乱世を生きた武将の出家

武将が出家する理由

文字サイズ

武力と知力を身に付け、死をも恐れず乱世を生き抜いた武将達。名実共に「強かった」のに、最終的には武士としての「権力」ではなく、「出家」を選んだ武将が何人も存在しました。
なぜ武将達は出家したのか。時代的な背景や流行の思想を解明し、「西行」(さいぎょう)、「平清盛」(たいらのきよもり)、「北条時頼」(ほうじょうときより)の人生を取り上げ、その謎に迫ります。

なぜ武将は出家したのか?

「出家」した武将は数多く、その理由も千差万別。病気や近親者の死、人生の節目、懺悔など様々ありますが、ここでは武将ならではの出家の理由をご紹介しましょう。

極楽浄土に行くための出家

平安時代になると、念仏を唱えることによって死後、「極楽浄土に生まれ変わることができる」と言う「浄土信仰」(じょうどしんこう)が広まります。

さらに、1052年(永承7年)には、釈迦の入滅から時を経て、修行も悟りも得られなくなる期間に入る考え方「末法思想」(まっぽうしそう)も流布。「院政」の成立から「源平争乱」まで、末法思想を体現するように混乱した世相と相まって、浄土信仰はますます人々に受け入れられます。

天皇や貴族達のなかには「厭離穢土、欣求浄土」(えんりえど、ごんぐじょうど:穢[けが]れたこの世を離れ[極楽浄土]に往生することを願う姿勢)を示して、出家する者が現れるのです。

身分の枠組みからの脱却

「仏門に入る」ことは、天皇、貴族、将軍、武士といった、身分の枠組みを超えた存在になるということ。江戸時代までの日本では、出身家系がキャリアに大きく影響したため、出世の野望を持つ者達に、しばしば出家が利用されました。

信西

信西

例えば、「藤原通憲」(ふじわらのみちのり)こと「信西」(しんぜい)。

無双の頭脳明晰と評価されながらも、下級武士の養子で、公家社会において出世が見込めなかったため出家。

しかし、妻が「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の乳母(うば)をしていたため、乳父(めのと)となり、後白河天皇の側近として政治を欲しいままにします。

跡目争いを避けるための出家

保元の乱」(ほうげんのらん)で親兄弟が対立した源氏のように、日本の歴史を振り返ると、親族間での骨肉の争いも少なくありません。こうした争いを避けるため、家督を継ぐ長男以外の男子は幼少の頃に出家させられることがありました。

室町幕府第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)もそのひとり。14歳で得度(とくど:出家のこと)して「義円」(ぎえん)と称しましたが、家督を継いでいた兄の「足利義持」(あしかがよしもち)が跡継ぎのいないまま死亡したため、くじ引きで将軍になることが決まり、34歳で還俗しています。

同じように「今川義元」(いまがわよしもと)も幼い頃に出家していますが、家督を継いだ長兄が亡くなり、還俗して今川家11代当主となりました。

絶体絶命の危機による出家

黒田官兵衛

黒田官兵衛

明智光秀」(あけちみつひで)と姻戚関係にあった「細川藤孝」(ほそかわふじたか)こと「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)は、「本能寺の変」(ほんのうじのへん)のあとすぐに出家して、「織田信長」(おだのぶなが)への哀悼の意を表し、明智光秀からの協力要請を断っています。

こうすることで、内通の嫌疑がかかっても仕方がない状況を、出家でかわしました。

また、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)こと「黒田如水」(くろだじょすい)は、朝鮮出兵から勝手に帰国したことで「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の怒りを買い、死を覚悟して出家しました。

このように絶体絶命の危機に直面して、出家の道を選ぶ武将もいたようです。

佐藤義清と西行

「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)に最も多い94首が入選するなど、平安時代後期から鎌倉時代前期を代表する歌人として知られる「西行」(さいぎょう)ですが、もともとは「佐藤義清」(さとうのりきよ)という名の武士であったことはあまり知られていません。

武士としての西行、佐藤義清の人物像

西行の出自を遡ると、「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)で活躍した「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)にたどり着きます。「吾妻鏡」(あずまかがみ:鎌倉時代に成立した日本の歴史書)には、「源頼朝」(みなもとのよりとも)が西行に、藤原秀郷以降9代に亘って受け継いできた弓馬の極意を尋ねるエピソードがあります。

西行の返事は「出家にあたって、代々伝わる兵法をすべて焼き払い、忘れてしまいました」とつれないもの。それでも負けじと尋ねると、堰(せき)を切ったように話し始め、話は一晩中に及んだと言います。

