関ヶ原の戦いを知る

関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧

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天下人「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の死後、政権掌握に向かって動き出した「徳川家康」(とくがわいえやす)と、それに対抗する「石田三成」(いしだみつなり)の勢力によって引き起こされた「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。
1600年(慶長5年)9月15日に行なわれた決戦は、現在の岐阜県西美濃地域に位置する関ケ原町を舞台に、徳川家康率いる「東軍」と石田三成率いる「西軍」が死闘を繰り広げ、「天下分け目の戦い」として語り継がれるようになりました。
総勢15万人以上が参戦した関ヶ原の戦いには、一体どのような武将が参戦していたのでしょうか。東軍・西軍を率いた2人と共に、両軍で活躍した主な武将をご紹介しましょう。

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あの名将が激突!?東西に分かれた武将達

東軍・西軍の成り立ちとは?

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1598年(慶長3年)に「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が亡くなると、家督を継いだ幼い「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を、五大老・五奉行の体制で支えていくこととなりました。

このとき、五大老の筆頭「徳川家康」(とくがわいえやす)は、禁止されていた婚姻政策を実行するなど、着々と政権掌握への道を構築。

同じく大老を務めていた「前田利家」(まえだとしいえ)や、五奉行の筆頭「石田三成」(いしだみつなり)は、この徳川家康の行動に反発し、諸大名を巻き込んで騒動へ発展することに。

その後、五大老・五奉行の間で誓約が交わされ、事態は一旦収束へと向かいました。

しかし、まだ豊臣政権は、軍務を担っていた「武断派」(ぶだんは)と、政務を担っていた「文治派」(ぶんちは)の対立という問題を抱えていたのです。

武断派には、豊臣秀吉子飼いの七将である「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「池田輝政」(いけだてるまさ)、「黒田長政」(くろだながまさ)、「浅野幸長」(あさのよしなが)、「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「細川忠興」(ほそかわただおき)がおり、武功を挙げずに成り上がった文治派の石田三成に強く反感を抱いていました。

そこで、文治派による政権運営に不満を持つ武断派は、五大老・徳川家康に接近。さらに、1599年(慶長4年)に二派の仲裁役であった前田利家が亡くなると、派閥抗争は一気に激化します。

徳川家康もこれに乗じて権力を強め、「武断派七将」による「石田三成襲撃事件」をきっかけに、徳川派と反徳川派の抗争が勃発。こうして、武断派の武将をはじめとする徳川派の「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川派の「西軍」が成立し、天下分け目の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)へと発展したのです。

東軍対西軍の武将一覧

天下を取った!徳川家康率いる東軍の武将

徳川家康
徳川家康

徳川家康

徳川家康は、豊臣秀吉から政権を支えるよう任されていた五大老の筆頭。

来る戦いに備えて諸将や諸大名と良好な関係を築き上げ、優れた統率力と人間力で、東軍を統制。

関ヶ原の戦いで勝利し、戦国の世に終止符を打ち、天下人となりました。

  • 徳川家康のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

井伊直政
井伊直政

井伊直政

井伊直政」(いいなおまさ)は「徳川四天王」のひとりで、甲冑などの武具を赤で統一する「赤備え」の部隊を率いていたことから、「井伊の赤鬼」と呼ばれた猛将。

関ヶ原の戦いでは東軍の中心となり、開戦の口火を切った人物として知られています。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

本多忠勝
本多忠勝

本多忠勝

本多忠勝」(ほんだただかつ)は幼少期から徳川家康に仕え、徳川四天王のひとりとして多くの功績を残した猛将。

関ヶ原の戦いでは東軍に従軍し、現在も関ヶ原町には「本多忠勝陣跡」という史跡が残っています。

本多忠勝のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

福島正則
福島正則

福島正則

福島正則は、武断派七将の代表格。

石田三成襲撃事件を起こしたあと、関ヶ原の戦いでは東軍の先陣として西軍主力部隊と激突し、混戦の末に勝利を掴み取りました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

