関ヶ原の戦いを知る

関ヶ原の戦いがあった場所とは

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「天下分け目の戦い」とも言われ、日本史の大きな転換点になった「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。関ヶ原の戦いとは、1600年(慶長5年)に、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で起こった「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「石田三成」(いしだみつなり)・「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が争った戦いです。
なぜ、日本の一大決戦が関ケ原で行なわれたのでしょうか。関ケ原とはどんな場所なのか、その歴史と環境をご紹介します。

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2つの天下分け目の戦いが起こった関ヶ原

壬申の乱

実は関ヶ原では、日本の歴史上でもうひとつの「天下分け目の戦い」が飛鳥時代に起こりました。

それは672年(弘文天皇元年/天武天皇元年)のこと。「大化の改新」(たいかのかいしん)で名高い「天智天皇」(てんちてんのう)の子「大友皇子」(おおとものおうじ)と、天智天皇の弟「大海人皇子」(おおあまのおうじ)が皇位継承を巡って激戦を繰り広げた「壬申の乱」(じんしんのらん)です。

天智天皇が亡くなったあと、一度は天智天皇に深く愛されていた息子の大友皇子が天皇の座につき、「弘文天皇」(こうぶんてんのう)となります。

しかし、天智天皇の時代に皇太子として活躍していた大海人皇子が豪族を味方に付けて反乱を起こし、壬申の乱が勃発。

この日本古代最大の内乱とされる壬申の乱の勝者は大海人皇子で、翌673年(天武天皇2年)に、大海人皇子は「天武天皇」(てんむてんのう)として即位しました。

天武天皇

天武天皇

天武天皇は、数々の政治改革を進めたことで知られています。

天皇家を中心に政治を行なう「皇親政治」(こうしんせいじ)を施行し、新しい身分制度「八色の姓」(やくさのかばね)を作りました。

さらに特筆すべきは、天武天皇が定めた「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはらりょう)が、その後の律令制度の基礎になっていることです。

天智天皇の跡継ぎ争いに端を発した壬申の乱ですが、互いの兵数が20,000~30,000にも及ぶ大軍であったことや、天武天皇がその後、日本の歴史に影響を与える多くの政策を打ち出したことを考えると、壬申の乱は、まさに天下分け目の戦いと言えます。

日本最大の内乱・壬申の乱と戦国最大の戦い「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)の勝者が、もし入れ替わっていたら、現代の日本は違う姿になっていたかもしれません。それほどに、この2つの天下分け目の戦いは大きな意味を持っていたと歴史の専門家は語ります。

関ヶ原は今も昔も交通の要衝

壬申の乱の鍵を握った不破の道

ではなぜ、2つの天下分け目の戦いが、同じ関ヶ原で起こったのでしょうか。「関ヶ原」という場所が持つ特徴をご紹介しましょう。

天智天皇は、667年(天智天皇6年)、都を飛鳥(現在の奈良県)から現在の滋賀県大津市に遷し、「近江大津宮」(おうみおおつのみや)を作ります。それから672年(天武天皇元年)の壬申の乱による廃都までの5年余りは、近江に朝廷が置かれました。

この近江への遷都からしばらくすると、壬申の乱への火種が生まれます。晩年の天智天皇は、実弟の大海人皇子を皇太子に定めていたにもかかわらず、自身の皇子である大友皇子を後継にしたい意思を見せ始めていました。そんな状況に身の危険を感じた大海人皇子は、大友皇子を皇太子に推挙し、自身は出家を申し出て「吉野宮」(現在の奈良県吉野町)に下るのです。

しかし、天智天皇が崩御すると、大海人皇子は一転、近江朝廷に牙をむく覚悟を決めます。そして、近江朝廷の東隣りの地域にあたる伊勢や熊野(現在の三重県)、そして美濃(現在の岐阜県南部)などの豪族を味方に付け、伊勢から美濃へ入り、東国の兵力をいち早く集めて近江朝廷に対して挙兵したのです。

不破の道

不破の道

このとき、鍵を握ったのが「不破の道」です。

北を伊吹山のある伊吹山地、南を養老・鈴鹿山地に挟まれた峡谷で、西側には高さ10mほどの断崖を持つ河川「関の藤川」(藤古川)があり、西側から尾張(現在の愛知県東部)、美濃といった東国に抜けるには、必ずこの不破の道を通ることになります。

そこで大海人皇子は、いち早く美濃の安八磨郡(あはちまのこおり:現在の岐阜県安八郡)にいた大海人皇子側の役人「多品時治」(おおのほんじ)に連絡を取り、美濃で約3,000人の兵を集め、不破の道を塞ぐ作戦に出たのです。

これにより、大友皇子の東国における使者の行動を阻むことに成功。東国の兵力を一気に集めることができた大海人皇子軍は、優位に立つことができました。

関東、関西の呼称は不破の関から?

