参戦した東軍武将

東軍総大将 徳川家康

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天下分け目の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で勝者となった、東軍総大将「徳川家康」(とくがわいえやす)。およそ200年続いた戦国の世を終わらせ、新時代を切り拓いた天下人として知られる人物ですが、実は関ヶ原の戦いに至るまでは、辛く苦しい道のりを歩んでいました。
岡崎城主の父「松平広忠」(まつだいらひろただ)の長男として生まれた徳川家康は、幼少期から少年期にかけて「織田氏」(おだし)や「今川氏」(いまがわし)のもとで人質として過ごしたあと、父の暗殺、主君の死など、苦難の日々を送ります。
次々と襲い掛かる災難に心が折れて自害しようとしたこともありました。しかし、大きな試練を経験したからこそ、徳川家康はあらゆる力を身に付けて東軍総大将となり、関ケ原で勝利を掴み取ることができたのです。
どん底にいた徳川家康が、天下統一を果たすまでの軌跡を、関ヶ原の戦いと共にご紹介します。

いざ天下統一へ! 東軍総大将 徳川家康と関ヶ原の戦い

人質生活から戦国大名へ

徳川家康

徳川家康

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)からさかのぼること40年。

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で主君「今川義元」(いまがわよしもと)が織田軍に討ち取られたことで、「徳川家康」(とくがわいえやす)に転機が訪れたのです。

6歳から約13年間続いた人質生活や父の暗殺を乗り越えながらも、主君を失い、若くして人生に絶望していた徳川家康は、織田軍に追われるなか、「松平家」(まつだいらけ)の菩提寺である「大樹寺」(だいじゅじ)へ逃げ込みます。

窮地に立たされた徳川家康は、ここで自害することを考えました。しかし、寺の住職に諭されて、徳川家康は思い止まります。身近な人々の死を経験していた徳川家康は、このとき「平和な国を作りたい」という思いを抱いたのです。

こうして、新しい人生を掴むために立ち上がった徳川家康は、今川軍が撤退して無人となった「岡崎城」(おかざきじょう)を占拠し、「織田氏」(おだし)へ寝返りました。危機を好機に変えて切り抜け、「今川氏」(いまがわし)からの独立を果たした徳川家康は、生誕地である岡崎城から大きな一歩を踏み出すこととなります。

弱小勢力から一念発起して戦国大名への道を歩み始めた徳川家康は、「織田信長」(おだのぶなが)と同盟を組んで三河(みかわ:現在の愛知県東部)を統一。1566年(永禄9年)には、「源氏」(げんじ)の末裔であることを主張する「徳川」(とくがわ)に改姓しました。

しかみ像

しかみ像

着々と三河で支配力を強めていった徳川家康ですが、1572年(元亀3年)に起こった「武田信玄」(たけだしんげん)との「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)では惨敗。

このときの屈辱を忘れないよう、戦に負けて憔悴する自分の姿を「しかみ像」として絵に残しています。

悔しさをバネに徳川家康は、遠江(とおとうみ:現在の静岡県西部)、甲斐(かい:現在の山梨県)、信濃(しなの:現在の長野県)、駿河(するが:現在の静岡県東部)を領する大大名へとのし上がっていきました。

そして、関ヶ原の戦いと、その先に続く天下統一への道を突き進んでいったのです。

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なぜ関ヶ原の戦いは起こったのか?

1582年(天正10年)、織田信長の死後に、その後継者として台頭した「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)当時は「羽柴秀吉」(はしばひでよし)が天下統一を果たします。この状況下で徳川家康は、豊臣秀吉に自分の力を見せ付けながらも、豊臣政権に臣従することを決意。一度は天下の道から逸れた徳川家康ですが、関東256万石という石高で他を圧倒し、天下に一番近いところでしたたかに好機を窺っていました。

1596年(慶長元年)、内大臣に任じられた徳川家康は、豊臣政権で力を発揮します。1598年(慶長3年)には、病に倒れた豊臣秀吉によって、豊臣政権の柱となる「五大老・五奉行」制度が発足。

石田三成

石田三成

徳川家康は、五大老のひとりとして、五奉行の中心にいた「石田三成」(いしだみつなり)と共に、豊臣政権を支えていくこととなりました。

しかし、この頃からすでに2人の対立関係は始まっており、豊臣秀吉の死をきっかけに、豊臣政権内は大きな派閥抗争へ発展します。

徳川家康は、豊臣秀吉の遺命に背き、大名家との縁組を次々と進めて天下統一を企んでいました。

しかし、石田三成がこの行動を咎めて徳川家康を激しく批判したため、多くの大名家を巻き込んで徳川派と反徳川派が対立を深めます。

そんななか、豊臣秀吉子飼いの「武断派七将」が、石田三成の大坂屋敷を襲撃する事件が勃発。これによって、五大老筆頭の徳川家康が七将と石田三成との仲裁に入り、石田三成は五奉行から除名され蟄居(ちっきょ:一室に謹慎させる刑罰)を命じられました。豊臣政権から追放された石田三成は、打倒徳川家康を掲げ、2人の対立はより深刻化。

こうして、有力な大名家や武断派七将を味方に付けた徳川家康と、反徳川派を集めて旗揚げを決意した石田三成による東西合戦が、関ヶ原の戦いを中心に全国で繰り広げられることとなったのです。

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東軍を率いて決戦の舞台「関ヶ原」へ!

