乱世を生きた武将の出家

寺院・僧の武装化

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現代の日本では、葬儀や法事、厄払いなど、特別な機会にしか寺院とかかわりを持たない人がほとんどです。しかし、飛鳥時代に百済(くだら:朝鮮半島南西部にあった国家)から仏教が伝来したときには国策に取り入れられ、人々の暮らし、あるいは心の拠り所となっていました。
そのため、寺院や僧侶は国に認められている立場にありましたが、あるときから武装し、争いを起こすようになっていくのです。ここでは、4つの寺院を例に挙げ、その背景にある理由を探っていきます。

比叡山延暦寺

比叡山延暦寺

比叡山延暦寺

平安時代初頭、804年(延暦23年)に唐(とう)に渡り、法華経を根本経典とする「天台宗」(てんだいしゅう)を学んで帰国した「最澄」(さいちょう)。

彼によって創設された「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ)は、平安時代中期には武装して大きな力を持ち、しばしば、時の権力者と対立してきたのです。

平安時代:朝廷への強訴

神輿を担いで強訴をする様子

神輿を担いで強訴をする様子

平安時代中期になり、巨大な荘園を持つようになった大寺院は、寺領を守るために武装します。

自分達に都合の悪い問題が生じると、京都に押しかけて朝廷に直接訴える「強訴」(ごうそ)を行なうようになりました。

なかでも恐れられたのが、比叡山延暦寺の強訴。

「白河法皇」(しらかわほうおう)の言葉に「賀茂河の水、双六の賽、山法師[比叡山延暦寺の僧兵]、是ぞ我心に叶わぬもの」(現代語訳:京都を流れる鴨川の水害、サイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵、この3つが思う通りにならない)があります。

比叡山延暦寺の僧兵達は、「日吉大社」(ひよしたいしゃ)の神輿(みこし)を担いで入洛(じょうらく:京都に入ること)し、神威を笠に着て要求を通そうとしていたのです。

鹿ケ谷事件
1177年(安元3年/治承元年)に起きた「鹿ケ谷事件」(ししがたにじけん)のことの発端も、比叡山延暦寺の強訴でした。「後白河上皇」(ごしらかわじょうこう)の近臣であった「藤原師経」(ふじわらのもろつね)が、「白山寺」(はくさんじ)を焼いたことに激怒した比叡山延暦寺は、その処分を巡って、後白河上皇に強訴を行ないました。

後白河上皇は、この騒動を収拾するため、「平清盛」(たいらのきよもり)に比叡山延暦寺攻撃を命じましたが、平清盛が比叡山延暦寺に向けて出兵しようとした直前、「これは、平家打倒を企てる後白河上皇の陰謀である」と密告が入ります。

平清盛は、比叡山延暦寺に向かわせる予定だった兵を、陰謀の舞台である鹿ケ谷 (現・京都市左京区)に向かわせ、後白河上皇の重臣を殺害。そののち、後白河上皇を幽閉したのです。

鎌倉時代:討幕への協力

鎌倉時代末期の1324年(元亨4年)、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は比叡山延暦寺の僧兵らに協力をあおぎ、弱体化した幕府を討とうとする計画を立てます。しかし、「六波羅探題」(ろくはらたんだい:京都の六波羅に設置された鎌倉幕府の役職、及び出先機関。京都の警備や朝廷の監視などを行なった)が事前に察知し、失敗に終わってしまったのです。

「正中の変」(しょうちゅうのへん)と呼ばれたこの事件のあと、後醍醐天皇は自身の子「護良親王」(もりよししんのう/もりながしんのう)を比叡山延暦寺に送り、天台座主(ざす:天台宗のトップ)に就けます。

そして、1331年(元弘元年[南朝]/元徳3年)、後醍醐天皇は、護良親王を通じて比叡山延暦寺の僧兵や畿内の武士らを集め、「元弘の乱」(げんこうのらん)を起こしました。2度目の討幕計画でしたが、こちらも失敗し、後醍醐天皇は隠岐への流刑に処せられてしまったのです。

しかし、これによって討幕の流れが勢い付き、「足利高氏」(あしかがたかうじ)のちの「足利尊氏」(あしかがたかうじ)らが六波羅探題を滅ぼし、やがて鎌倉幕府は、終焉を迎えることになりました。

