参戦した東軍武将

東軍 福島正則

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「福島正則」(ふくしままさのり)は、「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)や「武断派七将」(ぶだんはしちしょう)の筆頭として知られる戦国武将です。幼少の頃から小姓として「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕え、いわゆる「豊臣秀吉子飼いの武将」として多くの合戦で活躍し、武辺者(ぶへんしゃ:勇敢な武士)として戦国の世にその名を轟かせました。
豊臣秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」に与し、先鋒の主力部隊として「西軍」最大部隊を率いる「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)と乱戦を繰り広げ、東軍の勝利に大きく貢献します。
しかし、徳川家康という新たな天下人の誕生は、福島正則の人生に大きな波乱を巻き起こすことになったのです。東軍先鋒として武功を挙げながら、戦後に失墜することとなった福島正則の人生を関ケ原の戦いを通してご紹介します。

豊臣秀吉子飼いの代表格! 福島正則と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉と特別な関係で結ばれていた福島正則

福島正則

福島正則

福島正則」(ふくしままさのり)は、1561年(永禄4年)に尾張国海東郡(おわりのくにかいとうぐん:現在の愛知県あま市)で桶屋を営む「福島正信」(ふくしままさのぶ)の長男として誕生しました。

母の「松雲院」(しょううんいん)は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の叔母に当たり、福島正則は、生まれたときから従兄弟である豊臣秀吉と強い絆で結ばれていたのです。

福島正則誕生時の豊臣秀吉は、すでに24歳になっており、「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)の名で「織田信長」(おだのぶなが)の家臣として力を付け、「北政所」(きたのまんどころ)の通称で知られる「ねね」と結婚をしていた頃でした。

血縁関係にある豊臣秀吉に、幼少期から小姓として仕えることとなった福島正則は、恩顧の家臣がいなかった豊臣秀吉にとって特別な存在となっていきます。

またこの頃、同様に豊臣秀吉の親戚であることから小姓となった「加藤清正」(かとうきよまさ)と出会い、福島正則と加藤清正は、主君を通じて唯一無二の盟友に。こうして福島正則は、のちに「武断派」として結束する仲間と共に、豊臣秀吉の傍で戦国武将としての人生をスタートさせました。

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次々と合戦で武功を挙げて大名に!

1578年(天正6年)、福島正則は豊臣秀吉、当時は「羽柴秀吉」(はしばひでよし)の中国攻めに従軍し、「三木合戦」(みきかっせん)にて初陣を飾ります。豊臣秀吉が、播磨国三木(はりまのくにみき:現在の兵庫県三木市)の城主に対して「三木の干殺し」(みきのひごろし)と呼ばれる兵糧攻めを行なった戦いで、福島正則は初陣にして兜首(かぶとくび:を付けている身分ある武将の首)を2刎(はね)挙げる武功を立てました。

この戦いを皮切りに、福島正則は「鳥取城の戦い」(とっとりじょうのたたかい)や「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)で猛将ぶりを発揮し、播磨500石を与えられることになります。

そして、1583年(天正11年)に福島正則の名を轟かせることとなった「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。この戦いは、豊臣秀吉と「柴田勝家」(しばたかついえ)による、亡き織田信長の後継者争いで、福島正則は一番槍として見事、敵将「拝郷家嘉」(はいごういえよし)を討ち取ったのです。

福島正則は、賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「平野長泰」(ひらのながやす)、加藤清正、「糟屋武則」(かすやたけのり)、「加藤嘉明」(かとうよしあき)と並んで「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)と称されるようになりました。また福島正則は、この戦功で5,000石を与えられており、7人のなかでも突出した恩賞であることから、賤ヶ岳の七本槍の筆頭であったことが分かります。

豊臣秀吉は、幼い頃から見てきた福島正則の健闘を喜び、1587年(天正15年)の九州平定後には、福島正則に伊予国今治(いよのくにいまばり:現在の愛媛県今治市)11万石を与えることに。福島正則は晴れて大名となり、天下統一へと突き進む豊臣秀吉を支えていきました。

鳥取城の戦い YouTube動画

鳥取城の戦い

東軍先鋒として関ヶ原の戦いへ

文治派の石田三成と対立!

豊臣秀吉の天下統一のあと、福島正則は1595年(文禄4年)に尾張国「清州城」(きよすじょう)の城主に就き、24万石を有する大大名となります。

しかし、1598年(慶長3年)に忠誠を尽くしてきた豊臣秀吉が死去。豊臣秀吉の遺命によって、次代「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を「五大老・五奉行」(ごたいろう・ごぶぎょう)が支える形となった豊臣政権内には、次第に不穏な空気が漂い始めることになりました。

石田三成

石田三成

これまで豊臣政権内で、軍務を担ってきた福島正則や加藤清正をはじめとする「武断派」と、主に統一事業において政務を担ってきた「石田三成」(いしだみつなり)などの「文治派」が激しく対立。

ついに1599年(慶長4年)、福島正則や加藤清正ら武断派が、石田三成の大坂屋敷を襲撃する事件を起こします。

この事件は、五大老筆頭の「徳川家康」(とくがわいえやす)によって収束することとなりましたが、これをきっかけに石田三成は、徳川家康から蟄居を言い渡され、豊臣政権から追放。

