後世に名を残した黒衣の宰相

武将を支えた僧

文字サイズ

世の中が目まぐるしく移り変わっていた戦国時代。戦国武将達のたったひとつの目的は、「領地を拡大し、天下統一を果たすこと」。この悲願を叶えるためには、幾度も戦を繰り返すための武力はもちろんのこと、政治的な才略(さいりゃく:はかりごと)も必要不可欠でした。
今回は、その節目節目で中心的な役割を担っていた7人の戦国武将を取り上げると共に、その武将達に良きアドバイザーとして仕え、また、ときには陰で操る黒幕とも言えるほどの手腕を発揮した、「黒衣の宰相」(こくえ/こくいのさいしょう)と呼ばれる5人の僧侶と、それぞれの武将との関係についてご説明します。

足利尊氏と夢窓疎石

足利尊氏

足利尊氏

「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)、「光明天皇」(こうめいてんのう)、「光厳天皇」(こうごんてんのう)、「後光厳天皇」(ごこうごんてんのう)、「後円融天皇」(ごえんゆうてんのう)、「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)、「後土御門天皇」(ごつちみかどてんのう)と7代の天皇から国師号(称号)を賜り、「七朝帝師」(しちちょうていし)と称される「夢窓疎石」(むそうそせき)。

血で血を洗う戦乱の世の罪深き将軍、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)も、その人徳と学識にすがったようです。

足利尊氏と出会うまでの夢窓疎石

夢窓疎石

夢窓疎石

1275年(文永12年/建治元年)に生まれた夢窓疎石は、9歳で出家して天台宗や真言宗を学び、17歳のときに東大寺で授戒(じゅかい:仏門に入ること)します。

そののち、禅宗に改宗すると、京都の「建仁寺」(けんにんじ)や鎌倉の「建長寺」(けんちょうじ)など、各地を転々としながら修行を続け、1325年(正中2年)に、後醍醐天皇の要請により、「南禅寺」(なんぜんじ)の住持(じゅうじ:寺の住職)に就任。

翌年、南禅寺を退くと、伊勢(いせ:現在の三重県東部)に「善応寺」(ぜんおうじ)、鎌倉に「瑞泉寺」(ずいせんじ)、甲斐(かい:現在の山梨県)に「恵林寺」(えいりんじ)、播磨(はりま:現在の兵庫県南西部)に「瑞光寺」(ずいこうじ)などを開創(かいそう:寺を開くこと)。途中、「北条高時」(ほうじょうたかとき)に請われて「円覚寺」(えんがくじ)の住持も務めました。

足利尊氏が夢窓疎石に帰依するようになるのは、1336年(建武3年[北朝]/延元元年[南朝])、室町幕府が成立した年のこと。このとき夢窓疎石は、すでに還暦を過ぎていたのです。

激動の時代を生きた足利尊氏と夢窓疎石

鎌倉幕府から室町幕府への移行期は、夢窓疎石にとっても激動の時代だったに違いありません。有力な外護者(げごしゃ)であった後醍醐天皇が、「建武の新政」を開始すると、その2年後に足利尊氏が新政から離反し、室町幕府を開きます。

すると足利尊氏もまた、夢窓疎石に帰依し、弟子の礼を執り行ないました。もともと信仰に厚かった足利尊氏に、夢窓疎石は、「仁山」(じんざん)という道号(どうごう:僧侶が付ける号)を与えます。

これは「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」という「論語」(ろんご)にちなんだもの。夢窓疎石は足利尊氏のことを、死を怖れない強さ、敵を許す慈悲深さ、物惜しみしない心の広さ、という3つの徳を持っていると評価していたと言います。

観応の擾乱

一方、政権を追い出された後醍醐天皇は、吉野(よしの)に脱出して南朝を立てますが、その3年後に崩御。このとき、夢窓疎石は後醍醐天皇の霊を弔うため、「天龍寺」(てんりゅうじ)を創建するようにアドバイスしています。

そののち、時代は足利尊氏と弟の「足利直義」(あしかがただよし)が、南朝の勢力を巻き込んで激しく対立する「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)に突入。

足利直義もまた、夢窓疎石を師と慕っており、夢窓疎石は兄弟を和解させようと奔走します。しかし、夢窓疎石の説得もむなしく、観応の擾乱は1349~1352年(貞和5[北朝]/正平4[南朝]~観応3年/正平7年)まで続き、足利直義の死によって決着。「太平記」(たいへいき)には、足利尊氏による毒殺であると記されているのです。