この壬申の乱の頃までは、関ヶ原の地名は文献に出てきません。では、関ヶ原という地名はいつ生まれたのでしょうか。

一説には、「関所」のある「原っぱ」が関ヶ原の名の由来だとされています。天武天皇は、壬申の乱の翌年にあたる673年(天武天皇2年)、新たな天下の変乱が起こらないように、この地に関所を置き、通行人を取り締まる政策を打ち出しました。

これが、古代の日本三大関所のひとつに数えられる「不破の関」です。そののち、世の中が鎮まり、その必要性がなくなったとして、789年(延暦8年)に取り壊され、現在は「不破の関所跡」として残されています。

もうひとつ興味深いのが、不破の関が作られたのを境に、「関東」・「関西」の呼称が使われるようになったと言われていること。つまり、関から東が関東で、関から西が関西です。このことからも、関ヶ原が東西をつなぐ重要な交通の要衝であったことが窺えます。

宿場町として栄えた関ヶ原宿と今須宿

五街道

五街道

江戸時代には、江戸と京都を結ぶ中山道69宿のうち、「関ヶ原宿」と「今須宿」の2つの宿場が関ヶ原にはありました。

関ヶ原宿は、現在のJR関ヶ原駅周辺にあった宿場で、中山道六十九次の中でも有数の宿場町として知られた場所です。

中山道は、江戸時代に栄えた5街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)のひとつで、古くは東国を結ぶ「東山道」と称されました。東海道と並び、江戸の日本橋と京の三条大橋を結ぶ、山地側の主要街道です。

東海道53宿よりも宿場数が多いのは、険しい山道を越える旅人に対して配慮したと考えられています。

また、北陸方面に向かう「北国街道」と伊勢方面に向かう「伊勢街道」の分岐点でもあり、まさに交通の要衝として栄えていたのです。現在は、その本陣(参勤交代の際に大名が宿泊する施設)跡に、中山道中唯一の松並木が残っています。

一方の今須宿は、美濃と近江の国境にあった宿場です。そのため、2つの国境を挟んで建つ旅籠屋があり、その壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたことから、「寝物語」の言い伝えが残されました。

また江戸時代、宿場で最も重要な施設とされた「問屋場」(といやば)が現存しています。問屋場は、宿場の最高責任者である問屋(といや)やその補佐役などが詰め、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に必要な人足や馬を用意しておき、次の宿場まで彼らの荷物を運ぶ役割などを担っていた施設です。

今須宿に当時の姿のまま残る問屋場は、非常に貴重な建物とされています。

関ヶ原の自然

自然の神秘と造形美に出会える関ヶ原

ホタルの乱舞

ホタルの乱舞

関ヶ原はまた、四季折々の風情が楽しめる、非常に自然豊かな場所です。

その豊かな自然環境を象徴するひとつが、関ヶ原町藤古川周辺で初夏になると観られる、ホタルの幻想的な光の乱舞。「関ヶ原かるた」には、その情景を詠んだ札があります。

6月中旬からゲンジボタルが観られ、多いときには数百匹のホタルが一斉に乱舞を始めるほどです。

鑑賞は、不破の関跡や藤古川の名神高速道路高架下、東海道新幹線ガード付近などででき、ときには新幹線との光のコラボレーションを楽しめると話題になっています。

また、年間を通じて温度約15℃を保ち、夏は涼しく、冬は暖かい「関ヶ原鍾乳洞」。全長518mの洞内には、何万年もの月日をかけて鍾乳石と石筍(せきじゅん)がつながった「巨人の足」や、龍が天に昇るようにも観える、天井まで10mの「昇竜の間」などがあり、自然の造形美に驚くばかりです。

湧き出る清水で泳ぐニジマスの群れは、豊かな自然が育んだ命の美しさを感じさせてくれます。

関ヶ原の雪と戦う東海道新幹線

関ヶ原の戦いから400年をはるかに超える年月が過ぎた現代。実は冬になるとある熱い戦いが関ヶ原を舞台に繰り広げられています。東海道新幹線をよく利用する人には知られたことですが、東海道新幹線は長年、関ヶ原の雪と戦い続けているのです。

「伊吹おろし」と呼ばれる日本海の若狭湾から伊吹山地を経て吹き込む季節風により、関ヶ原の冬は厳しく、雪が降りやすく積もりやすい豪雪地帯となっています。

新幹線への散水

新幹線への散水

1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開業した当初は、関ヶ原の雪がこれほど問題になるとは予想できませんでした。

開業後、初めての冬を迎えた1965年(昭和40年)に、高速の超特急であるがゆえの現象が起きたのです。

新幹線車両が積雪のある線路を通ると多量の雪が舞い上がり、車両に付着。そして、それが氷の塊となり、降雪地帯を過ぎたあたりで溶けて車両から落下します。

その勢いは、線路の敷石を撥ね飛ばすほどで、周辺に被害を及ぼす事態が発生したのです。

そのため、東海道新幹線は、降雪があると速度を落として運転せざるを得ず、一時期は、「雪に弱い新幹線」という不名誉なネーミングが付いてしまったこともあります。

もちろん、様々な対策が講じられたのは言うまでもありません。その中で雪の舞い上がりに最も効果的だったのが「散水」でした。スプリンクラーで新幹線に向かって水を撒き、雪の舞い上がりを抑えるのです。

現在、東海道新幹線の米原~関ヶ原間の68.5kmに亘る線路脇には、水を強力に撒くスプリンクラーが設置されています。積雪時に東海道新幹線に乗ると、関ヶ原のあたりで窓に水しぶきが飛んでくることがあるのは、これを行なっているためです。

その他にも様々な対策が取られ、東海道新幹線は現在、関ヶ原の雪との戦いを何とか優位に進めています。そして、この東海道新幹線で得た教訓をもとに線路が建設された上越新幹線や北陸新幹線では、雪による影響がほとんどありません。東海道新幹線と関ヶ原の雪との戦いが新幹線の雪対策を大きく進化させたのです。

関ヶ原の戦いがあった場所とは

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