このように西行の家系は武芸に秀で、曽祖父から父の代までは「検非違使」(けびいし:警察業務を担当した役人)として朝廷に仕えてきました。母は「今様」(いまよう:平安中期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡)の達人であった「源清経」(みなもとのきよつね)の娘。父譲りの武芸と母譲りの学芸の才能を併せ持って生まれてきたのが西行です。

西行は16歳で「鳥羽院」の中宮である「待賢門院璋子」(たいけんもんいんたまこ)の兄「徳大寺実能」(とくだいじさねよし)に仕え、18歳で「兵衛尉」(ひょうえのじょう)に就任。

優れた文武の才能によるものか、20歳の頃には鳥羽院の「北面の武士」(ほくめんのぶし)として、特に選ばれて御幸(ごこう:皇族の外出)に同行した記録が残っています。

佐藤義清から西行へ、憶測を呼ぶ出家の真相

西行が出家したのは23歳のとき。武士としてこれからというときの突然の出家は、時代を経ても人々の想像を掻き立て、様々な憶測を呼んできました。

親友の死による出家説

「西行物語」などでは、親友の「佐藤憲康」(さとうのりやす)の突然の死が人生の無常を悟らせ、出家を決意させたとしています。

平安時代後期は、地震、飢餓、疫病、戦乱が相次いだ動乱の時代。現世での救いを諦め、「阿弥陀如来」(あみだにょらい)の慈悲にすがって、死後の極楽浄土を追い求めようとする「浄土思想」(じょうどしそう)が広まっていました。

西行も在俗(ざいぞく:出家しておらず俗人の状態)の頃から、浄土思想に親しんでいたことは想像に難くありません。遅かれ早かれ出家することは心に決めていたことで、友人の死はきっかけに過ぎなかったのかもしれません。

やんごとなき女性への失恋による出家説

「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)では、高貴な女性に叶わぬ恋をしたからとされています。その恋のお相手は、「崇徳天皇」(すとくてんのう)の母である待賢門院璋子。

この恋の噂を聞いた崇徳天皇から「伊勢の海 あこぎが浦に 引く網も 度重なれば 人もこそ知れ」(禁漁区域での漁も、度重なると人の知るところとなりますよ)とたしなめられ、道ならぬ恋を諦め出家したとされています。

皇位継承争いからの逃避説

西行が北面の武士として鳥羽院に仕えた頃から、朝廷ではやがて1156年(保元元年)の保元の乱へとつながる火種がくすぶっていました。

崇徳天皇の母は待賢門院璋子。父親は鳥羽院ではなく祖父「白河院」(しらかわいん)との噂があったため、崇徳天皇と鳥羽院との間には確執がありました。そんななか、鳥羽院と「美福門院得子」(びふくもんいんとくこ)との間に「体仁親王」(なりひとしんのう)が生まれると、鳥羽院はなかば強引に崇徳天皇から皇位を奪い、3歳の体仁親王を「近衛天皇」(このえてんのう)として即位させてしまいます。

しかし、病弱だった近衛天皇は、17歳で崩御。次期天皇の座を巡って、鳥羽院と「崇徳上皇」(すとくじょうこう)は再び対立。鳥羽院の推す後白河天皇が即位しました。そして時を経て鳥羽院が崩御すると、皇位継承をめぐってまた後白河天皇と崇徳上皇が対立して、保元の乱が勃発します。

こうした俗世のごたごたから離れ、自分らしく生きるために、西行は出家したのではないかと考えられているのです。

平清盛と平相国入道

平清盛

平清盛

「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし…。」

混迷を極める平安時代後期に初めて武家政権を樹立した「平清盛」(たいらのきよもり)。

出家して「平相国入道」(へいしょうこくにゅうどう)となったあとも政治を欲しいままにし、そして儚く散っていきました。

太政大臣就任後の突然の出家

1159年(平治元年)の「平治の乱」(へいじのらん)によって信西(藤原通憲)が姿を消し、「藤原信頼」(ふじわらののぶより)と「源義朝」(みなもとのよしとも)を討つと、平清盛の存在感は一気に高まり、1167年(仁安2年)に武士として初めて「太政大臣」(だいじょうだいじん/だじょうだいじん:朝廷の最高職)に就任します。

しかし平清盛は、その3ヵ月後に出家してしまうのです。理由は病とされていますが、信西がそうであったように、世俗の約束事に縛られることを嫌ったためとも考えられています。

太政大臣は実権を持たない名誉職。この地位に甘んずる平清盛ではありませんでした。出家後の平清盛は大臣の役職を意味する「相国」(しょうこく)から、平相国入道と呼ばれ、平氏政権のさらなる充実を図っていくのです。