黒田官兵衛
黒田官兵衛

黒田官兵衛

黒田官兵衛」(くろだかんべえ)は、豊臣秀吉を天下人へと導いた天才軍師。

また、築城の腕も評価されており、戦で重要な拠点となる城作りに才能を発揮しています。

関ヶ原の戦いでは、息子の黒田長政が東軍で出陣するなか、九州で西軍の「大友義統」(おおともよしむね)を滅ぼすなど、戦功を挙げました。

  • 黒田官兵衛のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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黒田長政
黒田長政

黒田長政

黒田長政は武断派七将のひとりで、徳川家康の養女「栄姫」(えいひめ)を娶り、徳川派の筆頭として活躍した武将。

関ヶ原の戦いでは東軍に従軍し、西軍へ猛攻を仕掛けて東軍勝利に大きく貢献しました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

加藤清正
加藤清正

加藤清正

加藤清正は武断派七将のひとりで、築城の名手としても知られる武将。

石田三成襲撃事件を起こし、黒田官兵衛と共に九州の東軍主力として活躍しました。

  • 加藤清正のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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藤堂高虎
藤堂高虎

藤堂高虎

藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、徳川家康に仕えるまで、主君を次々と替えたことで知られる武将。

関ヶ原の戦いでは東軍への寝返りを調略しながら、本戦で西軍「大谷吉継」(おおたによしつぐ)と対決。

築城の名手としても高く評価され、徳川家康の最期を看取った人物でもあります。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

伊達政宗
伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗」(だてまさむね)は、「独眼竜」の異名で知られる奥州の武将。

豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近し、東軍として会津攻めに従軍。

北の関ヶ原と呼ばれる「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)で、東軍を勝利に導きました。

  • 伊達政宗のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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最上義光
最上義光」(もがみよしあき)は、「出羽の虎将」と呼ばれた伊達政宗の叔父。

北の関ヶ原こと慶長出羽合戦で、20,000余の上杉軍相手に7,000余の兵力で抗戦。見事、上杉軍を撃退し、戦後57万石の大大名となり「最上家」(もがみけ)を繁栄させました。

徳川秀忠
徳川秀忠

徳川秀忠

徳川秀忠」(とくがわひでただ)は、徳川家康の3男。

徳川家康本軍と別れて中山道を進む部隊を任された道中で、「上田合戦」(うえだかっせん)に苦戦した末、関ヶ原の戦いに合流しますが、天候に恵まれず遅参してしまうことに。

この失態から、父の徳川家康に面会を拒絶されるなどのエピソードもありましたが、のちに江戸幕府2代将軍として徳川家康の後継者となりました。

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本多正信
本多正信」(ほんだまさのぶ)は、徳川家康との関係を「水魚の交わり」(欠かせない存在)と称された智将。

徳川秀忠軍に従軍し、上田合戦に苦戦したため関ヶ原の戦いに遅参。戦後、徳川政権を支える重臣となりました。

榊原康政
榊原康政

榊原康政

榊原康政」(さかきばらやすまさ)は、徳川四天王のひとりとして、生涯に亘って徳川家康を支えた功臣。

徳川秀忠軍に軍監として従軍し、上田合戦に参戦したことで関ヶ原の戦いに遅参しました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

敗因は主導者の力不足?石田三成率いる西軍の武将

石田三成
石田三成

石田三成

石田三成は、豊臣政権「五奉行」のひとりで、文治派として西軍を主導した武将。

諸将から無遠慮を意味する「へいくわい者」と呼ばれ、人徳がなかったと言われています。

関ヶ原の戦いに敗戦し、敗走の際に捕らえられ、京都の六条河原で斬首されました。

  • 石田三成のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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戦国武将「石田三成」 YouTube動画

戦国武将「石田三成」

毛利輝元
毛利輝元

毛利輝元

毛利輝元」(もうりてるもと)は、豊臣政権五大老のひとり。

石田三成をはじめとする文治派から祭り上げられ、西軍総大将となることに。

しかし、本戦開戦後も大坂城から出陣せず、名ばかりの大将として敗戦。

戦後は、領地の大部分を減封されました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

宇喜多秀家
宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、豊臣政権五大老のひとり。

関ヶ原の戦いでは西軍副大将を任され、西軍最大の17,000人の軍勢を率いて福島正則隊と激戦を繰り広げました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