結果的に武断派と文治派の抗争をより強めてしまったのです。このような経緯で福島正則は、石田三成を失脚させた徳川家康に心を許すようになり、武断派の武将は徳川派閥として「東軍」に与することとなりました。

1600年(慶長5年)、福島正則は徳川家康の「会津征伐」(あいづせいばつ)に従軍します。これに合わせて石田三成らの「西軍」が挙兵。この知らせを受け、徳川家康は東軍諸将と協議を開き、この席で諸将に先んじて西軍と対決することを主張したのが、福島正則でした。

こうして福島正則は徳川家康から東軍先鋒を任され、東軍主力部隊を率いて西進することとなったのです。

道中で、福島正則隊は「竹ヶ鼻城」(たけがはなじょう)を陥落させます。そのあと夜を徹して七曲登山道(ななまがりとざんどう)を上り、「池田輝政」(いけだてるまさ)率いる部隊と先陣争いを繰り広げながら、東軍主力は難攻不落と言われた「岐阜城」(ぎふじょう)を1日で攻め落としました。

そして、9月15日に「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)を迎えた福島正則は、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)率いる約1万7,000の軍勢と最前線で激突。約6,000人の福島隊は宇喜多隊に苦戦するものの、粘り強さを見せて熾烈な攻防戦を繰り広げました。そして、西軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が東軍へ寝返り、宇喜多隊への攻撃に加勢したことで東軍主力の勝利が確定したのです。

こうして福島正則は、関ヶ原の戦いにおいて、開戦直後から終結まで最前線を駆け抜け、東軍勝利に貢献しました。

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改易された福島正則

関ヶ原の戦いの功労者がなぜ?

関ヶ原の戦いのあと、福島正則は徳川家康から安芸国広島(あきのくにひろしま:現在の広島県広島市)と備後国鞆(びんごのくにとも:現在の広島県福山市)49万8,300石を与えられます。大幅な加増となった福島正則は、領主として国の整備を行ない、殖産興業を奨励して領内の発展に努めるなど、「広島藩」(ひろしまはん)の基礎を築きました。

そんななか、江戸幕府によって「天下普請」(てんかぶしん:全国の諸大名に命じられた築城などの土木工事)の命が下ります。1606年(慶長11年)の「江戸城」(えどじょう)をはじめ、次々と命じられる普請に福島正則も参加していました。

1610年(慶長15年)の「名古屋城」(なごやじょう)普請中、共に参加していた池田輝政に、福島正則が「徳川家康の婿殿として、普請が多過ぎると直訴して欲しい」と愚痴をこぼす一面も。この福島正則の言葉に、盟友の加藤清正は「そんなに普請が嫌なら国に帰って謀反の準備をしろ!」と叱咤したと言われているのです。

しかし、この翌年の1611年(慶長16年)に加藤清正は亡くなり、さらに2年後の1613年(慶長18年)には池田輝政も急死。福島正則の同志である豊臣秀吉子飼いの武断派が、相次いで謎の死を遂げることとなりました。一説には、「豊臣家」(とよとみけ)の再興を恐れた徳川家康による毒殺ではないかと言われています。

そして1614年(慶長19年)、徳川家康が豊臣家を滅ぼすために「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)を起こします。このときの福島正則は、残された豊臣恩顧の大名として複雑な気持ちを抱えていました。

合戦に先立って豊臣秀頼を説得するため「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)への派遣を申し出るも、徳川家康はもちろん許可を出しません。さらに幕府軍に従軍することも許さず、福島正則に江戸留守居役を命じます。徳川家康は、福島正則が豊臣軍に与することを恐れていたのです。

こうして、1615年(元和元年)に「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)で豊臣家を滅ぼし、「徳川家」(とくがわけ)の天下を世に知らしめたあと、徳川家康は1616年(元和2年)に亡くなりました。

広島城

広島城

徳川家康がこの世を去った翌年の1617年(元和3年)、福島正則は広島の洪水による被害に悩まされていました。

破損した「広島城」(ひろしまじょう)の修築要請を幕府に願い出るものの、待てど暮らせど許可が下りません。

武家諸法度」(ぶけしょはっと)により、城の無断修築は禁じられていましたが、福島正則は許可を待たずに修築に取り掛かることにしました。

しかし、この行動が災いとなり、1619年(元和5年)に、福島正則は幕府から無断修築を咎められ、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)によって領地の没収を命じられてしまうのです。

こうして、福島正則は安芸・備後49万8,300石から越後国魚沼(えちごのくにうおぬま:現在の新潟県南部)4万5,000石への大幅な減転封となり、移封後に隠居。さらに、隠居後に家督を継いだ嫡男「福島忠勝」(ふくしまただかつ)が早世する事態となり、福島正則は幕府に2万5,000石を返上します。

このようにして、豊臣家の人間として警戒されていた福島正則は、関ヶ原の戦い以降、波乱に満ちた晩年を過ごしながら、1624年(寛永元年)に64歳の人生に幕を閉じました。

東軍 福島正則

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