子に恵まれなかったため、1585年(天正13年)に毛利元就の四男の長男を養子に迎え、「毛利秀元」(もうりひでもと)とします。毛利輝元は、従弟に当たる人物を子に迎えた訳です。しかし、1595年(文禄4年)、実子「毛利秀就」(もうりひでなり)が誕生。毛利秀元は、自ら世嗣(せいし:跡継ぎ)を辞退し身を引きますが、分家として毛利一族で活躍します。

「吉川広家」(きっかわひろいえ)は、吉川家に養子に出された毛利輝元の叔父である吉川元春の三男です。吉川広家は、関ヶ原の戦いがまさに佳境を迎えたとき、毛利氏の行く末を考えて、毛利秀元の足を止める芝居を必死で打ち、東軍勝利に加担した人物です。

毛利輝元は、徳川家康と並ぶ五大老のひとりに

1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉は隠居後を過ごした「伏見城」(ふしみじょう)で、その生涯を閉じます。豊臣秀吉は死の直前、合議制によって政権運営を行なう「五大老・五奉行」体制を制定。

徳川家康

徳川家康

徳川家康」(とくがわいえやす)を五大老の筆頭として政権内部に組み込むことで、自分の死後、徳川家康がすぐに勝手なふるまいができないよう、けん制する意味もあったのです。

五大老は、徳川家康、「前田利家」(まえだとしいえ)、毛利輝元、小早川隆景、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)で、小早川隆景の死後は「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が務めました。

当初、毛利輝元と小早川隆景、2人の毛利氏が五大老に名を連ねていたことからも、豊臣秀吉の毛利氏への信頼が窺えます。

そして、この五大老の下に、豊臣政権において実質的な政務を行なう五奉行を置き、「前田玄以」(まえだげんい)、「浅野長政」(あさのながまさ)、「増田長森」(ましたながもり)、「石田三成」(いしだみつなり)、「長束正家」(ながつかまさいえ)をその任に就かせました。

実は毛利輝元の動きも、徳川家康に負けず劣らず早かった

この五大老・五奉行制は、豊臣秀吉が思っていた以上に早く崩れます。そこには、大老のなかで最も人望があり、武断派にとっても頭が上がらない前田利家が、1599年(慶長4年)3月3日に病死したことが影響しました。武断派は決起し、石田三成を襲い、建前として仲裁に入った徳川家康によって、石田三成は失脚させられてしまいます。

次の天下人になるために戦いを起こしたい徳川家康と、失脚によって挙兵へと向かわざるを得なくなった石田三成は、大名達を味方に付ける根回し作戦を過激化させていきました。

そのなかで毛利輝元は、石田三成に近かった毛利家の外交担当「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)の働きにより、石田三成側に付きます。毛利輝元は、西軍総大将の要請を受けた3日後の1600年(慶長5年)7月15日には1万の軍勢を率いて「広島城」(ひろしまじょう)を出立し、7月17日に、「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)に入ります。豊臣秀吉亡きあと、大坂城西の丸に入っていた徳川家康は、当時、会津の上杉景勝を攻めるために大坂城を出ており、その好機を狙っての入城でした。

そこで吉川広家は、自ら「黒田長政」(くろだながまさ)を介し、徳川家康への接近を図ります。同じく毛利輝元家臣の「福原広俊」(ふくはらひろとし)もこれに同調。吉川広家と福原広俊は、西軍に属しながらも徳川家康に内通し、「毛利輝元が西軍総大将になったことを咎めず、領国をそのまま認める」という密約を徳川家康と結ぶのです。

徳川家康が恐れていた毛利輝元の出陣

大坂城入りした毛利輝元は、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を庇護する立場を鮮明に打ち出しており、徳川家康は、毛利輝元が豊臣秀頼を奉じて出陣してくることを何よりも恐れていました。これは、結果的には毛利輝元が大坂城から一歩も動かなかったため、杞憂に終わります。では毛利輝元は、なぜ動かなかったのでしょうか。

毛利輝元は、関ヶ原の戦いの現場には養子の毛利秀元と従弟で家臣の吉川広家、安国寺恵瓊を送ると共に、多くの大名に西軍参加への書状を送ったり、離反者の情報を懸命に収集したりと、実際には様々な手を打っていました。また、毛利軍を自領の隣接地域である四国や九州に送り、西では積極的に勢力拡大を図っていたのです。

しかし、石田三成の要請に応じ、豊臣秀頼を奉じて出陣する予定であったのが、五奉行のひとり「増田長盛」(ましたながもり)が東軍に内応したとの情報により、いったん中止。おそらく毛利輝元は、関ヶ原が天下分け目の戦いになるとは思っていなかったのでないかと言われています。

一歩も動かなかった小早川秀秋と、一歩も動けなかった毛利秀元

西軍と東軍の間では、実際には関ヶ原の戦い以前に、その前哨戦となる戦いが45回にわたって行なわれました。その皮切りは、1600年(慶長5年)7月19日の「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)です。