島津義弘
島津義弘

島津義弘

島津義弘」(しまづよしひろ)は、「鬼島津」の異名で恐れられた戦国時代屈指の猛将。

関ヶ原の戦い前に東軍から西軍へ寝返るも、石田三成の出陣要請に応じることなく両軍の戦いを傍観。

西軍が敗走を始めると「捨て奸」(すでがまり)と呼ばれる戦法で敵中突破を図ります。この退却戦は「島津の退き口」として語り継がれるようになりました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

小西行長
「小西行長」(こにしゆきなが)は、「アウグスティヌス」の洗礼名を持つキリシタン大名。水軍を率いる船奉行として出世した文治派で、加藤清正と九州で対決し、居城の宇土城を攻め落とされました。
大谷吉継
大谷吉継

大谷吉継

大谷吉継は、盟友・石田三成の「打倒徳川」の強い意志に打たれ、敗戦を覚悟しながら西軍に与した「義」の武将。

関ヶ原の戦いでは、病による失明状態で輿に担がれて奮戦し、戦場で自害するという最期を迎えました。

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島左近
島左近

島左近

島左近」(しまさこん)は、石田三成の重臣。

関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる「杭瀬川の戦い」(くいせがわのたたかい)で東軍に勝利し、本戦での猛攻が語り継がれるなど、西軍における猛将として知られています。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

真田昌幸
真田昌幸

真田昌幸

真田昌幸」(さなだまさゆき)は、徳川の大軍を2度も撃退した戦国時代屈指の智将。

次男の「真田幸村[真田信繁]」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])と共に西軍に与しましたが、「真田家」(さなだけ)の存続をかけて長男の「真田信之」(さなだのぶゆき)は東軍に送り、この戦いで父子訣別を決意しました。

上杉景勝
上杉景勝

上杉景勝

上杉景勝」(うえすぎかげかつ)は、豊臣政権五大老のひとりで、「軍神」と称された「上杉謙信」(うえすぎけんしん)の跡継ぎ。

徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いの幕開けとなる「会津征伐」(あいづせいばつ)を引き起こすことに。

奥州で東軍の伊達政宗・最上義光に対抗するも、西軍の敗退を知り撤退となりました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

安国寺恵瓊
「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)は、「織田信長」(おだのぶなが)の死を予言した僧侶で、毛利氏の外交僧として力を付け、豊臣大名にも列せられた異例な人物。

関ヶ原の戦いでは、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将に担ぎ上げ、敗戦後に石田三成と共に斬首されました。

立花宗茂
立花宗茂

立花宗茂

立花宗茂」(たちばなむねしげ)は、豊臣秀吉に「西の立花宗茂」と評されていた勇将。

関ヶ原の戦いに向かう際に、大津城で東軍「京極高次」(きょうごくたかつぐ)と対戦。城を攻め落とすも、本戦には遅参し西軍は敗退。

戦後に改易されましたが、のちに旧領を回復し大名に返り咲きました。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

直江兼続
直江兼続

直江兼続

直江兼続」(なおえかねつぐ)は上杉景勝の家老で、「智勇兼備」と称えられた武将。

豊臣秀吉の死後、「徳川家」(とくがわけ)と「上杉家」(うえすぎけ)が対立するなか、直江兼続が徳川家に送った「直江状」と呼ばれる書簡がきっかけで会津征伐が起こることに。

これが関ヶ原の戦いの遠因になったとも言われています。

  • 直江兼続のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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佐竹義重
「佐竹義重」(さたけよししげ)は、敵7人を一度に斬り付けたことから「鬼義重」と呼ばれた関東の猛将。

関ヶ原の戦いでは東軍に従う意志を見せるも、嫡子「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)が反対して西軍に付いたことから改易の危機に。

戦後、外交力を駆使して徳川家康に釈明したことで「佐竹家」(さたけけ)を存続させました。

関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧

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