足利3代将軍と満済准后

満済准后

満済准后

足利義満」(あしかがよしみつ)、「足利義持」(あしかがよしもち)、「足利義教」(あしかがよしのり)と3代の足利将軍に仕え、僧侶でありながら「准后」(じゅごう:准三后[じゅさんごう]の略。太皇太后宮[たいこうたいごうぐう]・皇太后宮[こうたいごうぐう]・皇后宮[こうごうぐう]の3后に準ずる地位のこと)の称号を賜った「満済」(まんさい)。

宗教と政治の両面から将軍を支え、幕府にとってなくてはならない存在となっていく過程は、自身が記した「満済准后日記」に観ることができます。

3代将軍・足利義満と満済准后

足利義満

足利義満

1378年(永和4年[北朝]/天授4年[南朝])に生まれた満済准后は、6歳頃に父を亡くすと、実兄の「二条師冬」(にじょうもろただ)に養育されるようになります。

そして、その妻の白川殿が室町幕府3代将軍・足利義満の御台所(みだいどころ:将軍家などの貴人の妻に対して用いられる敬称)、「日野業子」(ひのなりこ)に仕えていた縁で、満済准后は、足利義満の猶子(ゆうし:必ずしも家督相続を目的としない養子)として迎え入れられました。

そして、足利義満の意向で、1395年(応永2年)に「醍醐寺」(だいごじ)の三宝院(さんぼういん)の門跡(もんせき:皇族・公家が住職を務める特定の寺院、またその住職のこと)になり、その翌年には醍醐寺の座主(ざす:山の寺のことを統轄する首席の僧)に就任します。宗教家として最高位のポストを得た満済准后は、将軍の近臣のひとりとして、諸行事などにも随行するようになったのです。

4代将軍・足利義持との関係

満済准后が室町殿(むろまちどの:足利将軍家の邸宅)の正式な武家護持僧になるのは、1408年(応永15年)に足利義満が没し、4代将軍・足利義持が実質的に政治を行なうようになってからのこと。複数人いる護持僧を統括して室町殿を護持するための祈祷などを行ないつつ、幕政にもかかわるようになっていきます。

上杉禅秀の乱が勃発

初期の室町幕府にとって、関東の鎌倉府は厄介な存在でした。1416年(応永23年)には、「上杉禅秀の乱」(うえすぎぜんしゅうのらん)が勃発。

前関東管領(かんとうかんれい)の「上杉氏憲」(うえすぎうじのり)のちの「上杉禅秀」(うえすぎぜんしゅう)が、「足利持氏」(あしかがもちうじ)の叔父である「足利満隆」(あしかがみつたか)と共に、第4代鎌倉公方(かまくらくぼう:室町幕府により設置された鎌倉府の長官)であった足利持氏に対して謀反を起こします。

足利義持は足利持氏の求めに応じて、上杉氏憲討伐に乗り出しますが、やがて幕府と足利持氏も対立するようになり、その決着は、6代将軍・足利義教の時代まで尾を引くことになったのです。満済准后は、幕府を支える有力大名らと足利義持の間に立って意見を調整し、伝達する役割を担っていたため、大名が集まって関東の問題への対応を協議するための会議にも立ち会っていました。

6代将軍・足利義教との関係

「くじ引き将軍」の異名もある6代将軍足利義教。兄の足利義持が後継者を任命せずに亡くなり、くじ引きで決められたことから、こう呼ばれています。

このくじ引きを提案した者こそ満済准后。満済准后は、くじの作成を依頼され、4人の候補者の名前を札に書いて封印し、その翌日、「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう)でくじ引きが行なわれたと言われているのです。

子どもの頃に出家していた足利義教が将軍になるためには、還俗(げんぞく)や元服(げんぷく)などの手続きが必要でした。満済准后は、これらの手続きの一切についてもサポートしています。

足利義教の代になり、大名への諮問(しもん:意見を尋ねること)を将軍が直接行なうようになると、諮問内容を調整する役割を担っていた満済准后の存在感は、さらに高まっていきました。政治顧問としての満済准后の仕事は、内政にかかわるものだけでなく、外交にも及んだのです。

1434年(永享6年)に、明(みん:中国の王朝)からの国書を携えた唐舟(からぶね)が入港すると、満済准后は足利義満の時代の例を参考に、使節団への対応を足利義教に指導しました。気性が激しく恐怖政治を行なったことで知られる足利義教ですが、満済准后には頭が上がらなかったようです。

