乱世を生きた武将の出家

仏門に入った武将

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真に実力のある者だけが生き残った戦国時代。「出家」とは、政治的・戦略的な側面を持つ「切り札」でもあったようです。「織田信長」(おだのぶなが)の義父となった「斎藤道三」(さいとうどうさん)や「将軍」という最高権力を手に入れてもなお、出家という道を選ぶ「足利義満」(あしかがよしみつ)。
また、出家とは生き残る道とした「武田信玄」(たけだしんげん)、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)や「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)達の出家への覚悟など、戦国時代での出家が持つ意味や出家したあとの活躍など、彼らの生き様をご紹介します。

足利義満と源道義

足利義満

足利義満

南北朝を統一して室町幕府の政権基盤を確実にし、「准三后」(じゅさんごう:太皇太后宮[たいこうたいごう]・皇太后宮[こうたいごうぐう]・皇后宮[こうごうぐう]に準ずる称号)、「太政大臣」(だいじょうだいじん)の地位を得た、室町幕府第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)。

出家後も権力を握り続けたことから、かつては天皇の座を狙う「策略家」と考えられたこともありましたが、近年は否定されつつあります。

足利義満が南北朝を統一

1358年(延文3年)に室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が没してから、ちょうど100日後に2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)のもとに誕生した足利義満。

父の足利義詮が、1367年(貞治6年)に病死すると、足利義満は元服(げんぷく:男子が成人になったことを祝う儀式)を行ない、1368年(応安元年)に将軍に就任します。時は、南北朝の対立が続く南北朝時代。幕府の政権は盤石なものではありませんでした。

足利義満は将軍の権力を強化するため、有力な守護大名であった「土岐氏」(ときし)を討つと、1391年(明徳2年)の「明徳の乱」(めいとくのらん)では「山名氏」(やまなし)を討伐します。山名氏は鎌倉幕府を滅ぼし、「南朝」の総大将として戦った「新田義貞」(にったよしさだ)の流れを汲む一族。政権基盤を固めるためには、2つに分かれた朝廷、南朝と「北朝」の統一が必須の課題でした。

1392年(明徳3年)、足利義満は南朝方が弱体化したタイミングで和平案を持ちかけ、南朝の「後亀山天皇」(ごかめやまてんのう)から北朝の「後小松天皇」(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲って、ついに「南北朝統一」を果たすのです。

将軍・足利義満から源道義へ

足利義満が出家して「源道義」(げんどうぎ)という法号を得るのは、1395年(応永2年)のこと。1383年(永徳3年)に准三后、1394年(明徳5年)には、太政大臣に就任するなど、武家としては異例の「出世」を遂げたあとの「出家」でした。

出家の理由は、天皇を超越する存在になるためだったのではないかという「王権簒奪説」(おうけんさんだつせつ)がありましたが、近年この説は否定され、以下のような説が語られています。

日明貿易のための出家説

日明貿易

日明貿易

足利義満は明国との貿易を望み、何度か交渉を試みていますが、明国は「国王」以外との交易を許さなかったため叶いませんでした。

そこで出家を決意。出家したことによって、天皇の家臣である太政大臣の肩書きがなくなり、天皇に属さない「日本国王」として認められることに成功したのです。

ついに、1401年(応永8年)に「日本国准三后源道義」(にほんこくじゅさんごうげんどうぎ)という名義で遣明使を派遣。国交を開始し、念願の日明貿易を行なうことができました。

父と後円融天皇の死を受けての延命説

父の足利義詮の享年は、38歳。足利義満が出家したときと同じ年齢です。また、足利義満が出家する前年の1393年(明徳4年)には、同い年で若かりし頃から交流のあった「後円融天皇」(ごえんゆうてんのう)も崩御。