室町時代:6代将軍足利義教との抗争

室町幕府第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)は、15歳で得度(とくど:仏教において、出家して僧侶となること。また、そのための儀式)して26歳で天台座主となり、「天台開闢[かいびゃく:信仰の地として山を開き、初めて寺院などを建てること]以来の逸材」と呼ばれていました。しかし、還俗して将軍の地位に就くと、たびたび比叡山延暦寺と対立するようになります。

そして、1434年(永享6年)に、比叡山延暦寺が足利義教を呪詛している噂が立つと、足利義教は、比叡山延暦寺の僧を上洛させ斬首してしまったのです。これに反発した比叡山延暦寺の僧侶達は、「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)に火を放ち、焼身自殺しました。

戦国時代:日蓮宗との宗教一揆

天文年間(1532~1555年)になると、京都を席巻していた「日蓮宗」(にちれんしゅう)と他の宗派との間で、対立が起きるようになります。1536年(天文5年)には、日蓮宗からの呼びかけに、比叡山延暦寺の僧侶が応じる形で始まった「宗教問答」の勝敗を巡り、両者が激しく対立。最終的に、比叡山延暦寺が僧兵など約6万人を動員し、京都にあった日蓮宗の寺を、ことごとく焼き払いました。

戦国時代:織田信長の比叡山焼き討ち

炎上する比叡山

炎上する比叡山

1571年(元亀2年)には、「織田信長」(おだのぶなが)と対立した「朝倉義景」(あさくらよしかげ)、「浅井長政」(あざいながまさ)らが、比叡山延暦寺に逃げ込んでいます。

織田信長は比叡山延暦寺に対し、武装を解除して自分に味方するように要求しますが、比叡山延暦寺はこれを拒否。

武装した比叡山延暦寺の存在が天下統一の障害になると考えた織田信長は、比叡山に火を放ちました。

高野山金剛峯寺

高野山金剛峯寺

高野山金剛峯寺

804年(延暦23年)、遣唐使の留学僧として唐へ渡った「空海」(くうかい)。

「真言密教」(しんごんみっきょう)を学んで帰国し、「高野山金剛峯寺」(こうやさんこんごうぶじ)を開創(かいそう:初めてその寺を開くこと)しました。

同年の遣唐使船団4隻のうち、空海は第1船、最澄は第2船に乗っています。

最澄が開いた比叡山延暦寺ほどではありませんでしたが、この高野山金剛峯寺にもまた、武装の歴史があったのです。

平安時代後期:高野山内の内紛と分裂

高野山を始めとする大寺院の領内は、宗教的にはもちろん、政治、文化、経済、軍事の面でも独立した機能を持っていました。それは言わば、朝廷や幕府も容易に手出しできない宗教都市。ならず者が逃げ込んで来ることも多く、私利私欲にまみれた僧侶も少なくなかったようです。

平安時代後期の1134年(長承3年)、高野山金剛峯寺の座主に就任した「覚鑁和尚」(かくばんおしょう)は、腐敗した高野山を改革しようとしますが、反対派と激しく対立。1140年(保延6年)には、覚鑁が建立した「密厳院」(みつごんいん)が焼き払われてしまいます。

高野山を追放された覚鑁は、「新義真言宗」(しんぎしんごんしゅう)の開祖となり、弟子らと共に「根来寺」(ねごろじ)を造りました。根来寺には、「根来衆」(ねごろしゅう)と呼ばれる僧兵がいましたが、戦国時代には「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の「雑賀攻め」(さいがぜめ)に抵抗したため、焼き討ちされたと言われています。

戦国時代:北条泰時と豊臣秀吉による刀狩り

北条泰時

北条泰時

刀狩り」と言えば、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が発布した「刀狩令」(かたながりれい)が有名ですが、日本初の刀狩りは、1228年(安貞2年)に、鎌倉幕府第3代執権の「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が、高野山金剛峯寺に対して行なったものが最初です。

豊臣秀吉は、根来衆と雑賀一揆を制圧するため、刀狩令の前身で、のちに「原刀狩令」と呼ばれるようになった指令を、1585年(天正13年)に出していますが、同年、高野山金剛峯寺に対しても、同様のものを発令。その内容は、根来寺のように焼き払われたくなければ、武装を解除して仏事に専念するように脅したものだったと言います。