今川義元と太原雪斎

今川義元

今川義元

幼少の頃から「今川義元」(いまがわよしもと)を支え、軍師としても活躍した「太原雪斎」(たいげんせっさい)。

武田氏の軍師「山本勘助」(やまもとかんすけ)が、「今川は悉皆坊主[しっかいぼうず:太原雪斎のこと]なくてはならぬ家」と語ったように、今川氏の隆盛(りゅうせい:繁盛して盛んなこと)は、太原雪斎の活躍と共にありました。

出会いは今川義元の教育係り

1496年(明応5年)に、代々今川氏(いまがわし)の重臣を務める家系に生まれた太原雪斎は、10歳で出家し、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部)の「善徳寺」(ぜんとくじ)に入ります。そののち、上洛(じょうらく)して建仁寺や「妙心寺」(みょうしんじ)で修行。1550年(天文19年)に妙心寺の35世侍従に就任しました。

今川義元との出会いは、1522年(大永2年)、今川義元が4歳頃とされています。今川氏9代当主、「今川氏親」(いまがわうじちか)の五男として生まれた今川義元は、幼くして善徳寺に出家。太原雪斎は今川氏親に請われて、今川義元の教育係を務めるようになったのです。

今川義元の還俗

1526年(大永6年)に今川氏親が亡くなり、1536年(天文5年)に、その跡を継いだ嫡男の「今川氏輝」(いまがわうじてる)と次男の「今川彦五郎」(いまがわひこごろう)が謎の死を遂げると、その跡目を巡ってお家騒動が勃発します。

対立したのは、五男の今川義元と三男の「玄広恵探」(げんこうえたん)。2人は異母兄弟であり、今川義元の母親は今川氏親の正室(せいしつ)で、実質的に今川氏を支配していた「寿桂尼」(じゅけいに)。

一方、玄広恵探は側室の子。我が子に家督を継がせようと画策する寿桂尼派に反発した玄広恵探は、母の外戚である福島氏の協力を得て挙兵。「花倉城」(はなくらじょう)に籠城しますが、攻め込まれて自刃したのです。

この「花倉の乱」(はなくらのらん)までの一連の流れの中で、寿桂尼に協力し、今川義元を還俗させて大名に押し上げた陰の立役者こそ太原雪斎と言われ、一部では、今川氏輝と今川彦五郎の死も、太原雪斎が指示した暗殺だったのではないかという憶測を呼んでいます。

軍師として「甲相駿三国同盟」の締結に貢献

花倉の乱に勝利し、今川義元が今川氏11代当主となると、太原雪斎は軍師として今川義元をサポートするようになります。なかでも有名なのは、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)の締結です。

駿河の今川氏と相模(さがみ:現在の神奈川県の大部分)の北条氏(ほうじょうし)の間には、領国の境界をめぐる長年の確執があり、今川氏と同盟を結んでいた甲斐の武田氏(たけだし)も巻き込んで、度々戦が起こっていました。

これに決着を付けるため、太原雪斎のお膳立てで、駿河の今川義元、甲斐の「武田信玄」(たけだしんげん)、相模の「北条氏康」(ほうじょううじやす)が善徳寺に集まり、同盟を結んだと言われていることから、「善徳寺の会盟」(ぜんとくじのかいめい)とも呼ばれています。この同盟締結によって、今川氏は西方への進出に集中できるようになりました。

人質・竹千代奪還作戦

1547年(天文16年)に「織田信長」(おだのぶなが)の父である「織田信秀」(おだのぶひで)が三河(みかわ:現在の愛知県東部)に攻め込むと、三河の「松平広忠」(まつだいらひろただ)は、今川氏に援軍を求めます。

すると今川義元は、人質として嫡男の「松平竹千代」(まつだいらたけちよ)を差し出すことを要求。ところが、駿府に送る途中で、松平竹千代を織田軍に奪われてしまったのです。これに激怒した太原雪斎は自ら兵を率いて、織田軍の拠点であった「安祥城」(あんじょうじょう)を攻撃。織田信秀の長男である「織田信広」(おだのぶひろ)を捕らえ、松平竹千代との交換を要求します。

