後世に名を残した黒衣の宰相

三英傑を支えた僧

文字サイズ

戦国時代を語る上で外せない戦国武将と言えば、「織田信長」(おだのぶなが)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「徳川家康」(とくがわいえやす)の3人。戦が溢れ、混乱を極めていた日本を天下統一に導き、また太平の世とするために尽力していたこの3武将は、その堂々たる活躍ぶりから、「三英傑」(さんえいけつ)と呼ばれています。
しかし、彼らが戦乱の世を生き抜き、後世に名を残すほどの人物になり得たのには、それぞれの生まれ持った才覚はもちろんですが、彼らに仕えていた「黒衣の宰相」(こくえ/こくいのさいしょう)と称される僧侶達の存在があったのです。今回は、三英傑それぞれの歴史と共に、彼らにとってなくてはならない腹心であった僧侶達との関係についてご紹介します。

戦国三英傑戦国三英傑
戦国時代の三英傑「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」についてご紹介します。

織田信長と沢彦宗恩

織田信長

織田信長

「泣かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」という俳句が象徴するように、目的のためなら手段を選ばない冷酷非道な君主というイメージが強い「織田信長」(おだのぶなが)。

しかし、高僧「沢彦宗恩」(たくげんそうおん)との関係性から眺めると、まったく違う表情が見えてきます。

沢彦宗恩の禅僧としての華麗なる経歴

沢彦宗恩に関する資料はあまり多くありませんが、1678年(延宝6年)に禅僧、「卍元師蛮」(まんげんしばん)が記した「延宝伝灯録」(えんぽうでんとうろく)によると、各地を行脚したあと、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の大本山である妙心寺の第一座となります。

そののち、美濃(みの:現在の岐阜県南部)の「大宝寺」(だいほうじ)の住持(じゅうじ:寺の住職)を経て、妙心寺第39世住持に就任。晩年は美濃の「瑞龍寺」(ずいりょうじ)に暮らし、1587年(天正15年)に入滅しました。これは、「本能寺の変」(ほんのうじのへん)から5年後のことです。

織田信長と沢彦宗恩との出会い

沢彦宗恩

沢彦宗恩

織田信長の父、「織田信秀」(おだのぶひで)の重臣に、「平手政秀」(ひらてまさひで)という戦国武将がいます。

「尾張の大うつけ」と呼ばれた織田信長の教育係として元服や初陣に立ち会い、「斎藤道三」(さいとうどうさん)の娘、濃姫(のうひめ)との結婚を取りまとめるなど、公私にわたって織田信長をサポートしてきた人物です。

ところが、平手政秀は、1553年(天文22年)に、織田信長宛ての諌書(かんしょ:諫める手紙)を残して自害してしまいます。

このとき平手政秀が、あとを託したのが沢彦宗恩。平手政秀は、もともと沢彦宗恩の「外護者」(げごしゃ)だったのです。外護者とは、在俗(ざいぞく)にありながら僧侶の修行をあらゆる面でサポートする人のことを言います。

諌書に何が書かれていたのかは定かではありませんが、そののち、織田信長は反省し平手政秀の菩提を弔うために、沢彦宗恩を開山(かいさん:新たに寺院を開創した僧侶)とする「政秀寺」(せいしゅうじ)を建立しました。

織田信長の助言者としての沢彦宗恩

織田信長が命名したことで知られる「岐阜」(ぎふ)や、印章に用いた言葉「天下布武」(てんかふぶ)を考えたのは、沢彦宗恩と言われています。高い知見を持つ沢彦宗恩は、織田信長にとって頼れる助言者だったことでしょう。

岐阜の誕生秘話

岐阜城

岐阜城

織田信長は美濃を攻略すると、稲葉山城(いなばやまじょう:のちの岐阜城[ぎふじょう])の城下町、井ノ口(いのくち)に新しい名前を付けるよう、沢彦宗恩に依頼。

そのとき、沢彦宗恩が候補として挙げたのが、岐阜、「岐山」(ぎざん)、「岐陽」(ぎよう)の3つ。

これは、「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という中国の故事にちなんでいると言われています。この3つの候補から織田信長が選んで、岐阜という地名が誕生しました。

天下布武の本当の意味とは?

