関ヶ原の戦いを知る

関ヶ原の戦いを動かした裏切り

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「天下分け目の戦い」と言われる「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)において、忘れてはならない人物と言えば、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)、「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「朽木元綱」(くつきもとつな)など、西軍から東軍へ寝返った武将達です。
西軍として軍を配置していたにもかかわらず、なぜ東軍へ寝返ったのか。その背景と武将達の人物像に迫ります。

なぜ小早川秀秋は西軍を裏切ったのか

小早川秀秋

小早川秀秋

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、数多くの有力武将が登場し、それぞれが活躍しますが、勝敗の分かれ目を作り出した人物と言えば「小早川秀秋」(こばやかわひであき)です。

小早川秀秋が西軍を裏切った理由については諸説ありますが、はじめにその複雑すぎる生い立ちをご紹介します。

小早川秀秋は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の正室「ねね」(北政所[きたのまんどころ])の兄「木下家定」(きのしたいえさだ)の五男として誕生しました。数え年4歳のとき、子どもに恵まれなかった豊臣秀吉の養子となってからは、豊臣秀吉とねねに溺愛されて育ちます。

そのため、当時は周囲からも「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)に次ぐ後継者と見なされていましたが、豊臣秀吉に実子の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生すると、状況は一変。小早川秀秋は、他家へ養子に出されることになるのです。

養子先の候補には、中国地方9ヵ国を支配下に置いていた「毛利輝元」(もうりてるもと)の名もありました。しかしその裏には、同時に毛利を手中におさめようとする豊臣秀吉の企みがあったと言われています。

毛利輝元の叔父で分家筋の「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)は、その魂胆を見抜き、毛利輝元に代わり小早川秀秋を自分の養子にすると申し出ることで豊臣秀吉の企みを阻止。「小早川家」(こばやかわけ)の養子となった小早川秀秋は、1595年(文禄4年)に家督を譲り受け、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県北西部)30万7,000石の大名となります。

そして、関ヶ原の戦いにつながる2度目の朝鮮出兵「慶長の役」(けいちょうのえき)で、小早川秀秋は弱冠16歳ながら日本軍の総大将として指揮を執ることになりました。戦場では、苦戦を強いられていた「加藤清正」(かとうきよまさ)らの軍を救援しようと奮起し、本拠の釜山を離れて「蔚山城」(うるさんじょう)で自ら先陣を斬ります。

この戦いは、小早川秀秋にとって初陣となる戦いでした。勇敢な戦いぶりを見せたことで、豊臣秀吉から褒められるかと思いきや、武将達の監視役だった「石田三成」(いしだみつなり)に「総大将の立場を理解していない」と切り捨てられた挙句、豊臣秀吉からは叱られ、さらに越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北部)北ノ庄15万石に減封されてしまいます。

豊臣秀吉が没したのち、小早川秀秋に近付いたのが「徳川家康」(とくがわいえやす)でした。小早川秀秋は、徳川家康ら五大老によって筑前国と筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南西部)の復領が決定。さらに所領高も59万石に増加されますが、これがのちに起きる関ヶ原の戦いの命運を決定付けることになります。

関ヶ原の戦いにおける西軍の総大将は、毛利輝元です。そのため、「毛利家」(もうりけ)の分家である小早川家が西軍に就くのは自然なことでしたが、小早川秀秋本人は毛利家とは血の繋がりがなく、忠義心もありません。一方で、元々は「豊臣家」(とよとみけ)の血筋であるため、豊臣家を救うなら西軍に加勢すべきことは理解していました。

さらに、西軍の将・石田三成からは西軍が勝利すれば豊臣秀頼が成人を迎えるまでの間は、関白を任せるという厚遇を持ちかけられていましたが、石田三成は小早川秀秋が減封されるきっかけを作り出した人物です。

反対に東軍総大将の徳川家康は、小早川秀秋を復領させただけではなく、所領高の大幅な加増まで叶えてくれました。また、育ての親であるねね(北政所)からも「必ず内府殿[徳川家康]に内応せよ」と助言をされていたのです。

1600年(慶長5年)、小早川秀秋は東軍と西軍の間で板ばさみ状態となったまま、関ヶ原の戦いを迎えることになります。松尾山に着陣した時点で、どちらに付くか明確にしていませんでした。そして、中立の立場を取っていたことで、東西両軍から「こちらの軍に就け」という「起請文」(きしょうもん)が届けられ、意思決定を迫られます。両軍が小早川秀秋に執着した理由は、小早川秀秋が1万5,000の大軍を率いていたため。合戦の勝敗が小早川秀秋の動向によって決まることは明白でした。

