参戦した東軍武将

東軍 本多忠勝

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「本多忠勝」(ほんだただかつ)と言えば、「酒井忠次」(さかいただつぐ)、「榊原康政」(さかきばらやすまさ)、「井伊直政」(いいなおまさ)と並んで、「徳川四天王」のひとりに数えられた人物です。
幼少期から約50年間「徳川家康」(とくがわいえやす)に仕え、人生を徳川家康に捧げた忠臣。戦国随一の猛将で、「織田信長」(おだのぶなが)からは「花実兼備の勇士」と称され、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)からは「天下無双の大将」と呼ばれました。初陣から数えて生涯57回参戦したなかで、ただの一度も手傷を負わなかったという逸話も。
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で、東軍の勝利に大いに貢献した本多忠勝の人生をご紹介します。

徳川家康に過ぎたる者、現る!

14歳で初首、家柄は徳川家「腹心の家臣」

本多忠勝

本多忠勝

本多忠勝」(ほんだただかつ)は、1548年(天文17年)に三河国額田郡蔵前(みかわのくにぬかたぐんくらまえ:現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で誕生しました。

「本多家」(ほんだけ)は、「松平家」(まつだいらけ:のちの徳川家[とくがわけ])の安祥譜代(あんじょうふだい:徳川家の家臣中、最古参の譜代家臣)のひとつで、先祖代々、松平家に仕えてきた家柄。

例えば、本多忠勝の祖父「本多忠豊」(ほんだただとよ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)に仕え、1545年(天文14年)の「第二次安城合戦」(だいにじあんじょうかっせん)で松平家を守るために身代わりとなって討死。

そして、本多忠勝の父「本多忠高」(ほんだただたか)も、徳川家康の父「松平広忠」(まつだいらひろただ)に仕え、1549年(天文18年)の「第三次安城合戦」(だいさんじあんじょうかっせん)で松平勢の主将を務めて、父と同じく戦死しました。このように、本多忠勝の祖父、父と続いて松平家に命を捧げてきたことから、松平家にとって本多家はまさに「腹心の家臣」という存在だったのです。

誕生した翌年に父を亡くした本多忠勝は、叔父の「本多忠真」(ほんだただまさ)に育てられ、父や祖父と同様に、幼少期から松平家に仕えます。1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で先鋒を任された19歳の当時は「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの徳川家康)に従い、13歳の本多忠勝は、この戦いの前哨戦に当たる作戦のひとつ「大高城兵糧入れ」(おおだかじょうひょうろういれ)で初陣を飾りました。

本多忠勝が猛将となる片鱗を見せたのは、初陣後すぐの「登屋ヶ根城攻め」(とやがねじょうぜめ)。戦場で敵を討ち取った叔父の本多忠真が、本多忠勝に手柄を譲ろうとすると、「手柄を立てるのに人の手は借りぬ」と言い放ち、勢いよく敵陣に斬り込んで首級(しゅきゅう)を取ったのです。

こうして本多忠勝は、14歳で初首を挙げることとなり、これを見た叔父の本多忠真は、本多忠勝のただならぬ気魄を感じ取っていたと言われています。

そののち、徳川家康が独立することとなったため、徳川家康と共に本多忠勝も「岡崎城」(おかざきじょう)へ移りました。本多忠勝は若き徳川家康と共に戦歴を重ね、1566年(永禄9年)に19歳で旗本部隊に抜擢されると、先手役(せんてやく)として戦場の最前線で勇猛果敢に戦闘を繰り広げていったのです。

大多喜藩10万石の初代藩主に抜擢

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)が起こる30年前の元亀年間(1570~1573年)、徳川家康は甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)を治める、「甲斐の虎」こと「武田信玄」(たけだしんげん)という男に苦しめられていました。

  • 徳川家康

    徳川家康

  • 武田信玄

    武田信玄

遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)などの領地を巡って、武田軍と争った「一言坂の戦い」(ひとことざかのたたかい)、「二俣城の戦い」(ふたまたじょうのたたかい)、「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)では、いずれも徳川軍は武田軍に敗北しています。

しかし、これらの戦いで猛将ぶりを発揮した本多忠勝は、瞬く間に勇名を馳せることに。

わずかな兵を率いて、武田軍の攻勢を食い止めた本多忠勝の戦いぶりは、武田軍の武将に「徳川家康に過ぎたるもの」と言わしめるほどだったと語られました。

そののち、本多忠勝は1575年(天正3年)の「長篠の戦い」(ながしののたたかい)、1580年(天正8年)の「高天神城の戦い」(たかてんじんじょうのたたかい)に参戦。「織田信長」(おだのぶなが)の政権下で勢力を拡大していた徳川家康は、武功を挙げ続ける本多忠勝に対し、「まことに我が家の良将なり」と褒め称えていたと言われています。