一般的に天下布武は、「武力で天下を治める」という意味だと考えられていますが、別の説もあります。中国の古い歴史書「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)に記された「武有七徳」(七徳の武を備えた者が天下を治める)にちなみ、「七徳の武で平和に国を治める」という願いが込められていると言うのです。

織田信長のこれまでのイメージを覆す説ですが、沢彦宗恩に帰依していたとなると、まんざら外れていないのかもしれません。

豊臣秀吉と安国寺恵瓊

豊臣秀吉

豊臣秀吉

戦国時代に外交僧として毛利家に仕え、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)政権下でも手腕を発揮した臨済宗の僧侶、「安国寺恵瓊」(あんこくじえいけい)。

しかし、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では、敗れた西軍の首脳として公開処刑されたことから、愚僧と評価されることも。

悪僧か聖者か、その正体に迫ります。

毛利家と安国寺恵瓊

安国寺恵瓊の生い立ち

安国寺恵瓊

安国寺恵瓊

諸説ありますが、安国寺恵瓊が生まれたのは、1537年(天文6年) 頃とされています。

安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)「武田氏」(たけだし)の一族として生まれるも、幼少の頃に家は断絶。

最後の当主であった「武田信実」(たけだのぶざね)と、その従兄弟で安国寺恵瓊の父である「武田信重」(たけだのぶしげ)は、「佐東銀山城」(さとうかなやまじょう)内で自害。幼かった安国寺恵瓊は家臣に連れ出され「安国寺」(あんこくじ:現在の不動院[ふどういん])に身を寄せ、仏門に入ったのです。

修行に励む毎日を送っていた安国寺恵瓊は16歳のときに、人生を変える人物と出会います。その人物とは「東福寺」(とうふくじ)の高僧で、毛利家の外交僧を務めていた「竺雲恵心」(じくうんえしん)。ひと目で安国寺恵瓊の能力に気付いた竺雲恵心は、安国寺恵瓊を東福寺に呼び寄せました。

竺雲恵心のもとで修行を始めた安国寺恵瓊はたちまち頭角を現し、22歳で東福寺住職に就任。やがて師である竺雲恵心の跡を継いで、毛利家の外交僧として活躍するようになったのです。

毛利家の外交僧としての安国寺恵瓊

室町幕府最後の将軍、「足利義昭」(あしかがよしあき)が織田信長によって京から追放されると、足利義昭は、「打倒織田信長」を「毛利氏」(もうりし)に依頼。しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長を、敵にまわすことは得策でないと判断した毛利氏は、足利義昭に和平をすすめます。

このとき、和平交渉に尽力したのが安国寺恵瓊。そして、織田信長側の交渉役となったのは、「羽柴秀吉」(はしばひでよし)、のちの豊臣秀吉でした。しかし、足利義昭は織田信長が人質を差し出すことを条件とし、織田信長がこれを拒否したことから、交渉は決裂。足利義昭は、紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県全域、及び三重県南部)へと下ります。このとき、安国寺恵瓊は毛利氏を頼って西国に来ることは、迷惑であるとはっきり伝えたと言われているのです。

この約4年後、再び足利義昭が毛利領の鞆(とも)に拠点を移し、室町幕府再興のために動き始めると安国寺恵瓊の意に反して、毛利氏は織田信長と戦うことを余儀なくされてしまいました。

豊臣政権下での安国寺恵瓊

織田信長の命により、羽柴秀吉が西国に攻め入り、「備中高松城」(びっちゅうたかまつじょう)で攻防戦を繰り広げていたとき、「本能寺の変」が勃発。一時停戦し、羽柴秀吉と毛利氏は和平を結ぶことになります。

このとき、和平のための条件を取りまとめたのも安国寺恵瓊。羽柴秀吉への領土の割譲にあたっては、5ヵ国の要求を3ヵ国にさせるなど、譲歩を引出し、さらに羽柴秀吉からの信任を得ることにも成功したのです。こうして、毛利氏が羽柴秀吉の傘下に入ると、安国寺恵瓊は豊臣政権下でも活躍するようになりました。

検使としての安国寺恵瓊

黒田官兵衛

黒田官兵衛

九州島津氏討伐の際、安国寺恵瓊は「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)こと「黒田孝高」(くろだよしたか)と共に、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県北西部)の検使に任命され、戦に参加する諸大名との連絡役として従事します。

そして、豊臣勢が九州進出に成功すると、国分けにおいて、島津氏との折衝にもあたったのです。

軍目付としての安国寺恵瓊

肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)一揆においては、「軍目付」(いくさめつけ)の役割を果たした安国寺恵瓊。軍目付とは、戦において諸大名達の働きを記録する役職のこと。この記録をもとに恩賞の配分が決まりました。