戦いは、東軍の「井伊直政」(いいなおまさ)が西軍の「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)率いる軍勢目掛けて鉄砲を撃ち込んだことで開始。しかし、肝心の小早川秀秋はなかなか動きません。痺れを切らした徳川家康が小早川秀秋のいる松尾山に向かって「問鉄砲」(といでっぽう)を撃ち、これに驚いた小早川軍が西軍に攻撃を開始したというのが通説です。一方で別の記録では「小早川秀秋は、開戦と同時に徳川家康方についた」と記された物もあり、どの史料が正確なのかは定かになっていません。

なお、小早川秀秋が東軍に就いた理由は諸説ありますが、小早川家の重臣「稲葉正成」(いなばまさなり)と「平岡頼勝」(ひらおかよりかつ)が徳川家康派であったことや、「黒田長政」(くろだながまさ)が東軍への加担を勧めていたことが、東軍に就いた一因と見られています。

小早川秀秋が寝返ったことで西軍諸将が呼応し、松尾山の北側付近に陣を取っていた「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「朽木元綱」(くつきもとつな)らも「大谷吉継」(おおたによしつぐ)軍の側面に襲いかかりました。これがきっかけとなって戦局は一変し、東軍の勝利が決定的になります。

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なぜ脇坂安治は西軍を裏切ったのか

脇坂安治

脇坂安治

関ヶ原の戦いでは、西軍から東軍へ寝返ったにもかかわらず、同様に寝返った小川祐忠、赤座直保、朽木元綱とは異なり、裏切者とみなされず所領を安堵されたのが脇坂安治です。

脇坂安治は、急変する権力争いの行方を見定め、その下で実力を発揮して存在を示す才能がありました。

どのような局面に出会っても時代の波をうまく乗り切ることができたおかげで、「脇坂家」(わきざかけ)は譜代大名として幕末時代まで続いたのです。

脇坂安治は、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)浅井郡(あざいぐん)の出身で「明智光秀」(あけちみつひで)に従っていましたが、1569年(永禄12年)頃から豊臣秀吉に仕えます。「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)における「小谷城攻め」(おだにじょうぜめ)や、「中国攻め」(ちゅうごくぜめ)における「別所氏」(べっしょし)の「播磨三木城攻め」(はりまみきじょうぜめ)の他、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられるほどの活躍をみせ、そのあとも順調に出世。

豊臣秀吉の九州平定戦では、先鋒として「豊後国」(ぶんごのくに:現在の大分県)に渡り、「戸次川の戦い」(べつきがわのたたかい)に加わります。また、「小田原の役」(おだわらのえき)や「文禄の役」(ぶんろくのえき)でも水軍の将として参陣。小田原の役では、「伊豆国」(いずのくに:現在の静岡県南部と東京都伊豆諸島)「下田城」(しもだじょう)を攻略したことで、豊臣秀吉から大きな信頼を得ました。

豊臣秀吉の死後、徳川家康と「前田利家」(まえだとしいえ)が対立すると、徳川家康に加担する姿勢を見せます。「会津征伐」(あいづせいばつ)の際には、次男で嫡子の「脇坂安元」(わきざかやすもと)を徳川家康のもとへ送ろうとしますが、石田三成に阻まれて合流することができませんでした。徳川家康にその事情を伝えると、石田三成との戦いに備え、「洲本城」(すもとじょう)の防備を固めるように指示されます。

関ヶ原の戦いでは、西軍に属しながらも、事前に「藤堂高虎」(とうどうたかとら)を通じて西軍から東軍へ寝返る算段が付いていたため、当日は東軍「福島正則」(ふくしままさのり)隊を前にしても軍を動かすことはありませんでした。正午過ぎ、小早川秀秋が東軍に就いたことをきっかけとして小川祐忠、赤座直保、朽木元綱隊と共に、西軍の「戸田重政」(とだしげまさ)、「平塚為広」(ひらつかためひろ)隊を襲撃。