ようやく今川氏の人質となった松平竹千代は、太原雪斎から直々に教育を受け、天下泰平の世を築いた、あの「徳川家康」(とくがわいえやす)へと成長していくのです。

井伊直虎と南渓瑞聞

2017年(平成29年)の大河ドラマに取り上げられ、一躍有名になった「おんな城主 井伊直虎」(おんなじょうしゅいいなおとら)。戦乱の世に女性として生まれながら、城主となることを運命付けられた彼女にも、「南渓瑞聞」(なんけいずいもん)という頼れる参謀がいました。

おんな城主、井伊直虎

今川氏の配下にあった遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)の国衆(くにしゅう:小領主)、井伊氏(いいし)22代当主「井伊直盛」(いいなおもり)のひとり娘として生まれた井伊直虎。何度となく井伊氏を襲うお家の危機をなんとかしのぎ、のちに徳川四天王(徳川家康を支えた4人の重臣)のひとりとなる、24代当主、「井伊直政」(いいなおまさ)まで持ち堪えさせた功労者です。

井伊直虎が出家した理由

井伊直虎

井伊直虎

跡取りとなる男児がいなかった井伊直盛は、叔父の「井伊直満」(いいなおみつ)の子、「井伊直親」(いいなおちか)を養子とし、井伊直虎の許嫁としました。

しかし、1544年(天文13年)、井伊直親の父、井伊直満が今川氏への謀反の疑いをかけられて惨殺されてしまい、今川氏の怒りはまだ幼かった井伊直親にも及び、井伊氏は井伊直親を信濃(しなの)に逃がします。

許嫁を失った悲しみからか、これをきっかけに菩提心(ぼだいしん:さとりを求める心)が深かった井伊直虎は出家し、南渓瑞聞のもとで修行を始めたのです。

おんな城主誕生

井伊直虎の出家後、1555年(天文24年/弘治元年)に井伊直親は井伊谷(いいのや)に戻り、井伊直盛の養子となりますが、井伊氏には不幸が続きます。1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で今川方として出陣していた父、井伊直盛が討ち死に。

永年5年(1562年)には23代当主となった井伊直親が、徳川家康と内通していたという容疑で、今川氏に殺害されました。また、その翌年には、曽祖父で20代当主の「井伊直平」(いいなおひら)も、今川氏の命令で武田軍を攻める途中、謎の死を遂げます。

こうして次々と当主となるべき男衆を失ってしまった井伊氏。井伊直親には子、「井伊虎松」(いいとらまつ:のちの井伊直政)がいましたが、まだ幼かったため、井伊直虎が後見となり、井伊谷城城主として井伊氏を束ねることになったのです。

井伊直虎を支えた南渓瑞聞

龍潭寺

龍潭寺

南渓瑞聞は、井伊氏の菩提寺である「龍潭寺」(りょうたんじ)の2世住持であり、20代当主、井伊直平の養子でもあります。

つまり井伊直虎にとっては大叔父。「一子出家すれば、九族天に生ず」と言われた戦国時代において、南渓瑞聞もまた、井伊氏を守るという使命を人一倍感じていたのです。

まだ幼かった井伊直親を信濃に逃したのも南渓瑞聞、井伊直虎を城主にしたのも南渓瑞聞。数々の危機を乗り越えて来た井伊氏のそばには、必ず南渓瑞聞の姿がありました。

法名に込めた想い

井伊直虎が出家したときに「次郎法師」(じろうほうし)と名付けたのも南渓瑞聞です。次郎法師は井伊氏本家の惣領(跡取り)が名乗る通称。還俗が難しい尼の名前でなく、あえて次郎法師としたのには、いずれ井伊直虎が井伊家の当主となる可能性を見越し、その覚悟を井伊直虎自身に植え付ける意味もあったのかもしれません。

井伊氏再興までの道のり

桶狭間の戦いで今川義元が死亡すると、遠江は「遠州錯乱」(えんしゅうさくらん)と言う混乱期に突入。井伊直虎が城主となったあとの井伊氏も、この混乱に巻き込まれ、井伊谷城は、遠江を平定した徳川家康の支配下となります。

これで井伊家は完全に没落したかのように見えましたが、南渓瑞聞と井伊直虎は井伊家の再興を諦めませんでした。1575年(天正3年)に井伊虎松が15歳になると、徳川家康に仕えさせたのです。そして、徳川家康のもとで数々の功を立てた井伊虎松は、やがて24代当主・井伊直政となり、見事に井伊家の再興を遂げました。

