参戦した西軍武将

西軍 大谷吉継

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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を、わずか6時間で決めた戦いです。
西軍に付いた「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、豊臣秀吉が一目置いていた軍略に富む人物。当初から西軍の勝利は「冷静にみて、やはり無謀だ」と読んでいた節があります。
しかしそれでも、親友「石田三成」(いしだみつなり)を尊重し、心をひとつに戦う覚悟を決めたのです。そんな、大谷吉継にスポットを当てご紹介します。

生き様が多くの人の心を捉えて離さない大谷吉継

軍略に富んだ大谷吉継

大谷吉継

大谷吉継

大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、諸説ありますが、1565年(永禄8年)生まれと言われています。

あの「石田三成」(いしだみつなり)のひとつ歳上。大谷吉継の母は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の正室「ねね」(北政所)の侍女「東殿」(ひがしどの)ですが、父親は分かっていません。

いつからか豊臣秀吉に小姓として仕えて信任を得、数々の武功を挙げます。そのひとつが、豊臣秀吉と「柴田勝家」(しばたかついえ)による激戦、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)です。

「賤ヶ岳の七本槍」として「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)ら7人の武功が有名ですが、実はその合戦で、「賤ヶ岳先駆け衆」と評される活躍をしたのが、大谷吉継や石田三成。賤ヶ岳先駆け衆とは、その名の通り本隊よりも先駆けて戦場で戦った者達のことです。

この賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉は、豊臣軍5万人分の兵糧調達を、石田三成に命令。このとき、石田三成は軍略に長けていた大谷吉継に、5万人の軍勢には何日間分の兵糧を用意すれば良いかを相談しました。

これに対して大谷吉継は、「1ヵ月半」の数字を弾き出します。大谷吉継の策略が巧みであることを良く知っていた石田三成は、その言葉を信じ、5万人が1ヵ月半食べられるだけの兵糧を準備。実際、賤ヶ岳の戦いは、1ヵ月少々で、豊臣秀吉勝利という決着が付きました。

この結果、大谷吉継は、従五位下、刑部少輔に叙任。1589年(天正17年)に越前国(えちぜんのくに:現在の福井県)の敦賀郡(つるがぐん)、南条郡(なんじょうぐん)、今立郡(いまだてぐん)5万石を与えられ、「敦賀城」(つるがじょう)の城主となったのです。大谷吉継は、豊臣秀吉に「100万の兵を与えて戦の指揮を執らせてみたい」と言われるほどの知将になりました。

合戦・古戦場「賤ヶ岳の戦い」YouTube動画

合戦・古戦場「賤ヶ岳の戦い」

石田三成とともに豊臣政権を支える

石田三成

石田三成

豊臣秀吉の「文禄の役」(ぶんろくのえき)、「慶長の役」(けいちょうのえき)では、船の調達など、官僚としての腕も発揮。

豊臣秀吉の厚い信頼のもと、実際には合戦での武功よりも「軍監」や「奉行」などの役割を多く担いました。

その際、石田三成と共に行動することも多く、同年代ということもあり、早くから深い友情を築いていたとされています。

豊臣秀吉の天下統一のあと、豊臣政権内部では、「文治派」(武力を用いないで、法令・教化などで政治を行なう立場)の石田三成や大谷吉継と、「武断派」(武力をもって政治を行なおうとする立場)の福島正則、加藤清正らに大きく分かれ、徐々に対立が深まります。

大谷吉継が西軍側に付いた理由

徳川家康と親交を深めるも、石田三成に付く

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)が起こる数年前から、豊臣政権内部では、豊臣秀吉の生前から側近として実務を取り仕切っていた石田三成ら文治派と、朝鮮に出兵して戦っていた加藤清正ら武断派との対立が深まっていました。

武断派は、朝鮮出兵の論功行賞(ろんこうこうしょう:功績を調べて賞を与えること)に際し、文治派の讒言(ざんげん)によって不利益を被ったという鬱積があったのです。

また、もともと武断派は、豊臣政権下で「石田三成ばかりが重用されていく」ことに妬みや嫉妬も抱いていました。

徳川家康

徳川家康

この対立を利用したのが、「徳川家康」(とくがわいえやす)です。

徳川家康は、豊臣秀吉の存命中は家臣の位置に甘んじていましたが、豊臣秀吉が亡くなると一転、天下人への野望を剥き出しに。

武断派の「石田三成憎し」を利用し、石田三成の失脚を導くと共に、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)への謁見を理由に「大坂城」(おおさかじょう)に入り、西の丸に天守を立て、豊臣秀頼と並ぶ権威者であることを誇示。

そして、次々と邪魔者の排除へと動き出します。そのひとつが、「上杉景勝」(うえすぎ かげかつ)への「会津攻め」(あいづぜめ:現在の福島県西部)でした。

これに多くの武将が参陣しましたが、大谷吉継も参陣を決めたひとり。1600年(慶長5年)7月2日、大谷吉継勢は北国街道から中山道に入り、美濃国(みののくに:現在の岐阜県)の垂井(たるい)に至っていました。そこに「佐和山城」(さわやまじょう)で蟄居中の親友、石田三成からの使者が訪れます。

