参戦した東軍武将

東軍 井伊直政

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「井伊直政」(いいなおまさ)は、戦国時代の武将。戦国の世に沈みかけていた「井伊家」(いいけ)を再興させた他、政治力や外交力を活かして徳川家臣団筆頭に上りつめ、「徳川四天王」のひとりとして「徳川家康」(とくがわいえやす)の天下統一に大きく貢献した功臣です。
また、自他共に厳しい性格から「井伊の赤鬼」(いいのあかおに)や「人斬り兵部」(ひときりひょうぶ)などの異名で恐れられ、常に戦場の最前線で激戦を繰り広げた猛将でもありました。
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では、東軍の中心的存在としてあらゆる面で活躍し、戦後も江戸幕府の基盤を固めるために邁進した井伊直政の人生をご紹介します。

流浪生活に苦しんだ幼少期

井伊直政

井伊直政

井伊直政」(いいなおまさ)は、1561年(永禄4年)に遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県浜松市)の「井伊谷城」(いいのやじょう)城主「井伊直親」(いいなおちか)の嫡男として誕生。

幼名は「虎松」(とらまつ)。「虎のように強く、松のように末永く栄えるように」と言う願いが込められていたと言います。

井伊家」(いいけ)は、先祖代々井伊谷の領主で、当時の当主は「井伊直盛」(いいなおもり:井伊直親の従兄)でしたが、井伊直盛は当時仕えていた「今川義元」(いまがわよしもと)と共に「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で戦死。

1562年(永禄5年)父の井伊直親も桶狭間の戦いで勝者となった「織田信長」(おだのぶなが)の内通者ではないかと言う謀反の疑いを掛けられ、今川義元の跡を継いだ「今川氏真」(いまがわうじざね)により討死。このとき、2歳の井伊直政(虎松)も命を狙われますが、今川氏真の家臣「新野親矩」(にいのちかのり)によって母子共に保護され、「新野家」(にいのけ)の養子となります。

2年後の1564年(永禄7年)養父の新野親矩が戦死したことで、再び遺児となった幼い井伊直政は、1568年(永禄11年)に「今川氏」(いまがわし)の追撃から逃れるために出家。しばらくの間、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の「鳳来寺」(ほうらいじ)に預けられ、そののち、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、北東部)や三河国を転々としながら過ごします。

井伊直政に転機が訪れるのは、1574年(天正2年)井伊家の菩提寺である「龍潭寺」(りょうたんじ)で、父の井伊直親の13回忌が営まれたときでした。当時の井伊家当主は「井伊直虎」(いいなおとら)。井伊直虎は、井伊直政を「徳川家康」(とくがわいえやす)に仕えさせるために、井伊直政の生母「ひよ」を徳川家康の家臣「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚させます。当時14歳の井伊直政は、母のひよと共に「松下家」(まつしたけ)に入りました。

井伊家の運命を変えた!徳川家康との出会い

徳川家康

徳川家康

1575年(天正3年)15歳になった井伊直政は、次なる転機を迎えます。

井伊直虎と母のひよは、当時「浜松城」(はままつじょう)を拠点としていた徳川家康に取り立ててもらえるよう、井伊直政に目立つ「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣である青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた)を持たせ、2人があつらえた着物を着せて、城下で「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なっていた徳川家康のもとへ向かわせました。

徳川家康は、誰よりも目立つ格好をした井伊直政に興味を持ち、声を掛けます。井伊直政は、「自分は徳川家に仕えていた井伊家の者なので、叶うなら再び忠義を尽くしたい」と申し出ました。これを聞いた徳川家康は、井伊直政がかつて桶狭間の戦いで先鋒を務めた井伊直盛の親類と知り、「召し抱える他にない」と井伊直政を小姓に迎え入れます。

さらに、井伊家の旧領である井伊谷2,000石と共に、「万千代」(まんちよ)という名を与えました。

赤鬼と呼ばれた猛将!井伊直政

徳川家に仕え始めた井伊直政は、翌年の1576年(天正4年)に参戦した初陣で、徳川家康の暗殺を阻止した功績を認められて3,000石の恩賞を賜り、そのあとも徳川家康のもとで徐々に才覚を発揮。

1582年(天正10年)徳川家康が攻め滅ぼした「武田氏」(たけだし)の旧臣約70名と浪人約40名を任され、若くして新たな部隊の大将になりました。

このとき、井伊直政は徳川家康から武田氏の兵法を引き継ぐことを命じられ、「武田四天王」のひとり「山県昌景」(やまがたまさかげ)隊の特徴である「赤備え」(あかぞなえ)を継承します。

赤備えは、旗や甲冑などの武具を鮮やかな朱色で統一した部隊のこと。井伊直政の部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、結成から2年後の1584年(天正12年)に起こった「小牧・長久手の戦い」(こまきながくてのたたかい)で、徳川軍の先鋒として敵陣に激しく斬り込みました。