戦国時代:織田信長の高野山攻め

1580年(天正8年)、織田信長に謀反を起こした「荒木村重」(あらきむらしげ)の残党が高野山に逃げ込みました。織田信長は、彼らを引き渡すよう要求しましたが、高野山はこれを拒否。そののち、32名の足軽が山に入って捜索を行なったところ、高野山側は全員を殺害してしまいます。織田信長がこれに激怒し、「高野山攻め」が始まったのです。

高野山の学僧が編纂した「高野春秋編年輯録」(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)によると、高野山に攻め込んだ織田勢は、総勢13万7,000人に上ったとされています。しかし、各地で戦を繰り広げていた織田信長が、高野山にそれほどの人員を差し向けたかは疑問視されているのです。

争いの結末は、「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で織田信長が討たれたことにより、勝敗のつかないまま終結しました。

石山本願寺

大坂城」(おおさかじょう)が築城される前、同地にあったと言う「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)。寺でありながら、や塀、柵などで防御を固めた要塞を有していることから「摂州第一の名城」と呼ばれ、戦国大名に匹敵するほどの勢力を誇っていました。

山科本願寺時代:山科本願寺の戦い

石山本願寺の前身は、京都にあった「山科本願寺」(やましなほんがんじ)で、どちらも「浄土真宗本願寺派」 (じょうどしんしゅうほんがじは)の第8世宗主「蓮如」(れんにょ)によって建てられました。

石山本願寺が本山となったのは、1533年(天文2年)のこと。その前年の1532年(天文元年)8月に「山科本願寺の戦い」(やましなほんがんじのたたかい)が起き、浄土真宗本願寺派の信徒達からなる一向一揆軍(いっこういっきぐん)と、室町幕府管領の「細川晴元」(ほそかわはるもと)や法華衆(ほっけしゅう:日蓮宗信徒の町衆)らが対立して、山科本願寺が焼き払われてしまったのです。そのため、同派は大坂に拠点を移すことになりました。

山科本願寺の戦いの背景
山科本願寺の戦いの引き金となったのは、改元前の1532年(享禄5年)6月に起きた「飯盛城の戦い」(いいもりじょうのたたかい)。それは、河内国(かわちのくに:現在の大阪府東部)守護代「木沢長政」(きざわながまさ)が、同国の守護であった「畠山義堯」(はたけやまよしたか)に謀反を企てたことから始まりました。

この戦いで、木沢長政が細川晴元を頼る一方、畠山義堯は細川晴元の家臣で、細川晴元との関係を悪化させていた「三好元長」(みよしもとなが)を味方に付けます。当初、戦況は畠山義堯に有利でしたが、細川晴元が一向一揆軍に援軍を求めると、事態は一転。

三好元長は、「法華宗」(ほっけしゅう)の「顕本寺」(けんぽんじ)に逃げ込みますが、一向一揆軍は、顕本寺を取り囲み勝利します。この勝利によって細川晴元は、一向一揆軍に脅威を抱くようになり、山科本願寺の戦いで対立しました。

石山本願寺時代:石山合戦

1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)の10年間に亘って、一向一揆軍と織田信長が対立した戦いを「石山合戦」(いしやまかっせん)と言います。1568年(永禄11年)に上洛して畿内を平定した織田信長は、石山本願寺に対して大坂から退去することを要求。

これに対して浄土真宗本願寺派第11世宗主の「顕如」(けんにょ)は、全国の信徒に対して、徹底抗戦することを指示。全国各地で一揆が起こります。

石山本願寺勢は、1574年(天正2年)の「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)や、1575年(天正3年)8月の「越前一向一揆」(えちぜんいっこういっき)に敗北するもしぶとく戦いますが、1577年(天正5年)に「雑賀一向一揆」(さいかいっこういっき)にも敗北。その翌年には、石山本願寺に物資を補給していた「毛利水軍」(もうりすいぐん)も敗退し、1580年(天正8年)、顕如は石山本願寺から退去。