盛者必衰のことわり

平氏の隆盛

出家した平清盛は、日宋貿易や瀬戸内海交易に積極的に取り組み、財政の基盤を整えます。そして、長男の「平重盛」(たいらのしげもり)、三男の「平宗盛」(たいらのむねもり)らを重要なポストに就け、娘の「平盛子」(たいらのもりこ)を摂関家(せっかんけ)の「藤原基実」(ふじわらのもとざね)と結婚させ、さらに娘の「平徳子」(たいらのとくし/のりこ)を「高倉天皇」(たかくらてんのう)に嫁がせることにも成功。

平徳子に子が生まれると、わずか2歳のときに「安徳天皇」(あんとくてんのう)として即位させ、外祖父として政治を取り仕切るようになります。

平氏の衰退

しかし、驕れる人も久しからず。やがて政治を欲しいままにしていた平清盛は、「後白河院」(ごしらかわいん)やその近臣達から反感を買うようになります。平清盛の長男である平重盛と娘の平盛子が急死すると、後白河院は平重盛の知行国と平盛子の荘園を没収してしまいます。平清盛はその報復として、後白河院を幽閉。

これがさらに反発を招き、後白河院の三男である「以仁王」(もちひとおう)が、全国の源氏に「平氏打倒」を命じます。平清盛は以仁王を討ち、さらに体制を強化するために福原への遷都を決行しますが、諸国で蜂起した源氏の勢いを止めることはできませんでした。

孫の「平維盛」(たいらのこれもり)は、「富士川の戦い」で源頼朝に敗れ、平清盛はその翌年の1181年(治承5年)に病死してしまいます。そして、1185年(文治元年)の「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)でとうとう平氏は滅亡してしまうのです。

北条時頼と最明寺入道

鎌倉幕府の執権政治を確立し、出家後も辣腕(らつわん:てきぱき処理する能力があること)を発揮して政治を欲しいままにした「北条時頼」(ほうじょうときより)。

しかし一方では、民衆や家臣に優しい政治を行なった名君としても知られ、いくつかのエピソードは謡曲や能となって語り継がれています。

為政者としての北条時頼

北条時頼

北条時頼

北条時頼は、鎌倉幕府第5代執権。

1230年(寛喜2年)、3歳のときに父の「北条時氏」(ほうじょうときうじ)を亡くし、1241年(仁治2年)、15歳のときに祖父の「北条泰時」(ほうじょうやすとき)を、1246年(寛元4年)、19歳のときに第4代執権であった兄の「北条経時」(ほうじょうつねとき)を立て続けに亡くすと、北条時頼が執権に就任します。

執権就任後まもなく起きた「宮騒動」(みやそうどう)と呼ばれる権力闘争を治め、北条家嫡流による専制政治を確固としたものにすると、抵抗する者は将軍さえも追放し、親王将軍を擁立して、幕政の実権を握り続けました。

北条時頼から最明寺入道へ

北条時頼が最明寺で出家し、「最明寺入道」(さいみょうじにゅうどう)となるのは1256年(康元元年)、30歳のとき。理由は、北条時頼の右腕として執権政治を支えた「北条重時」(ほうじょうしげとき)の出家、また当時流行していた「麻疹」(はしか)で娘が死亡したこと、さらに自身も麻疹と「赤痢」(せきり)に罹患(りかん:病気になること)したことなどがきっかけと言われています。

このとき嫡男の「北条時宗」(ほうじょうときむね)はまだ幼かったため、北条重時の次男である「北条長時」(ほうじょうながとき)に一時的に執権を譲り、政治の実権は北条時頼が握り続けます。このことから、出家の本意は朝廷における院政のような体制を整え、北条時宗への権力移譲を穏便に行なうためだったと考えられています。

伝説のなかの最明寺入道

その辣腕から、冷酷無情な人物のようにも思える北条時頼ですが、信心深く、撫民(ぶみん:民をいたわること)・善政を行なったことでも知られており、その名君ぶりから様々な伝説も生んでいます。

それは出家した北条時頼が諸国を巡り、困窮する庶民を助けた「廻国伝説」(かいこくでんせつ)。有名な物に、謡曲の「鉢の木」(はちのき)があります。

鉢の木

ある大雪の夕暮れ、あばら屋に旅の僧が現れて宿を求めます。すると住人は薪の代わりに、大切な松・梅・桜の盆栽を囲炉裏にくべてもてなし、「一族に所領を奪われてこのように落ちぶれてしまったが、鎌倉に一大事があれば、一番に駆け付けるつもりです」と語ります。そして翌朝、僧は旅立っていきました。

それからしばらくして、鎌倉幕府から動員令がかかります。住人は鎌倉に馳せ参じて初めて、あの日の僧が北条時頼だったことを知るのです。北条時頼は言葉通り駆け付けたことを褒め、囲炉裏にくべた盆栽にちなんで、上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を与えました。

武将が出家する理由

武将が出家する理由をSNSでシェアする