同日、佐和山城で石田三成と会談。石田三成は、大谷吉継に「徳川家康打倒のために挙兵する」ことを伝え、「徳川家康のわがまま勝手を、これ以上許しては豊臣秀頼のためにならず、徳川家康が大阪城を留守にしている今が打倒の好機」だと言ったのです。

これを大谷吉継は驚き、石田三成に形勢の不利を諭し、挙兵を思いとどまるように諫めました。大谷吉継は豊臣秀吉の死後、徳川家康とも懇意にしており、会津攻め参陣もそれが理由で、徳川家康の実力を何より熟知していたからです。

しかし、大谷吉継がいくら諫めても、石田三成は頑として聞き入れません。大谷吉継はいったん垂井へ戻り、会津攻めの軍に合流したなかで熟考に熟考を重ねます。その結果、「石田三成と意を共にして戦う」ことを決意するのです。

石田三成への友情と関ヶ原の戦い

実は、大谷吉継は長年、重い病に悩まされていました。それは面貌が変わるほどのもの。

豊臣秀吉が開いた茶会で、出席者が茶碗に入った茶を回し飲みする際、病気を患っていた大谷吉継が口を付けた茶碗は、感染を恐れて誰もが飲むのを嫌がりました。そんななか、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲んだと伝えられています。大谷吉継は、変わらぬ親交を保ってくれた石田三成の「義」に応える方を選択したのです。

一説には、「石田三成には徳川家康打倒の策があった」と言われ、大谷吉継は石田三成への友情と共に、その策にかける決意をしたとも言われています。

どちらにせよ、大谷吉継は、石田三成が自分の私欲のためでなく、「豊臣家」(とよとみけ)への純粋な忠誠心を持っていたことを誰よりもよく分かっていたのです。大谷吉継もまた、義に生きた稀な戦国武将であったことが伺えます。

東軍と西軍の争いは、実際には関ヶ原の戦い以前から始まっていました。それは、西軍が勝利した、1600年(慶長5年)7月19日「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)。そののち、西軍と東軍は勝ったり負けたりを繰り返し、1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦いを迎えたのです。

西軍の大谷吉継は、1600年(慶長5年)9月3日には、賤ヶ岳の戦いで「七本槍」のひとりに数えられた「脇坂安治」(わきざかやすはる)をはじめ、「朽木元網」(くつきもとつな)、「赤座直保」(あかざなおやす)「平塚為広」(ひらつかためひろ)、「戸田重正」(とだしげまさ)らを率いて着陣。関ヶ原の戦いの序盤は、高地に陣容を配していた西軍が善戦し、東軍の徳川家康が苛立ちや焦りを隠せず、周囲にあたり散らすほどでした。

しかし、徳川家康がその動向に賭けていた「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の裏切りと共に、徳川家康に内応していた「毛利輝元」(もうりてるもと)の重鎮「吉川広家」(きっかわひろいえ)らが一歩も陣を動かさなかったため、午後を迎えるとその情勢は一気に変わります。西軍の頼みの綱であった毛利、吉川勢3万余りが動かず、小早川秀秋勢1万1,000余りが東軍に就いたことで、圧倒的に東軍優勢となっていったのです。

その小早川秀秋勢が、松尾山の陣を下り攻撃を仕掛けた先が、山麓に陣を敷いていた、大谷吉継勢でした。しかし大谷吉継は、小早川秀秋が西軍の狼煙(のろし)に反応しないときから裏切りを確信しており、600の軍勢で小早川勢を迎え撃ち、松尾山までいったんは押し戻しています。

善戦を重ねた大谷吉継勢でしたが、すでに東軍の藤堂勢・京極勢などと数時間も死闘を繰り広げていたことから、兵の疲労は否めませんでした。しかも、このとき、大谷吉継の配下では「藤堂高虎」(とうどうたかとら)から誘われた脇坂安治、朽木元網、「小川祐忠」(おがわすけただ)、赤座直保も、東軍に寝返り。結果、大谷勢は壊滅し、大谷吉継は自刃。ついに、開戦からわずか6時間後、徳川家康率いる東軍の勝利が決定したのです。

徳川家康の「狡猾さ」と石田三成の「ただただ太閤の恩顧に報いん」という熱い忠義。大谷吉継は、その両者ともの抜きんでたパワーを知っており、その上で西軍の石田三成を選択し、結果的に砕け散りました。

西軍の大谷吉継にとっても石田三成にとっても誤算だった、あるいは無念だったのは、豊臣政権を守るために戦ったはずの自分達の奮闘に、豊臣一門衆の支援がなかったことだろうと言われています。

西軍 大谷吉継

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