その数ヵ月後、石山本願寺は焼失してしまいますが、その原因は、顕如の長男「教如」(きょうにょ) による失火、あるいは放火であったと言われています。

興福寺

興福寺

興福寺

669年(天智天皇8年)に創建された「法相宗」(ほっそうしゅう)の大本山、「興福寺」(こうふくじ)。

平安時代には、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)の事実上の国司(こくし:中央から派遣された行政官)の役割を担い、僧兵や衆徒(寺領内の武士)を多数抱えていました。

その勢力は、国内最高の権威を誇っていた比叡山延暦寺にも肩を並べるほどで、しばしば朝廷や幕府を悩ませました。

朝廷や幕府に対する強訴

寺社が神仏の威光をうしろ盾に、朝廷や幕府に対して自らの要求を直接訴える強訴。なかでも奈良の興福寺(南都)と比叡山延暦寺(北嶺)の強訴が激しかったことから、この2山を併せて「南都北嶺」(なんとほくれい)と呼ばれています。

比叡山延暦寺が、日吉大社の神輿を担いで強訴を行なったのに対して、興福寺は、同じ藤原氏(ふじわらし)の氏寺・氏神として関係の深かった「春日大社」(かすがたいしゃ)の神木を奉じて入洛。要求が通らないと、そのまま御所の門前に神木を放置し、政治機能を麻痺させることもあったと言います。現代よりも神仏を身近に感じていた古の人々は天罰を恐れ、勝手に神木を移動させることができませんでした。

南都焼き討ち

平安時代末期の1180年(治承4年)、後白河上皇の三男で「高倉天皇」(たかくらてんのう)の兄「以仁王」(もちひとおう)が「源氏」(げんじ)、「平氏」(へいし)の討伐命令を発します。すると、平清盛の政治に反感を持っていた「東大寺」(とうだいじ)や興福寺なども、この動きに追随したのです。

平清盛はこれを治めるため、息子の「平重衡」(たいらのしげひら)を南都に向かわせ、興福寺や東大寺の建物のみならず、仏像や経典なども焼き払ってしまいました。しかし、この火災は、計画的な焼き討ちではないとされています。「平家物語」(へいけものがたり)によると、灯りを取るための松明(たいまつ)が燃え広がったことによる失火なのだとか。

どちらにしても、この出来事によって、平氏は仏敵として非難されることになり、平氏政権は一気に弱体化していき、翌年の1181年(治承5年)に、高倉天皇と平清盛が立て続けに他界すると、人々は仏罰と噂しました。

大和永享の乱

興福寺には、「大乗院」(だいじょういん)と「一乗院」(いちじょういん)という有力な門跡(もんぜき/もんせき:皇族・公家などが出家して住職を務める寺院)があり、室町時代の1429年(正長2年)に、それぞれの衆徒であった「豊田氏」(とよたし:大乗院方)と「井戸氏」(いどし:一乗院方)の間で「大和永享の乱」(やまとえいきょうのらん)という争いが起こりました。

これを受けて大乗院側には、大和国高市郡越智荘(やまとのくにたかいちぐんおちしょう)の豪族で国民(こくみん:春日大社の配下に置かれ、神人[じにん:神社に仕え、雑務などを担当した者]化した国人)の代表格であった「越智氏」(おちし)が味方します。一方、一乗院側には、大和国添下郡筒井(そえじもぐんつつい)の豪族で衆徒の頭領とも言える存在であった「筒井氏」(つついし)が味方となって対立。

興福寺も事態の収拾に乗り出しますが、戦乱は拡大。1432年(永享4年)9月、筒井氏を支持していた幕府が越智氏討伐に乗り出し、1439年(永享11年)に越智氏が討たれ、ようやく戦乱は終結しました。

戦国武将ゆかりの寺院

このように、武装化した寺院には、様々な戦国武将達と敵対して来た歴史がありました。しかし、明日の命も分からない戦乱の世の中で、天下を取ろうとする戦国武将が救いを求めたのもまた、仏の力であったのです。