そののち、日本各地で西軍と東軍が勝ったり負けたりを繰り返すなかで、西軍は、徳川家康指揮のもと西上してくる東軍の大軍勢を迎え撃つため、美濃の「大垣城」(おおがきじょう)を前線基地にします。そして、次に関ヶ原を一大決戦の場にすることを決めました。

小早川秀秋陣跡

小早川秀秋陣跡

毛利勢3人の陣配置は、関ヶ原の狭い平地を見下ろす好立地にある「松尾山城」(まつおやまじょう)に小早川秀秋勢、関ヶ原の西にある南宮山(なんぐうさん)の山頂に毛利秀元勢、そしてその麓に吉川広家勢です。

1600年(慶長5年)9月15日午前、いよいよ石田三成が総攻撃の狼煙(のろし)を上げます。

前線部隊として戦ったのは、東軍4万5,000強、西軍3万5,000余り。数の上では東軍有利でしたが、高地に陣を張っていた西軍は、徳川家康が想定した以上の頑張りを見せ善戦。

まさに一進一退の攻防が展開されます。そしてこのとき、東軍・西軍両者共にその動向を注視していたのが、1万1,000を擁する小早川秀秋勢です。小早川秀秋は、松尾山からまったく動こうとしません。この時点でまだ小早川秀秋は、どちらに付くか迷いに迷っていたのです。

そして、もうひとつの毛利氏主力部隊である毛利秀元と吉川広家勢は、合わせて3万余り。歴史家達は、小早川秀秋が動かなくても、毛利秀元が徳川家康の背後を突けば、関ヶ原の戦いは西軍の勝利に終わっていただろうと考えています。しかし当の毛利秀元は、自身は動きたくても、吉川広家が頑として動かないため、動けずにいたのです。

吉川広家は、毛利勢の前衛を固める自軍が動かないことで、毛利軍全体を止めようと必死でした。これについては、毛利秀元も、大坂城にいる主君の毛利輝元もまったく知りません。「動かぬことが毛利氏のため」と信じる吉川広家と福原広俊の独断です。

吉川広家は、毛利秀元から「山を下りる。いくぞ」という再三の要請に、「弁当を食うから待て」と言い抜け続けたとのことで、最終的に毛利秀元は山を下りられないまま終戦を迎えます。

関ヶ原の戦い後の毛利輝元と毛利氏

結局、小早川秀秋が決断したのは午後になってからのことでした。東軍側に寝返り、西軍の「大谷吉継」(おおたによしつぐ)勢へ向け一気に山を駆け下りて攻撃に打って出ます。

この動きに、松尾山の麓で戦局を傍観していた「脇坂安治」(わきさかやすはる)、「朽木元網」(くつきもとつな)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「赤座直保」(あかざなおやす)らが呼応し、同じく東軍に寝返り参戦。大谷吉継勢は壊滅します。この寝返り劇によって、戦況は一変しました。結果、わずか6時間の短期決戦で東軍が勝利を収めたのです。

大谷吉継は戦場で散り、石田三成、「小西行長」(こにしゆきなが)、安国寺恵瓊らは、1600年(慶長5年)10月1日、の鴨川河川敷六条河原で処刑。そのあとも、各地で東軍と西軍の戦いは続きますが、ほぼ東軍勝利で終わります。

そして、東軍諸将への論功行賞と西軍諸将への処分の執行が行なわれるなか、小早川秀秋は、その功績から備前岡山(現在の岡山県)51万石を与えられました。しかし、若い小早川秀秋にとって「裏切り者」という評価は重く伸し掛かり、酒色におぼれ、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)に21歳でその生涯を閉じています。

では、西軍総大将の毛利輝元はどうなったのでしょうか。毛利氏安泰のために東軍と内応した吉川広家の尽力により、「安国寺恵瓊ら謀反人によってやむなく西軍総大将に祭り上げられたのであれば責任はない」と徳川家康が解釈を示し、毛利輝元は、所領の安堵を約束して貰うことを条件に大坂城を去りました。

しかし、すぐに毛利輝元が西軍総大将として数々の行ないをしていたことが分かると、徳川家康は、所領安堵の密約を反故にし、毛利氏の領国である中国地方の安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・石見(いわみ)・備後(びんご)・備中(びっちゅう)・出雲(いずも)・隠岐(おき)の8ヵ国120万5,000石のすべてを没収します。

一方、徳川家康は吉川広家に対しては、中国地方で1、2ヵ国を与える旨を伝えました。これに一番驚いたのが、当の吉川広家です。毛利氏安泰のために動いたことが、これではすべて水の泡で、かつ自身は主家を滅亡に追い込んだ張本人となってしまいます。

そこで吉川広家は、自らに与えられる所領をすべて毛利輝元に譲ることを徳川家康に直談判。これにより、毛利輝元は、結果的に83万6,000石の減封となったものの、周防・長門の2ヵ国36万9,000国の領主として、毛利家を存続させることができたのです。

毛利氏は、ある意味、大勢力であったがゆえに、主要人物達の間で違う判断基準が生まれてしまいました。「関ヶ原の戦いという一大決戦において、右往左往した大勢力・毛利氏の顛末は、喜劇的でさえある」とも言われています。

西軍総大将 毛利輝元

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西軍 島津義弘

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西軍 小西行長

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