夭逝(ようせい:年が若くて死ぬこと)したこの2人の死が、足利義満自身にも自らの寿命を意識させ、延命を願って出家したのではないかとも考えられています。

伊勢盛時と北条早雲

北条早雲

北条早雲

戦国大名「後北条氏」(ごほうじょうし)の祖である「北条早雲」(ほうじょうそううん)。

戦国時代の幕開けと共に出家して、伊豆を平定すると、相模に進出して次々と城を攻略していきます。

かつては一介の素浪人から出世した下剋上大名と考えられていましたが、近年の研究では、室町幕府9代将軍「足利義尚」(あしかがよしひさ)の側近であったとされています。

伊勢盛時としての人生

「伊勢盛時」(いせもりとき)の出自については諸説ありますが、近年の調べでは1456年(康正2年)頃、室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の「申次衆」(もうしつぎしゅう:将軍御所に参上した者の名前や用件を取り次ぐ室町幕府の役職名)であった「伊勢盛定」(いせもりさだ)の次男とされ、自身も9代将軍・足利義尚のもとで、1483年(文明15年)に申次衆、1487年(長享元年)に「奉公衆」(ほうこうしゅう:将軍の近侍諸役)に就任しています。

姉は、駿河今川家第8代当主「今川義忠」(いまがわよしただ)と結婚して「今川氏親」(いまがわうじちか)を生んだ、「北川殿」(きたがわどの)。1476年(文明8年)に今川義忠が没すると、今川義忠の従兄弟である「小鹿範満」(おしかのりみつ)と今川氏親との間で、家督争いが勃発します。

伊勢盛時は、北川殿の求めに応じて調停し、今川氏親が成人するまでの間、小鹿範満が家督を代行することで騒動を終結させますが、今川氏親が元服する年を迎えると、再び争いが起こります。1487年(長享元年)、伊勢盛時は再び駿河に下り、小鹿範満を討って、甥の今川氏親を今川家第9代当主にすることに成功します。

伊勢盛時から北条早雲へ

伊勢盛時が出家した理由

伊勢盛時が出家したのは、1491年(延徳3年)から1495年(明応4年)頃と考えられています。法名は「早雲庵宗瑞」(そううんあんそうずい)。北条早雲と呼ばれるようになるのは、嫡男の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)が「北条氏」(ほうじょうし)を称するようになってからのことです。

出家の理由は明らかになっていませんが、関東が戦国時代に突入する契機になったと言われる、伊豆乱入がきっかけではないかと考えられています。内乱状態にあった伊豆に乱入した北条早雲は、出家して幕府の奉公衆を退任し「伊豆国主」となり、戦国大名として名を轟かせるようになるのです。

伊豆乱入と伊豆平定

1491年(延徳3年)に伊豆を治めていた「堀越公方」(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)こと「足利政知」(あしかがまさとも)が死去すると、素行不良で軟禁されていた長男の「足利茶々丸」(あしかがちゃちゃまる)が、異母兄弟の「足利潤童子」(あしかがじゅんどうじ)とその母を殺害して、強引に跡目を継ぎました。

一方、京都では1493年(明応2年)に、管領の「細川政元」(ほそかわまさもと)がクーデターを起こし、室町幕府10代将軍「足利義稙」(あしかがよしたね)が追放されます。11代将軍に擁立された「足利義澄」(あしかがよしずみ)は、何と足利潤童子の兄でした。将軍となった足利義澄は、母と弟の敵討ちを北条早雲に命じるのです。

さらにこの頃、伊豆では「山内上杉家」(やまうちうえすぎけ)と「扇谷上杉家」(おうぎがやつうえすぎけ)が対立した「長享の乱」(ちょうきょうのらん)も起きていました。伊豆に乱入した北条早雲は、足利茶々丸を後援する山内上杉家や「甲斐武田氏」(かいたけだし)らとの戦いを制し、1497年(明応6年)にようやく伊豆を平定します。

長井新左衛門尉と斎藤道三

斎藤道三

斎藤道三

11歳で出家し、のちに還俗して、「油売り」から事実上の美濃国国主に上り詰めた下剋上大名として知られる「斎藤道三」(さいとうどうさん)。

しかし、近代になって発見された資料によると、一般に知られるこの説は、父「長井新左衛門尉/松浪庄五郎」(ながいしんざえもんのじょう/まつなみしょうごろう)の人生と混同したものと考えられています。