軍師としての安国寺恵瓊

小早川隆景

小早川隆景

文禄の役」(ぶんろくのえき)、「慶長の役」(けいちょうのえき)で朝鮮に渡海した安国寺恵瓊は、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)と共に、全羅道(ぜんらどう/チョルラド)に侵攻。交渉役や情報収集など、主に外交僧としての役割を担い、現地の子供に「いろは」を教えたという記録が残っています。2度目の渡海となる慶長の役では、「安国寺恵瓊組」が組織され、組頭として戦闘の指揮も執りました。

関ヶ原の戦いと安国寺恵瓊

豊臣秀吉の死後、「徳川家康」(とくがわいえやす)が率いる「東軍」と、毛利家当主「毛利輝元」(もうりてるもと)と「石田三成」(いしだみつなり)が率いる反徳川勢力の「西軍」が対立すると、安国寺恵瓊は、薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)の島津氏などの有力な大名に対して、西軍に味方するよう奔走。しかしその甲斐もむなしく、関ヶ原の戦いで西軍は破れてしまったのです。

敗因のひとつは、毛利家の分断。かつて毛利家には、長年「家」を支えてきた「毛利両川」(もうりりょうせん)と称された政治体制がありました。その名称の由来となったのが、「毛利元就」(もうりもとなり)の三男である小早川隆景と、同じく次男の「吉川元春」(きっかわもとはる)。小早川隆景と吉川元春が、中国地方の有力土豪であった「小早川氏」(こばやかわし)と「吉川氏」(きっかわし)のもとへ養子として入ることで、両家の勢力を吸収。両家の姓に「川」の字が付くことから、「両川」(りょうせん)と呼ばれることになったのです。この毛利両川体制を敷いたことにより、毛利家が、安芸国をすべて配下に収めることになりました。

しかし、この関ヶ原の戦いにおいては、小早川隆景の養子、「小早川秀秋」(こばやかわひであき:豊臣秀吉正室の高台院[こうだいいん]の甥)は、東軍に寝返り、吉川元春の死後、家督を継いだ三男の「吉川広家」(きっかわひろいえ)は、出陣を拒否。

西軍の「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)が宰相の「毛利秀元」(もうりひでもと)に、吉川広家を出陣させるよう催促すると、困った毛利秀元は「今、兵に弁当を食べさせている」とその場を取り繕ったとか。これにより「宰相殿の空弁当」(さいしょうどののからべんとう)という言葉も生まれました。

敗戦後、安国寺恵瓊は石田三成らと共に六条河原で斬首され、さらし首にされてしまいます。毛利家と豊臣家に並々ならぬ恩義を感じていた安国寺恵瓊が取った行動は、愚行なのか美談なのか。その評価は、時代の価値観によって変わるものなのかもしれません。

徳川家康と南光坊天海と金地院崇伝

徳川家康、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、「徳川家光」(とくがわいえみつ)と3世代に亘って仕えた「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)と「金地院崇伝」(こんちいんすうでん)。

幕府の黎明期に統治システムを確立したこの2人の高僧がいなければ、徳川幕府約260年の歴史はなかったと言っても、過言ではないかもしれません。

徳川家康との出会い

徳川家康

徳川家康

1536年(天文5年)に、陸奥国(むつのくに:現在の福島県宮城県岩手県青森県全域、及び秋田県の一部)の「蘆名氏」(あしなし)の一族として生まれ、11歳で出家した南光坊天海。

下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)の「粉河寺」(こかわでら)や比叡山(ひえいざん)、足利学校などで研鑽を積み、黒川城(くろかわじょう:現在の鶴ヶ城[つるがじょう])の「稲荷堂」(いなりどう)、「江戸崎不動院」(えどさきふどういん)、「無量寿寺喜多院」(むりょうじゅじきたいん)の住持などを歴任しました。

徳川家康のブレーンとして活躍するようになるのは、1608年(慶長13年)頃のこと。当時、徳川家康は、しばしば各宗派の僧侶を集めて論議させたそうです。南光坊天海も、この「御前論議」(ごぜんろんぎ)にて、天台宗の代表として論議を行ない、その学識の深さを認められたと考えられています。

徳川幕府への功績

徳川家康の信任を得た南光坊天海は、比叡山復興を命ぜられ、「比叡山延暦寺」(えんりゃくじ)の「南光坊」に住んだことから、南光坊と称するようになりました。そののち、「関東天台宗法度」(かんとうてんだいしゅうはっと)の制定にかかわり、自身が侍従を務める無量寿寺喜多院を、関東天台宗の本山に定めます。これにより関東天台宗は、朝廷との結び付きが強かった比叡山から自立し、相対的に幕府の力を高めることにも貢献したのです。