武装化した寺院との対立も含め、血で血を洗うような争いを続けてきた戦国武将達でしたが、先祖の菩提寺は手厚く保護しています。

武田信玄の菩提寺:乾徳山恵林寺

乾徳山恵林寺

乾徳山恵林寺

武田信玄」(たけだしんげん)の菩提寺は、山梨県甲州市にある「乾徳山恵林寺」(けんとくさんえりんじ)。

1330年(元徳2年)に創建された「臨済宗妙心寺派」(りんざいしゅうみょうしんじは)の寺院です。

1564年(永禄7年)に武田信玄が「快川紹喜」(かいせんじょうき)を恵林寺の住持として招聘し、菩提寺に定めたと言います。

武田信玄が、自分そっくりに作らせた等身大の武田不動尊があるのもこの寺院です。

上杉謙信の菩提寺:春日山林泉寺

林泉寺

林泉寺

1497年(明応6年)に、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)の祖父「長尾能景」(ながおよしかげ)によって創建された「曹洞宗」(そうとうしゅう)の寺院。

上杉謙信は、1536年(天文5年)、7歳のときに「春日山林泉寺」(かすがさんりんせんじ)に預けられ、高僧「天室光育」(てんしつこういく)の教育を受けました。

信心深く、義に厚かったことで知られる上杉謙信の気質は、この頃に育まれたと考えられています。

織田信長の菩提寺:神護山崇福寺

神護山崇福寺

神護山崇福寺

1567年(永禄10年)に織田信長が美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)を攻略して、菩提寺とした臨済宗妙心寺派の「神護山崇福寺」(しんごさんそうふくじ)。

本堂裏には、織田信長と「織田信忠」(おだのぶただ)の父子廟があります。

また、本堂の「血天井」は、織田信長の孫「織田秀信」(おだひでのぶ)が「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で西軍に付き、「稲葉山城」(いなばやまじょう)のちの「岐阜城」(ぎふじょう)が東軍に攻め込まれ、落城したときの床板を用いた物です。

今川義元の菩提寺:大龍山臨済寺

大龍山臨済寺

大龍山臨済寺

享禄年間(1528~1532年)に、駿河(するが:現在の静岡県中部・北東部)「今川家」(いまがわけ)第9代当主「今川氏親」(いまがわうじちか)が、出家した自身の子「今川義元」(いまがわよしもと)のために、「太原雪斎」(たいげんせっさい)を招いて建立したとされている臨済宗妙心寺派の寺院。

当初は「善得院」(ぜんとくいん)という名称でしたが、今川義元が還俗して今川家第11代当主になった際に、「大龍山臨済寺」(だいりゅうざんりんざいじ)に改めています。

徳川家康」(とくがわいえやす)が「今川氏」(いまがわし)の人質だったときに、太原雪斎から教育を受けたのも、この大龍山臨済寺でした。

北条5代の菩提寺:金湯山早雲寺

金湯山早雲寺

金湯山早雲寺

金湯山早雲寺」(きんとうざんそううんじ)は、
1521年(永正18年/大永元年)に、「北条早雲」(ほうじょうそううん)の遺言により、「北条氏綱」(ほうじょううじつな)が創建したと伝わる「臨済宗大徳寺派」(りんざいしゅうだいとくじは)の寺院。

北条早雲から北条氏綱、「北条氏康」(ほうじょううじやす)、「北条氏政」(ほうじょううじまさ)、「北条氏直」(ほうじょううじなお)まで、北条5代の墓があります。

1590年(天正18年)に豊臣秀吉が「小田原の役」(おだわらのえき)を行なった際、豊臣秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山(いしがきやま)に「石垣山城」(いしがきやまじょう)が完成すると、金湯山早雲寺は焼き払われてしまいました。そののち、1627年(寛永4年)に再建されています。

徳川家の菩提寺:大本山増上寺と東叡山寛永寺

徳川家の菩提寺は、「浄土宗」(じょうどしゅう)の7大本山のひとつである「大本山増上寺」(だいほんざんぞうじょうじ)と、天台宗の関東総本山である「東叡山寛永寺」(とうえいざんかんえいじ)の2つがあります。

  • 大本山増上寺

    大本山増上寺

  • 東叡山寛永寺

    東叡山寛永寺

当初、徳川家康は、大本山増上寺を菩提寺に定めましたが、第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の頃、「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)のすすめで、江戸の鬼門に「祈願所」として東叡山寛永寺を創建。

やがて、東叡山寛永寺も菩提寺となり、4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の墓が東叡山寛永寺に造営されます。

大本山増上寺がこれを不服とし、6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)と7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)の墓は大本山増上寺に造営。8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)以降は、交互に造営することになりました。

寺院・僧の武装化

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