斎藤道三の下剋上人生

斎藤道三は、1494年(明応3年)頃生まれたと考えられています。僧から還俗して油売りとなったのは、父の長井新左衛門尉のこと。油売りとして美濃国の守護代である「斎藤家」(さいとうけ)に出入りするようになって武士となり、斎藤家に仕える「長井長弘」(ながいながひろ)のもとで功を立て、「長井姓」(ながいせい)を拝領しました。したがって斎藤道三のキャリアは最初から武士としてスタートしたことになります。

1535年(天文4年)頃から、美濃では守護の「土岐頼芸」(ときよりのり)と、前守護の「土岐頼武」(ときよりたけ)の子、「土岐頼純」(ときよりずみ)が対立して、激しい内戦を繰り返していました。

土岐頼芸側に付いて存在感を強めた斎藤道三は、土岐頼純が死亡して興和が成立すると、1549年(天文18年)頃、娘「濃姫」(のうひめ)と「織田信長」(おだのぶなが)との婚姻を成立させ、1550年(天文19年)にはついに、土岐頼芸も追放。実質的に美濃国国主の座を手に入れます。

斎藤道三、2度出家説

1556年(弘治2年)に嫡男の「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)に討ち取られた斎藤道三は、その2年前の1554年(天文23年)に斎藤義龍に家督を譲って、出家し、斎藤道三と号したと伝えられています。しかし、実は2度出家している説があります。

1回目の出家

「藤原規秀」(ふじわらののりひで)、「長井新九郎規秀」(ながいしんくろうのりひで)、「斎藤新九郎利政」(さいとうしんくろうとしまさ)、「斎藤新九郎入道道三」(さいとうしんくろうにゅうどうどうさん)、「左近大夫」(さこんのたいふ)と、幾度となく名前を変えた斎藤道三。

書状に斎藤新九郎入道道三の名前が出てくるのは、1536年(天文5年)のことなので、この頃までには出家していることになります。出家の理由は明らかではありませんが、1535年(天文4年)に起きた、美濃大洪水や内戦などが影響しているのかもしれません。

1539年(天文8年)になると、署名は左近大夫となり、入道の記述がなくなることから、この頃還俗したと考えられています。

2回目の出家

1549年(天文18年)頃になると「左近大夫道三」(さこんのたいふどうさん)の記述がみられるようになるため、1548年(天文17年)頃に再び出家したと考えられます。こちらも出家の理由は明らかではありませんが、1547年(天文16年)に土岐頼純が急死したことが関係しているのかもしれません。

斎藤道三と土岐頼純は、1546年(天文15年)に和睦を結び、その証として、斎藤道三の娘である濃姫を土岐頼純に輿入れさせています。しかし、翌年、土岐頼純が急死。斎藤道三のもとに戻った濃姫は、1549年(天文18年)に織田信長と結婚するのです。

土岐頼純の死は斎藤道三が関与していたと噂されますが、もしかしたら出家は義理の息子を死に追いやった懺悔なのかもしれません。

武田晴信と武田信玄

もし、この男があと10年長生きしていたら、織田信長の天下はなかったと言われる「武田信玄」(たけだしんげん)。

出家の理由には諸説ありますが、階級の枠組みに縛られないためという説も。目指したのは「将軍」か太政大臣か…。出家の先にどのようなビジョンを持っていたのか、想像を掻き立てられます。

武田晴信が武田信玄になるまで

武田信玄

武田信玄

1521年(大永元年)に甲斐国の守護大名、「武田信虎」(たけだのぶとら)の嫡男として誕生した武田信玄。出家前の名前を「武田晴信」(たけだはるのぶ)と言います。

1536年(天文5年)に元服した武田信玄は、父の武田信虎に従って初陣を果たしますが、その5年後の1541年(天文10年)には、武田信虎を追放し、家督を継ぐことになるのです。