日光東照宮の造営

日光東照宮

日光東照宮

徳川家康の没後、「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)の造営を取り仕切ったのも、南光坊天海。

徳川家康を神格化するにあたり、神号を巡って吉田神道に基づく「明神」を主張する金地院崇伝と意見が対立します。

南光坊天海は豊臣秀吉が「豊国大明神」(とよくにだいみょうじん)となったあと、豊臣政権が滅亡したことから明神は縁起が悪いとし、「山王一実神道」(さんのういちじつしんとう)に基づく「権現」(ごんげん)を主張。

この意見が通り、徳川家康は「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)として日光に祀られました。

旅探「全国の神社・寺・教会」旅探「全国の神社・寺・教会」
徳川家康を祀る日光東照宮をご紹介!ガイドブックや公式ホームページでは分からない生の声を掲載しています。

南光坊天海は「明智光秀」の世を忍ぶ仮の姿?

日光東照宮に、明智家桔梗紋に似た紋があることなどを根拠に、南光坊天海は、「明智光秀」(あけちみつひで)の世を忍ぶ仮の姿であるという説があります。もしこれが事実だとすると、南光坊天海は享年115歳ほどとなり、少々無理があるようです。

しかし、1643年(寛永20年)に没しているため、100歳を超える長寿であったことは間違いありません。徳川秀忠、徳川家光の代には、東の比叡山として「東叡山寛永寺」(とうえいざんかんえいじ)を創建。比叡山と平安京を模した、江戸の町づくりを行ないました。

金地院崇伝と徳川幕府

徳川家康に出会うまでの金地院崇伝

金地院崇伝

金地院崇伝

「以心崇伝」(いしんそうでん)という名でも知られる金地院崇伝は、南光坊天海から遅れて33年後の、1569年(永禄12年)に生まれます。

父は、足利13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕えた「一色秀勝」(いっしきひでかつ)。金地院崇伝の誕生から4年後に室町幕府は滅亡し、父も亡くなったため、「南禅寺」(なんぜんじ)で修行を始めました。

豊臣秀吉の外交僧であり、徳川家康の外交顧問としても活躍した禅僧、「西笑承兌」(せいしょう/さいしょうじょうたい)にも師事。金地院崇伝は、早くから頭角を現し、37歳で「建長寺」(けんちょうじ)と南禅寺の住持となり、50歳で禅宗寺院の管理と人事を統括する僧録に就任。1626年(寛永3年)には、国師号(称号)を「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)から授けられます。

徳川幕府への功績

西笑承兌の紹介で、1608年(慶長13年)頃から、徳川家康の書記係を務めるようになった金地院崇伝。やがて「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)や「寺院諸法度」(じいんしょはっと)、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)、「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)を次々と制定し、江戸幕府による支配体制の基盤を作ったのです。その過程で起きた、「方広寺の鐘銘事件」(ほうこうじのしょうめいじけん)や「紫衣事件」(しえじけん)を画策したのも、金地院崇伝だったと言われています。

方広寺の鐘銘事件と紫衣事件

方広寺の釣鐘

方広寺の釣鐘

方広寺の鐘銘事件は、豊臣家が再建した方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」(こっかあんこう)、「君臣豊楽」(くんしんほうらく)に、徳川家康呪詛の意図があると難癖を付けた事件。

これにより、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)追討の大義名分を得た徳川家康は、「大坂夏の陣」に突入します。

一方、紫衣事件は禁中並公家諸法度にかかわる事件。この法度により、朝廷が高僧に紫色の法衣を授与することを規制しますが、後水尾天皇は、紫衣着用の許可を与え続けました。

これを知った幕府は、法度発令以降に与えられた紫衣を無効にしたため、「大徳寺」(だいとくじ)や妙心寺の高僧が、反発して抗議文を送る事態に。幕府は、反抗した高僧を流罪に処します。このとき、出羽国(でわのくに:現在の山形県、及び秋田県)に流罪となった「沢庵宗彭」(たくあんそうほう)は、金地院崇伝を「天魔外道」(てんまげどう:仏教を信仰せず、仏道の妨げとなる人)と評したと言われているのです。

三英傑を支えた僧

三英傑を支えた僧をSNSでシェアする