また、本多忠勝の活躍は戦場に留まらず、ときには徳川家康を諫める補佐役も務めていました。1582年(天正10年)の「本能寺の変」(ほんのうじのへん)直後、織田信長の死に動揺して「仇討ちをして殉死する」と言い出した徳川家康を説得したのも、本多忠勝だったのです。

このとき本多忠勝は、徳川家康最大の危機と言われた脱出劇「伊賀越え」(いがごえ)を先導し、無事に帰還させるために不眠不休で徳川家康を護りました。

そののち、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」(こまきながくてのたたかい)では、本多忠勝は豊臣軍に苦戦する徳川軍に加勢するために、わずか500の部隊を率いて参陣し、「豊臣家」(とよとみけ)の大軍に対して物怖じするどころか、大胆不敵に戦場を駆け回ったのです。この様子を見た「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は、豊臣家の家臣にしたいと切望したと言われています。

そして、徳川家が豊臣政権下に置かれると、1590年(天正18年)に徳川家康が関東に移封になったことに伴い、本多忠勝も関東へ。徳川家康の新拠点となった江戸の国境を敵から守るため、本多忠勝には上総国夷隅郡大多喜(かずさのくにいすみぐんおおたき:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)10万石が与えられ、初代藩主に抜擢。こうして、関ヶ原の戦いに至るまで本多忠勝は、徳川家康を心身共に支え続けました。

戦国最強の武将!本多忠勝と関ヶ原の戦い

戦いを前にして東軍を勝利に導く

本多忠勝陣跡

本多忠勝陣跡

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、本多忠勝は「井伊直政」(いいなおまさ)と共に、東軍先鋒「福島正則」(ふくしままさのり)などの豊臣恩顧の大名の監視役となり、徳川本軍に軍監として従軍。

そのため、本多隊は嫡男の「本多忠政」(ほんだただまさ)が率いており、本多忠勝は本陣の後方で指揮を執りながら支援にまわっていたと言われています。

また本戦前には、共に軍監を務めた井伊直政と東軍の味方を増やす工作にも奔走し、西軍総大将に担ぎ上げられた「毛利輝元」(もうりてるもと)の筆頭補佐役「吉川広家」(きっかわひろいえ)と誓約書を交わすなど、全国の諸大名に連署で書状を送っていました。

このような2人の調略によって、東軍は西軍から多くの大名を取り込むことに成功。徳川家臣団筆頭の本多忠勝と井伊直政によって、戦いを前にして東軍は勝利の道へと大きく前進していたのです。

開戦後は、「島津の退き口」(しまづののきぐち)と呼ばれた西軍の島津隊の退却戦にも応戦。本多隊の目の前を通過していく島津隊に気付き、井伊直政と共に伊勢街道を通って追撃しました。その追撃の途中で井伊直政は重傷を負ってしまいます。

島津義弘」(しまづよしひろ)は逃してしまったものの、本多忠勝は執拗に島津隊を追撃して奮戦し、たった500の手勢で90もの首級を挙げました。このように、開戦前から終戦まで本多忠勝は、徳川家康の天下を信じ、東軍を勝利へと導いたのです。

桑名藩10万石、創設の名君に!

徳川家康は、本多忠勝の戦前の工作から、関ヶ原の戦い本戦の活躍をたたえ、1601年(慶長6年)に、伊勢国桑名(いせのくにくわな:現在の三重県桑名市)10万石を与えます。

これによって、旧領の上総国大多喜は、次男「本多忠朝」(ほんだただとも)に別家5万石が与えられることに。一説によると、徳川家康は加増するつもりでしたが、本多忠勝が固辞したために次男に旧領を与えたと言われています。

そして、伊勢国桑名藩初代藩主となった本多忠勝は、揖斐川(いびがわ)沿いの土地にただちに城郭を築き、城下町の整備を進めると共に、藩政の基礎を固めていきました。

さらに「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町づくりを行なうことに。「桑名城」(くわなじょう)の増改築、河川の対策、東海道宿場の整備などを積極的に実施し、桑名を城下町・宿場町・港町として発展させていったのです。このように、初代藩主として藩政を確立したことで、本多忠勝は「桑名藩創設の名君」と呼ばれるようになりました。

桑名藩を繁栄させていく一方で、本多忠勝は病に冒され始めます。次第に江戸の政権から遠ざかった本多忠勝は、1604年(慶長9年)に隠居を申し出ましたが、誰よりも本多忠勝を信用してきた徳川家康は、この申し出を受けずに慰留させます。

そののち、1607年(慶長12年)に眼病を患ったことをきっかけに、1609年(慶長14年)に嫡男の本多忠政に家督を譲り、ついに本多忠勝は隠居を決断。そして、隠居から1年後の1610年(慶長15年)10月18日、本多忠勝は徳川家康を置いて、63歳でこの世を去りました。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

「本多忠勝 甲冑写し」のYouTube動画

本多忠勝の甲冑の写しを
YouTube動画でご覧頂けます。

本多忠勝 甲冑写し

東軍 本多忠勝

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東軍総大将 徳川家康

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