この当主交代劇には、武田信虎が武田信玄よりも弟の「武田信繁」(たけだのぶしげ)を可愛がり、跡継ぎにしようとしたためという説や、武田信虎との関係が悪化していた重臣らに説得されたためという説などがありました。

家督を継いだ武田信玄は、そののち、越後の「上杉謙信」(うえすぎけんしん)との「川中島の戦い」を経て信濃(しなの)を平定しています。

武田晴信から武田信玄へ

甲陽軍鑑が伝える武田信玄の出家

「甲斐国志」(かいこくし)には、武田信玄が出家して、「徳栄軒信玄」(とくえいけんしんげん)という号を得るのは、1559年(永禄2年)のことと書かれています。

また、「武田氏」(たけだし)の戦略や戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)には、「大僧正」(だいそうじょう:僧の最高位)の位を得るために出家したとされています。

「河内源氏」(かわちげんじ)の流れを汲む「甲斐武田家」(かいたけだけ)は、足利将軍家にも並ぶ名家と考えていた武田信玄。一戦国大名の地位に甘んじることを良しとせず、既存の階級の枠組みに縛られない存在になるための出家だったと言うのです。

出家してもなお快進撃は続き、甲斐、信濃、駿河(するが)、上野西部、遠江(とおとうみ)、三河(みかわ)と領土を拡大。しかし、さすがの武田信玄も病には勝てず、1573年(元亀4年)に道半ばで没します。

武田不動明王が伝える信玄の出家

武田信玄の菩提寺である「恵林寺」(えりんじ)には、武田信玄を模した等身大の不動明王「武田不動尊」が安置。武田信玄が比叡山から大僧正の位を贈られた記念に、1551年(天文20年)に仏師を招いて作らせた物で、このとき武田信玄は剃髪し、その毛髪を焼いて漆(うるし)に混ぜ、不動明王の胸部に自ら塗りこめて彩色したと伝えられています。

甲陽軍鑑によると、この不動明王を作ったのは、最晩年の1570年(元亀元年)のこととされており、出家の時期と仏像制作の時期は資料によって一致しませんが、武田信玄は自分そっくりの不動明王に死後も国を守って欲しいという願いを込めたとされています。

長尾景虎と上杉謙信

私利私欲が渦巻く戦国時代において、義を貫いた武将、上杉謙信。塩不足に苦しむ武田信玄に塩を送ったことから生まれたことわざ「敵に塩を送る」が示すように、弱きを助け強きを挫く清廉な生き様は、現代人の心も魅了します。

武将としての上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信

1530年(享禄3年)に越後の守護代をつとめる「長尾為景」(ながおためかげ)のもとに生まれた上杉謙信。

1536年(天文5年)に父の長尾為景が長男「長尾晴景」(ながおはるかげ)に家督を譲ると、6歳だった上杉謙信は、春日山城下にあった「林泉寺」(りんせんじ)に預けられます。

義を貫いた戦国大名として知られる上杉謙信。「筋目を守り、非分をいたさざる」(道理を守り、道理に外れることはしません)と言う義の精神は、この頃、高僧「天室光育」(てんしつこういく)によって育まれたと言われています。

1543年(天文12年)に元服した上杉謙信は、豪族達が病弱な兄の長尾晴景を侮って起こした謀反を治めるために初陣し、見事これを果たします。1548年(天文17年)には、兄に代わって家督を相続し、越後の守護代に就任。

1550年(天文19年)に越後守護の「上杉定実」(うえすぎさだざね)が後継者のいないまま亡くなると、守護代の上杉謙信が越後国主に就任し、越後を統一。以降、上杉謙信は私利私欲を捨て、幕府を再興して乱世を終わらせることを夢見て、幾多の戦いに挑みます。

上杉姓を名乗るようになったのは、1561年(永禄4年)のこと。関東管領の「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)の養子になり、「山内上杉氏」(やまうちうえすぎし)の家督と関東管領の地位を引き継ぎました。