1600年(慶長5年)7月、徳川家康は反徳川派の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)討伐のため、大軍を率いて江戸から会津(あいづ:現在の福島県西部)へ向かいました。この「会津征伐」(あいづせいばつ)を好機と見た石田三成は、西軍を率いて挙兵。この知らせを聞いた徳川家康は、東軍諸将と協議を開き、会津征伐を中止して西進することを決意します。

東軍先鋒を出陣させ、一旦「江戸城」(えどじょう)へ戻った徳川家康は、十分に休息を取ったあと、先鋒から約1ヵ月遅れの9月1日に江戸を発ち、関ヶ原(せきがはら:現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)へと出陣。

このように、西軍の挙兵後も余裕を持って行動していた徳川家康は、東軍への加勢を全国の諸大名に呼びかけ、外交力を駆使して西軍諸将の寝返りを根回ししていたことから、すでに勝利を確信していたと言われています。

江戸を出発してから2週間後の9月14日、徳川本軍は美濃赤坂(みのあかさか:現在の岐阜県大垣市)に着陣すると、決戦を目前に軍議を開きました。短期決戦で西軍を討つため、徳川本軍は中山道を直進して最短距離で関ヶ原へ。その頃、西軍主力は関ヶ原東南に位置する「南宮山」(なんぐうさん)を迂回して決戦の場へと向かっていました。

桃配山の徳川家康最初陣跡

桃配山の徳川家康最初陣跡

決戦当日の15日、徳川本軍は主戦場から東の後方に位置する「桃配山」(ももくばりやま)に最初の陣を構えます。

この桃配山は、672年に起こった「壬申の乱」(じんしんのらん)で「大海人皇子」(おおあまのおうじ)が名産の桃を兵士に配り、士気を高めて勝利を掴んだと言われる場所です。

徳川家康は、この故事にあやかって桃配山を最初の陣地に選んだあと、霧の中を進んで西軍前に堂々と最終陣地を置きました。

そして、正午には西軍で1万5,000の軍勢を率いる「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りが起こり、約2時間という短時間で東軍は西軍に完勝します。

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徳川家康による江戸開府、そして天下統一へ

関ヶ原の戦いから2週間後の10月1日、徳川家康は捕縛した石田三成と、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)、「小西行長」(こにしゆきなが)を京都六条河原で処刑。戦後処理を行なうなかで、「豊臣家」(とよとみけ)65万石に対して「徳川家」(とくがわけ)は400万石を有することとなり、徳川家康が天下人としての地位を確立しました。

1603年(慶長8年)に、62歳で征夷大将軍に任じられた徳川家康は、江戸を本拠とする幕府を開きます。しかし、開府からわずか2年後の1605年(慶長10年)に将軍職から退き、徳川家康は駿府へ隠居することに。そして、徳川家康の後継として嫡男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が2代将軍となり、今後は徳川家が代々将軍職を世襲することを世に示しました。

こうして徳川家康は、隠居後も大御所として徳川秀忠と共に二元政治を行ない、江戸幕府の礎を築いていったのです。

徳川家康は、関ヶ原の戦いを制し、江戸幕府を築いたものの、いずれまた「豊臣氏」(とよとみし)が「徳川氏」(とくがわし)の脅威となることを懸念していました。関ヶ原の戦いにおいて、東軍主力となっていたのは「福島正則」(ふくしままさのり)などのいわゆる「豊臣恩顧の大名」で、また合戦後に西国に配置した大名達も、そのほとんどが豊臣氏の影響下にいた者達だからです。

1614年(慶長19年)、徳川家康は徳川氏の存続のために最後の戦いへと動き出します。天下まであと一歩のところで家臣に裏切られた織田信長、天下を1代で終わらせてしまった豊臣秀吉、彼らを間近で見てきた徳川家康は、戦国の歴史を繰り返してはならないと強く願っていたのです。

そして1615年(慶長20年)、「大坂の陣」(おおさかのじん)でついに豊臣氏を滅亡させると、徳川家康は「武家諸法度」(ぶけしょはっと)や「一国一城令」(いっこくいちじょうれい)を制定し、諸大名の統制を図って名実共に徳川氏の権威を天下に轟かせます。

これまでの苦難の人生から学んだことを活かし、関ヶ原の戦いから約15年の時間をかけ、以後264年続く徳川政権を確立した徳川家康は、徳川氏の安泰を見届けながら1616年(元和2年)に75歳でこの世を去りました。

東軍総大将 徳川家康

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