1584年(天正12年)の徳川家康、「織田信雄」(おだのぶかつ)と「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉[とよとみひでよし])が争った「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)に井伊虎松が出陣する際は、武術に長けた龍潭寺の僧侶2名を派遣したと言います。井伊虎松の出世は、南渓瑞聞と井伊直虎、そして井伊虎松自身の、井伊家再興にかけるなみなみならぬ執念のたまものなのです。

武田信玄と快川紹喜

武田信玄と「武田勝頼」(たけだかつより)、親子2代に亘って武田家の外交僧を務めた「快川紹喜」(かいせんじょうき)は、武田家の滅亡と共に、かの有名な「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と言う言葉を残して、壮絶な最期を遂げます。

武田信玄に出会うまでの快川紹喜

快川紹喜は美濃(みの:岐阜県南部)の出身で、俗姓は土岐氏(ときし)、武家出身のようです。美濃の南泉寺(なんせんじ)の第2世住持を経て、妙心寺第43世住持に就任。そののち、再び美濃に戻り、「崇福寺」(そうふくじ)の住持となります。

斎藤道三

斎藤道三

この頃、美濃では「斎藤道三」(さいとうどうさん)の跡目を巡ってお家騒動が勃発。

長男の「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)が弟の「斎藤孫四郎」(さいとうまごしろう)と「斎藤喜平次」(さいとうきへいじ)を殺害し、「長良川の戦い」(ながらがわのたたかい)で斎藤道三の首を取ったのです。

そののち、斎藤義龍は、「伝灯寺」(でんとうじ)を創建し、自分が帰依する禅僧、別伝(べつでん)を迎え、美濃の臨済宗寺院を統治させようとします。

これに大反対した快川紹喜は、妙心寺の他の派閥の禅僧を集結して会議を開くと、これに驚いた斎藤義龍は、すべてを別伝のせいにしました。すると、快川紹喜は別伝の処罰を妙心寺に訴え、別伝は僧籍を外されてしまいます。

この騒動で、快川紹喜は「斎藤義龍は一国の主、我どもは三界の師なり。三界の広きをもって、なんぞ一国の狭きに換えんや」(斎藤義龍は、しょせんただひとつの国を治める者にすぎません。それに対して、僧侶というのは世界全体、宇宙全体に連なる真の道を伝えるべき師匠なのです。その広大な真理の世界を、ちっぽけな領土などと引き替えることなどできましょうか)と言ったと伝えられているのです。

武田家滅亡とともに息絶えた快川紹喜

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

1561年(永禄4年)、快川紹喜は、武田信玄に恵林寺の住持として招聘(しょうへい)され、甲斐に入ります。それから約20年間、外交僧として、武田家と運命を共にしていったのです。

武田信玄が病気で亡くなったのは1573年(元亀4年/天正元年)のこと。「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)で織田・徳川軍に勝利した翌年のことでした。

武田信玄の死はしばらく秘密にされ、恵林寺で葬儀が行なわれたのは、その3年後。快川紹喜が大導師を務め、盛大に執り行なわれたと言います。

そののち、家督を継いだ四男の武田勝頼が、1575年(天正3年)に、「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で織田軍に敗戦したあとも、織田軍との対立は続きました。武田氏が劣勢になると、快川紹喜は、禅僧の人脈をたどって和睦の糸口を模索しますがそれも空しく、1582年(天正10年)、武田勝頼は、織田軍の追っ手から逃れる途中で逃げ場を失い自害、武田家は滅亡します。そして、織田氏の軍勢は恵林寺にも及び、快川紹喜と弟子達が逃げ込んだ山門に火を放ったのです。

快川紹喜の辞世「-心頭滅却すれば火もまた涼し」

快川紹喜の最期

快川紹喜の最期

焼き討ちにあった快川紹喜は、猛火に包まれながら「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」(あんぜんはかならずしもさんすいをもちいず しんとうをめっきゃくすればひもおのずからすずし)と辞世を残して、弟子達と共に最期を迎えました。

この言葉は中国の詩人、「杜筍鶴」(とじゅんかく)の「夏日題悟空上人院」(かじつごくうしょうにんのいんにだいす)という詩をもとにしており、禅の問答集「碧巌録」(へきがんろく)にも引用されています。「座禅をするには必ずしも山水は必要ない。心頭滅却すれば火もまた涼し」という意味です。死の間際まで凛と生きた快川紹喜は、禅僧の鏡と言えるかもしれません。

武将を支えた僧

武将を支えた僧をSNSでシェアする