修行者としての上杉謙信

上杉謙信が信仰した毘沙門天

上杉謙信が信仰した毘沙門天

子どもの頃から信心深かった上杉謙信。

自らを「毘沙門天」(びしゃもんてん)の化身と信じ、厚く信仰していました。

「不識庵」(ふしきあん)という庵号を得るのは、1570年(元亀元年)の40歳になってからのことですが、1556年(弘治2年)にも出家を試みたことがありました。

弘治2年の出家騒動

1555年(弘治元年)、武田信玄との間で起きた「第2次川中島の戦い」が長引いたことによる内輪もめや、味方の裏切りなどに嫌気がさした上杉謙信。師匠であった僧侶の天室光育に出家の意志を手紙で伝え、高野山に向かいました。

戦国時代において、国主の不在は敵に攻め込む隙を与えるようなもの。義兄の「長尾正景」(ながおまさかげ)の必死の説得により、このときは出家を断念しています。

この出家騒動は、家臣達に反省を促し、越後をまとめるための方便だったのではないかとも考えられています。

長岡藤孝と細川幽斎

細川藤孝/幽斎

細川藤孝/幽斎

「長岡藤孝」(ながおかふじたか)のちの、「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)は、名門「細川家」(ほそかわけ)の祖となる人物です。

室町幕府の将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)と「足利義昭」(あしかがよしあき)に仕え、織田信長、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「徳川家康」(とくがわいえやす)と3人の天下人にも重用された名将の出家の背景には、「本能寺の変」という歴史に残る大事件がありました。

織田信長から信頼を得た長岡藤孝

1534年(天文3年)に室町幕府幕臣の「三淵晴員」(みつぶちはるかず)のもとに生まれた長岡藤孝。諸説ありますが、7歳の頃、父の兄で和泉上半国守護の「細川元常」(ほそかわもとつね)の養子になったと言われています。

実父と同じように自身も幕臣として、第13代将軍の足利義輝に仕えますが、1565年(永禄8年)に「永禄の変」(えいろくのへん)が勃発。足利義輝が「三好三人衆」に討たれ、その弟の足利義昭が幽閉されると、長岡藤孝は足利義昭を奪還し、織田信長に協力を求めて、足利義昭を15代将軍に据えるために尽力します。

そののち、織田信長が足利義昭を意のままに操ろうとしたため、次第に2人の関係は悪化し、ついに織田信長は足利義昭を追放してしまいます。難しい選択を迫られた長岡藤孝でしたが、織田信長側につき、以後、織田信長の家臣として数々の戦で功を立て、織田信長の信頼を勝ち取ります。

1578年(天正6年)には、織田信長の計らいにより、嫡男の「細川忠興」(ほそかわただおき)と「明智光秀」(あけちみつひで)の娘、「玉」(たま:のちの細川ガラシャ)の婚姻が成立しています。ちなみに「長岡」という姓は、山城国(やましろのくに:現在の京都府)の長岡一帯を与えられた頃から使用しています。

長岡藤孝から細川幽斎へ

長岡藤孝が出家して細川幽斎となったのは1582年(天正10年)、本能寺の変直後のこと。織田信長を討った明智光秀とは旧知の仲であり、親戚でもあったため、明智光秀は細川幽斎に味方に付くよう再三の要請をしますが、細川幽斎は出家して、これを拒否します。

主君である織田信長に対する忠義を貫こうとしたのか、やがて来る豊臣秀吉の天下を見通していたのか、あるいは明智光秀に仕えることを嫌ったのか、細川幽斎が明智光秀の要請を断った理由は定かではありませんが、そののち、細川幽斎は豊臣秀吉にも重用され、豊臣秀吉の死後は、徳川家康が率いる「東軍」について戦い、嫡男の細川忠興は徳川政権下において、小倉藩(こくらはん)初代藩主となります。

明智光秀から細川幽斎への手紙

永青文庫美術館

永青文庫美術館

細川幽斎から現在まで続く名門細川家には、重要な歴史資料となる手紙や美術品などが代々受け継がれ、東京都文京区目白台の細川家屋敷跡の一角にある「永青文庫美術館」(えいせいぶんこびじゅつかん)に保管されています。

