参戦した西軍武将

西軍 小西行長

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1600年(慶長5年)9月15日に開戦した「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、勝利した東軍「徳川家康」(とくがわいえやす)が、その天下を決定的なものとし、江戸幕府開府へとつながるまさに天下分け目の戦いでした。
しかし、この結果が逆転していたら、日本の歴史はどうなっていたのでしょうか。敗者となった「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍にも、十分に勝機はあったと言われています。
なぜなら、西軍には石田三成はもとより、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)がその才能を買っていた人物達が名を連ねていたからです。「小西行長」(こにしゆきなが)もそのひとり。キリシタン大名としても知られる小西行長をご紹介します。

豊臣秀吉に仕えた知将!

「水軍の大将」と「キリシタン大名」2つの顔

小西行長

小西行長

「小西行長」(こにしゆきなが)は、1558年(永禄元年)に(現在の大阪府)の豪商「小西隆佐」(こにしりゅうさ)の次男として、京都で誕生しました。

両親の影響で、幼い頃にキリスト教の洗礼を受けたとされており、洗礼名は「アゴスチノ」。

一説によると、福岡(ふくおか:現在の岡山県瀬戸内市)の豪商「阿部善定」(あべぜんてい)の手代(てだい:使用人)、源六の養子となり、「岡山城」(おかやまじょう)の城主「宇喜多直家」(うきたなおいえ)の御用聞きに。そこで才覚を認められ、士分(しぶん:武士の身分)として登用されます。

しかし、主君の宇喜多直家は、1578年(天正6年)に起きた「織田信長」(おだのぶなが)率いる「播州征伐」(はしゅうせいばつ)に遭うのです。結果、宇喜多直家は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)当時は「羽柴秀吉」(はしばひでよし)を通じて織田信長に降伏。このとき、連絡役を務めたのが、小西行長だと言われています。

小西行長 勢力地図

小西行長 勢力地図

小西行長が、豊臣秀吉に重用されるようになったのは、1580年(天正8年)頃。実父である小西隆佐と共に仕え、1583年(天正11年)には、船舶を監督する水軍の大将「舟奉行」(軍船・水路・水軍のことを扱った役職)に抜擢されます。

そして、1587年(天正15年)に「九州平定」(きゅうしゅうへいてい)で活躍。

1588年(天正16年)の「肥後国人一揆」(ひごこくじんいっき)においても武功を挙げ、失脚した「佐々成政」(さっさなりまさ)の遺領のうち、肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)の南半国24万石を与えられ、「宇土城」(うとじょう)の城主となったのです。

石田三成と共に、明・朝鮮との和睦に動く

1592年(文禄元年)に始まった朝鮮出兵、いわゆる「文禄の役」(ぶんろくのえき)。このときの豊臣秀吉の目的は、「明」(みん)を征服することでした。「仮道入明」(かどうにゅうみん)、つまり明に進行するための道を借りると称して、朝鮮半島に軍勢を送ったのです。

小西行長は、対馬(つしま:現在の長崎県対馬市)領主「宗義智」(そうよしとし)と共に、第1陣として朝鮮へ出陣。小西行長は破竹の進撃を続け、漢城(はんそん:現在の韓国ソウル)を陥落。この知らせを聞いた豊臣秀吉が「自らも朝鮮に赴く」と言い出しますが、「徳川家康」(とくがわいえやす)や「前田利家」(まえだとしいえ)らに諫められて、代わりに「石田三成」(いしだみつなり)が「朝鮮在陣奉行」(軍監)として赴任したのです。

小西行長は、漢城を陥落したものの、豊臣秀吉の明国制覇という壮大な夢は不可能で、「この朝鮮出兵は無謀」だと読んでいました。軍監として朝鮮入りした石田三成も、その意見は一致。小西行長と石田三成は、豊臣秀吉の意に何とか逆らわない形で秘密裏に明と外交交渉を行ない、妥協部分を探りながら「早期講和」を目指し動いていたのです。講和のタイミングとして、小西行長らの先制攻撃によって朝鮮の諸城を崩落させた今こそが、交渉を有利に導くことができる判断があったからだと言われています。