井伊直政は、赤備えを率いて最前線で長槍を振り回しながら突き進み、敵陣を切り崩す「突き掛かり戦法」で武功を挙げます。そして、この頃から猛将として名を馳せるようになり、「井伊の赤鬼」(いいのあかおに)と言う異名を付けられました。

井伊直政は、数々の合戦に参戦し、徳川家の重臣としての立ち位置を獲得。「酒井忠次」(さかいただつぐ)や「本多忠勝」(ほんだただかつ)らと共に、徳川家臣団筆頭として「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)を迎えます。

井伊直政の発砲で幕を開けた関ヶ原の戦い

1598年(慶長3年)「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の死後、井伊直政は関ヶ原の戦いに至るまで、豊臣方の武将を東軍に引き入れる交渉役として奔走しました。

井伊直政の交渉によって「黒田官兵衛[黒田孝高]」(くろだかんべえ/くろだよしたか)、及び「黒田長政」(くろだながまさ)父子と良好な関係を築き、「黒田家」(くろだけ)を通して多くの西軍諸将を東軍に引き入れることに成功。

また、交渉役を務めていた本多忠勝と共に本軍の軍監(軍事における指揮役のこと)に任命されて、豊臣恩顧の大名らを監視しながら東軍の中心で指揮を執ります。

福島正則

福島正則

1600年(慶長5年)10月21日(和暦9月15日)午前2時頃、東軍は「福島正則」(ふくしままさのり)隊を左翼先頭、黒田長政隊を右翼先頭に置いた二列縦隊で進軍。

午前6時頃、陣形を整えて西軍前に布陣すると、両軍は霧に包まれながら約2時間対峙します。

そして、霧が晴れてきた午前8時頃、突然鳴り響いた銃声で決戦の火蓋が切って落とされました。

なお、この銃声は東軍先鋒の福島正則隊、及び西軍先鋒の「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)隊が放ったのではなく、いつの間にか福島正則隊の前に入っていた、赤備えを率いる井伊直政が放った鉄砲だったと言われています。

井伊直政が先鋒の福島正則を無視して発砲した理由は諸説ありますが、代表的な説は主に3つ。ひとつ目は、先鋒を任されたのが、豊臣恩顧の大名である福島正則だったことに強く不満を抱いていた。2つ目は、「松平忠吉」(まつだいらただよし:徳川家康の四男で井伊直政の娘婿)に功名を立たせたかった。3つ目は、当日の関ヶ原の様子を記した史書に「小雨が降り、山間では霧が深く十五間(約27m)先も見えない」と言う記載があるため、井伊直政の抜け駆けは意図したものではなく、霧の中で気付かぬうちに西軍と鉢合わせてしまったのではないかと言う説。いずれにしても東軍は、井伊直政による発砲を合図に突撃を開始しました。

関ヶ原の戦いで負傷するも幕府創設に貢献

開戦後、両軍は激しい攻防戦を繰り広げていましたが、西軍「小早川秀秋」(こばやかわひであき)などが寝返ったことで東軍の勝利は目前となります。

敗戦を悟った西軍の「島津義弘」(しまづよしひろ)は、切腹しようとしますが、島津義弘の甥「島津豊久」(しまづとよひさ)が「島津家」(しまづけ)の存続を掛けた退却戦を提案。島津隊は、迫りくる徳川本軍を真っ向から突破することを決意します。

井伊直政は、島津隊の撤退を阻むために松平忠吉、及び本多忠勝と共に追撃戦を開始。100騎を率いて島津隊へ追い付き、島津隊の殿(しんがり:退却する部隊の最後尾)を務めていた島津豊久を討ち取りますが、そののち、島津義弘を目前にしたところで島津鉄砲隊の「柏木源藤」(かしわぎげんとう)から銃撃を受けて右腕を負傷。

島津隊によるこの撤退戦は「捨て奸」(すてがまり)、別名「島津の退き口」(しまづののきくち)と呼ばれ、関ヶ原の戦いにおける名場面として有名です。

合戦後、井伊直政は重傷を負いながらも戦後処理に尽力。西軍総大将を務めていた「毛利輝元」(もうりてるもと)との講和交渉役を務め、「毛利家」(もうりけ)は井伊直政のおかげで改易(かいえき:領地の没収、及び家の取り潰し)を免れます。

また、長宗我部氏(ちょうそかべし)、真田氏(さなだし)、島津氏(しまづし)との和平交渉や助命活動にも奔走し、江戸幕府創設まで政治手腕を発揮。そののち、井伊直政は、西軍「石田三成」(いしだみつなり)の旧領である近江国佐和山(おうみのくにさわやま:現在の滋賀県彦根市)18万石に加増され転封。

数々の功績を挙げ、徳川家に忠義を尽くした井伊直政は、のちに江戸幕府によって編修・編纂される「徳川実紀」(とくがわじっき)、及び「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)のなかで、「井伊直政は、江戸幕府創設における一番の功労者である」と讃えられます。

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