本能寺の変のあと、明智光秀から細川幽斎に送られた手紙「明智光秀覚書」もそのひとつ。

「細川幽斎が剃髪したことに一度は腹を立てたが、やはり協力して欲しい」、「協力すれば、恩賞として、摂津国[せっつのくに:現在の大阪府北西部、及び兵庫県南東部]の他、但馬[たじま]や若狭[わかさ]も与える」、「今回の件は、細川忠興などを取り立てるためで、落ち着いたら子らの世代に引き継ぐつもりだ」と言うことが箇条書きで書かれ、切羽詰まった明智光秀の焦りが伝わってくるようです。

黒田官兵衛と黒田如水

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた稀代の軍師、「黒田孝高」(くろだよしたか)こと「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)。順風満帆にも思える人生ですが、その出家の背景には、絶体絶命、生きるか死ぬかの危機がありました。

黒田官兵衛が黒田如水になるまで

黒田官兵衛

黒田官兵衛

黒田官兵衛は、1546年(天文15年)、姫路城主「小寺則職」(こでらのりもと)に仕え、姫路城代をつとめる「黒田職隆」(くろだもとたか)のもとに生まれます。

1562年(永禄5年)に初陣を飾り、1567年(永禄10年)に家督を継いで姫路城代に。

そののち黒田官兵衛は、小寺則職の嫡男で主君の「小寺政職」(こでらまさもと)に織田信長にしたがうことを進言し、1575年(天正3年)に初めて織田信長に謁見。

以降、織田信長の配下に入り、豊臣秀吉にしたがって「上月城の戦い」(こうづきじょうのたたかい)や「佐用城攻め」(さようじょうぜめ)、2度目の「鳥取城の戦い」などを行ないます。

1582年(天正10年)に本能寺の変が起きた際、備中国(びっちゅうのくに:現在の現在の岡山県西部)の「高松城」(たかまつじょう)を攻めていた豊臣秀吉に、至急戻って明智光秀を討つように進言したのは、黒田官兵衛だと言われています。

この「中国大返し」を成功させて政権を握った豊臣秀吉のもと、黒田官兵衛は軍師として「四国攻め」や「九州攻め」など、数々の戦を制していきます。

黒田官兵衛から黒田如水へ

黒田官兵衛が出家して「如水軒円清」(じょすいけんえんせい)となるのは、1593年(文禄2年)のこと。日本での天下統一を果たした豊臣秀吉は、明への進出を図り、1592年(天正20年)に「文禄の役」(ぶんろくのえき)を起こします。

黒田官兵衛は「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)が総大将を務める隊の軍監として朝鮮に向かいますが、朝鮮水軍の反撃や朝鮮の厳しい寒さと飢えにより苦戦を強いられたため、翌1593年(文禄2年)に兵を撤退し、帰国します。

豊臣秀吉はこれに激怒、蟄居(ちっきょ:謹慎刑)を命じました。この2年前、蟄居のあと、すぐに切腹させられた「千利休」(せんのりきゅう)の記憶が生々しく思い起こされる頃のこと。

黒田官兵衛は死を覚悟して出家し、嫡男の「黒田長政」(くろだながまさ)に遺書を書いて剃髪したのです。この騒動の背景には黒田官兵衛と「石田三成」(いしだみつなり)の確執があり、石田三成が黒田官兵衛に不利になる報告をしたのではないかという説もあります。

ちなみに蟄居した黒田官兵衛は、そののちに赦免(しゃめん:罪をゆるすこと)され、1597年(慶長2年)に「慶長の役」(けいちょうのえき)で、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)が総大将を務める隊の軍監として、再び朝鮮に渡って戦っています。

また、豊臣秀吉の死後は徳川家康が率いる東軍について、「石垣原の戦い」(いしがきばるのたたかい)や「佐賀関の戦い」(さがのせきのたたかい)など、九州の西軍勢力の城を次々と攻略したのです。

仏門に入った武将

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