しかし、これに真っ向から反対の異を唱えたのが、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「福島正則」(ふくしままさのり)ら「武断派」の武将達です。「あくまで太閤[豊臣秀吉]の命令である朝鮮・明との合戦・占領を目指すべきだ」と主張します。

もともと武断派は、豊臣秀吉が中央集権化を強力に進めるなか、国政の担い手として厚い信頼を置いた石田三成に対し、「なぜ、石田三成ばかりが重用されるのか?」と強い憤りを持ち、石田三成や「大谷吉継」(おおたによしつぐ)ら中央にいる「文治派」を快く思っていませんでした。

小西行長は、武将としても最前線で戦う立場でしたが、主に海運担当として活躍していたため、当初から石田三成に近い人物。朝鮮出兵においても豊臣秀吉から行政官的役割を任されており、戦闘色が濃かった武断派とは対立関係となり、後々まで争うことになるのです。

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西軍側に付いた本当の理由

加藤清正との対立

小西行長が、武断派のなかでも特に馬が合わず対立していたのが、加藤清正です。小西行長と加藤清正は、実は朝鮮出兵以前から互いをけん制し合う関係でした。

1588年(天正16年)に豊臣秀吉が恩賞として与えたのは、肥後国南半国が小西行長で、肥後国北半国が加藤清正。同年に天草(あまくさ:現在の熊本県天草地方)で起こった「天草国人一揆」(あまくさこくじんいっき)において、小西行長がこれを鎮めるため出兵した折、小西行長自身では一揆を鎮圧できず、加藤清正に援軍を頼み、二者で平定したと思われていますが実状は違いました。

小西行長は、同じキリシタンの多い天草衆を降伏させ、家臣団に加えようと考えていたのですが、加藤清正が強引に天草攻略に割り込んできたため、両人で一揆を制圧せざるを得なくなったのです。

この背景にあったのは、天草諸島が天草国人衆のもとで活動する、海上勢力の地盤だったこと。海上勢力・海上能力の掌握を課題とする豊臣政権にとって、天草は非常に重要な場所でした。これ以上、小西行長の水軍が強くならないよう、加藤清正によって阻止されたとも考えられるのです。

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関ヶ原の戦いでの小西行長

小西行長は、1597年(慶長2年)の2度目の朝鮮出兵「慶長の役」(けいちょうのえき)にも、加藤清正と共に先陣を任されますが、この戦の最中に豊臣秀吉が病死。日本軍は朝鮮半島から撤退しました。

小西行長は日本に戻ったのち、豊臣政権の中枢に復帰。五大老の筆頭であった徳川家康の指示で動くようになります。1599年(慶長4年)の「島津氏」(しまづし)の内部権力闘争である「庄内の乱」(しょうないのらん)では、庄内の状況を把握し、徳川家康に代わり近隣大名に出陣を求める任務を与えられており、徳川家康から派遣された上使として動いていたことが分かります。

関ヶ原の戦い布陣図

関ヶ原の戦い布陣図

しかし、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では、小西行長は徳川家康と敵対する「西軍」の首謀者として出陣したのです。

小西行長が西軍側、しかもその中心人物として戦うことを決めた理由は、朝鮮出兵をきっかけに強く結びついた石田三成や、以前仕えた「宇喜多氏」(うきたし)への義理、また加藤清正との対立などがあったと考えられています。

そして、1600年(慶長5年)9月15日、「天下分け目の戦い」と呼ばれる一大決戦、関ヶ原の戦いが開戦。しかし、実はこのとき、小西行長の軍勢は朝鮮出兵での家臣団の消耗から立ち直っておらず、関ヶ原の戦いの軍勢も国許に残した軍勢も、意外なほど小規模でした。そのため石田三成の配慮により、小西行長にだけ4,000人の援軍が加えられています。