戦後は「伊予国」(いよのくに:現在の愛媛県)大洲(おおず)を与えられ、5万3,500石を領しています。

なぜ小川祐忠は西軍を裏切ったのか

小川祐忠

小川祐忠

小川祐忠の「小川家」(おがわけ)は、近江国の国人衆で「応仁の乱」(おうにんのらん)のあとに主家「六角家」(ろっかくけ)が築いた「佐和山城」(さわやまじょう)を任されていましたが、勢力を強めた「浅井氏」(あざいし)により城を追われ、小川祐忠の代ではそのまま「浅井家」(あざいけ)に従属していました。

浅井長政」(あざいながまさ)が義理の兄「織田信長」(おだのぶなが)を裏切ると、小川祐忠もそれに従い、居城である「小川城」(おがわじょう)に立てこもっていましたが、人質を織田信長に差し出して降伏。織田信長に許されたあとは旗本となり、「安土城」(あづちじょう)築城の折には瓦奉行にもなっています。

そののち、織田信長が「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で討たれると、今度は明智光秀に加担。「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)では、敗北したことで降伏し、戦後の「清州会議」(きよすかいぎ)で北近江が「柴田勝家」(しばたかついえ)の傘下に置かれると、柴田勝家の養子「柴田勝豊」(しばたかつとよ)の家老として仕えます。

しかし、柴田勝家に冷遇されていた柴田勝豊は、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に寝返り、小川祐忠は主家である柴田家と対立してしまうのです。柴田勝豊が没したあとは、豊臣秀吉の直臣として仕え、小田原の役や文禄の役、慶長の役などで存在感を示し、伊予国今治7万石を領有するなど豊臣政権で厚遇されました。

関ヶ原の戦いでは、西軍に属しておきながらも小早川秀秋の寝返りをきっかけに大谷吉継の軍を急襲。薙刀(なぎなた)の使い手として知られた大谷軍・平塚為広を討ち取るなど、すさまじい戦いぶりをみせましたが、戦後処理で小川家は改易(かいえき:武士の身分を剝奪し、領地・家屋敷などを没収する刑)されました。

改易の理由は、事前に寝返ることを明らかにしていなかったためか、あるいは領内で悪政を敷いていた嫡子「小川祐滋」(おがわすけしげ)が石田三成と通じていたためなど諸説あります。

そののち、小川祐忠は京に隠棲し(武士をやめて帰農したとも言われる)、52歳で没したというのが通説です。

なぜ赤座直保は西軍を裏切ったのか

赤座直保

赤座直保

赤座直保は、豊臣秀吉の家臣。小田原の役の折に武蔵国(むさしのくに:現在の埼玉県、東京都全域、神奈川県の一部)「岩槻城」(いわつきじょう)、「忍城」(おしじょう)の攻防戦での働きぶりから2万石を賜るなど、戦国大名として着実に名を挙げていました。

豊臣秀吉の死後は、「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)が越前国「府中城」(ふちゅうじょう)に入ったとき、その与力となることを五大老から命じられています。

関ヶ原の戦いでは、西軍の大谷吉継隊と行動を共にしていましたが、小早川秀秋隊の裏切りをきっかけに同調し、大谷吉継隊に斬り込んで西軍の敗北を決定的にしました。史料が見られないため、寝返った理由については明らかになっていません。ただし、一説によると赤座直保は小早川秀秋と以前からよしみがあったことから、行動を同じくしたのではとも言われています。

事前に東軍へ与する意思を表していなかったことで、戦後は裏切り者として徳川家康からも見放され、所領も没収。のちに、「前田利長」(まえだとしなが)の家臣となりましたが、越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)大門川の増水を見に行った際に誤って落馬し、川に転落。そのまま溺死するという不運な最期を迎えます。

なぜ朽木元綱は西軍を裏切ったのか

朽木元綱

朽木元綱

朽木元綱は、近江国の名門「佐々木源氏」(ささきげんじ)の出身で室町幕府の御料所である朽木谷を領していました。

この地は、京に近い交通の要衝であり、「足利義晴」(あしかがよしはる)や「足利義輝」(あしかがよしてる)の避難所にもなった重要な場所。

近江国に侵攻してきた浅井長政に人質を差し出して降伏しましたが、織田信長が「朝倉攻め」(あさくらぜめ)を行なった際には、京都撤退を助け、織田信長からの信任を得ました。

織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕えます。関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応して大谷吉継と共に関ヶ原に出陣し、中山道を抑えました。しかし、合戦途中で徳川家康に書を送り内応を約束すると、西軍の大谷吉継隊に攻め込みます。

戦後は、9,590石に減封されましたが、のちに返還されました。

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