戦況は一進一退で進むものの、西軍の石田三成、小西行長、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、大谷吉継の軍勢の他は、形勢を傍観して鳴りを潜めていました。そこに、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の裏切りが起こります。

大谷吉継軍に致命的な打撃が与えられると、小西行長、宇喜多秀家、最後に石田三成の部隊が相次いで崩れ去り、西軍は敗退。関ヶ原の戦い終結後の10月1日、小西行長は石田三成と共に、京都の六条河原で斬首されたのです。

西軍 小西行長

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西軍 島津義弘

西軍 島津義弘
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)関ヶ原を舞台に開戦し、東軍が勝利した戦いです。 「天下分け目の戦い」とも言われる合戦として有名ですが、西軍に属した武将のなかには、東軍に参加するつもりが、情報伝達の不十分さから西軍の中心人物として参戦せざるを得なくなってしまった人物がいました。それは、九州の「薩摩国」(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)、「大隅国」(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)、「日向国」(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)の3国を統治していた「島津義弘」(しまづよしひろ)。 また、関ヶ原の戦いにおいては「島津の退き口」、通称「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる決死の敵中突破を行なったことでも有名です。

西軍 島津義弘

西軍 石田三成

西軍 石田三成
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、のちの歴史からみると、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、1600年(慶長5年)9月15日に、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦し、結果的に徳川家康が勝ち、江戸幕府開府へと向かう、まさに「天下分け目の戦い」でした。 そこにはもちろん、語り尽くせないほどのドラマがあったのですが、全体として捉えると、いよいよ天下に王手のかかった徳川家康に、「石田三成と豊臣官僚集団」が「待った」をかけるため挑んだ戦いという構図が見えてくるのです。敗者となった西軍の実質的な代表者である石田三成に焦点を当ててご紹介します。

西軍 石田三成

西軍 大谷吉継

西軍 大谷吉継
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を、わずか6時間で決めた戦いです。 西軍に付いた「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、豊臣秀吉が一目置いていた軍略に富む人物。当初から西軍の勝利は「冷静にみて、やはり無謀だ」と読んでいた節があります。 しかしそれでも、親友「石田三成」(いしだみつなり)を尊重し、心をひとつに戦う覚悟を決めたのです。そんな、大谷吉継にスポットを当てご紹介します。

西軍 大谷吉継

西軍 宇喜多秀家

西軍 宇喜多秀家
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」と、「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる「西軍」が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県)関ケ原を舞台に行なった合戦です。 「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、西軍として参戦し、西軍の中心的人物として活躍した武将。本戦は、わずか6時間で決着しましたが、宇喜多秀家とその子々孫々は、日本の歴史上、最も数奇な運命をたどった一族として名を残しました。 「宇喜多家」(うきたけ)は関ヶ原の戦いのあと、江戸時代265年に亘る歳月を「八丈島」(はちじょうじま:現在の東京都八丈町)と言う絶海の孤島で生きることを余儀なくされたのです。関ヶ原の戦いを通じて、宇喜多秀家の生涯、及び宇喜多家が八丈島でどのように過ごしたのかをご紹介します。

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西軍総大将 毛利輝元

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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。 1600年(慶長5年)9月15日、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦。東軍が勝って、徳川家康の天下を決定的としました。興味深いのは、天下の行く末を決めた戦いでありながら、わずか6時間で決着という、まさに短期決戦であったこと。では、なぜこれほど早く終わったのでしょうか。 実は、そこには「毛利氏」(もうりし)の存在が大きく関与しています。西軍の実質的な代表者は、「太閤の恩顧に報いん」と挙兵した石田三成ですが、西軍総大将となったのは毛利輝元です。安芸広島120万5,000石を誇った中国地方の大名で、豊臣政権下での「五大老」のひとりでもあります。実はこの毛利輝元、西軍総大将でありながら、戦いの場にその姿はありませんでした。関ヶ原の戦いを毛利輝元と毛利氏に焦点を当てて、ご紹介します。

西軍総大将 毛利輝元

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