後世に名を残した黒衣の宰相

戦乱の世の僧侶

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「僧侶」とは、出家して仏道を修行する人達のこと。現代では、それ以上でもそれ以下でもない僧侶の役割ですが、神仏が現代よりももっと身近だった時代の僧侶には、実に様々な役割がありました。なかでも、有力者の右腕となり、政治にも大きな影響を与えていた僧侶は、「黒衣の宰相」(こくえ/こくいのさいしょう)との異名を取り、その活躍ぶりが語り継がれています。
ここでは、戦国時代における僧侶の役割をご説明すると共に、黒衣の宰相として名を馳せた2人の僧侶、「信西」(しんぜい)と「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)についてもご紹介します。

戦乱の世の僧侶の役割

戦国武将達が入り乱れ、戦いに明け暮れる戦乱の世で、僧侶達はどのような役割を担っていたのか、詳しくご紹介します。

僧兵としての僧侶

僧兵

僧兵

武装した僧侶である「僧兵」(そうへい)。

平安時代になると、広大な荘園(しょうえん:貴族や社寺の私有地のこと)を持つ寺院は、侵略者から寺領を守り、年貢を取り立てるために武装するようになります。

そして、やがて巨大な武力集団となり、朝廷に対しても強訴(ごうそ:徒党を組んで訴えること)を行なうようになりました。

「白河法皇」(しらかわほうおう)の言葉で以下のようなものがあります。

「賀茂河の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)、是ぞわが心にかなわぬもの」

<現代語訳>
京都を流れる鴨川の水害、サイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵、この3つが思う通りにならない

為政者にとって、僧兵がいかに頭の痛い存在であったかが分かるのです。

この状態は、戦国時代まで続き、室町時代には6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)が延暦寺討伐に乗り出し、戦国時代には「織田信長」(おだのぶなが)が延暦寺を焼き討ちにしたことはよく知られています。

政僧・外交僧としての僧侶

今川義元

今川義元

対外的な交渉事を担い、戦においては軍師として戦略や戦術を練るなど、政治的に主君をサポートした僧侶のことを「政僧」(せいそう)、または「外交僧」(がいこうそう)などと言います。

今川義元」(いまがわよしもと)に仕えた「太原雪斎」(たいげんせっさい)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕えた「安国寺恵瓊」(あんこくじえっけい)などは、その秀でた手腕から「黒衣の宰相」(こくえ/こくいのさいしょう)などとも呼ばれているのです。

飛鳥時代に仏教が伝来してから江戸時代まで、僧侶は大陸の進んだ学問をいち早く学べる知識階級でした。仏教だけでなく、天文や暦、兵法など、幅広い知識を身に付けた僧侶は、時の権力者にとって欠かせない存在だったのです。

僧医としての僧侶

僧侶が大陸から持ち込んだ物の中には、医学もあります。

仏教と医療は密接な関係にあり、僧侶が衆生(しゅじょう:生命のあるすべてのもの)を救うためには、声明(しょうみょう:言語学・文学)、工巧明(くみょうぎょう:工芸技術・算法暦法)、医方明(いほうみょう:医学・薬学・呪法)、因明(いんみょう:論理学)、内明(ないみょう:哲学・仏教学)という「五明」(ごみょう)を修する必要があると考えられていました。つまり、僧侶にとって医学は基礎教養のひとつだったのです。

奈良時代には、「看護禅師」(かんごぜんじ)と呼ばれる禅宗の僧侶が、天皇を始めとする皇族の病気平癒のために加持祈祷を行なっていました。

護持僧としての僧侶

平安時代になると看護禅師は、加持祈祷だけを行なう「護持僧」(ごじそう)と名前を変え、医療を行なう宮廷医と区別されるようになりました。最初の護持僧は、「桓武天皇」(かんむてんのう)に仕えた「最澄」(さいちょう)と言われています。

鎌倉時代になると、幕府も護持僧を置くようになり、鎌倉には、将軍を護持するための天台・真言の密教寺院が次々と建てられました。護持僧が行なう祈祷は、将軍個人の健康に関することから、争いの鎮圧といった政治に関するものまで、多岐に亘るようになります。

将軍家を守る護持僧は、将軍護持僧・武家護持僧などとも呼ばれ、室町幕府の足利将軍や江戸幕府の徳川将軍の時代まで続いたのです。

後白河上皇と信西

今様(いまよう:流行歌)に夢中だった青年を政界に引っ張り出し、天皇に押し上げた「信西」(しんぜい)。出家によって世俗の約束事から解放された信西は、強力な政治力を発揮し、中世の朝廷の枠組みを確立していきます。そして、その天皇は、のちに5代の天皇に亘って院政を行なった「後白河上皇」(ごしらかわじょうこう)へと成長していくのです。

藤原通憲から信西へ

信西

信西

藤原南家の流れをくみ、代々学者の家系に生まれた信西。

出家前の名前は、「藤原通憲」(ふじわらのみちのり)と言います。

しかし、幼い頃に父の「藤原実兼」(ふじわらのさねかね)が急死し、下級武士の「高階経敏」(たかしなのつねとし)の養子となりました。

諸学に通じ、「崇徳天皇」(すとくてんのう)、「鳥羽上皇」(とばじょうこう)にも仕えますが、家柄を重視する公家社会では出世が見込めないことを悲観して、1144年(康治3年/天養元年)に出家。鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと、高階姓から藤原姓への復姓を認め、少納言に任命するなどしますが、信西の意志は固かったようです。

青年期の後白河上皇を支えた信西

保元の乱

恐らく出家の本当の狙いは、別のところにあったのでしょう。信西は、出世の野望を捨てていませんでした。妻、朝子(あさこ/ともこ)が「雅仁親王」(まさひとしんのう)の乳母であったことから、「近衛天皇」(ここのえてんのう)が亡くなると、雅仁親王を即位させるために尽力し、みごと「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)が誕生します。

後白河天皇は、「いたくさただしく御遊びなどありて、即位の器量にはあらず」(評判になるほど、遊芸を好み、帝にはふさわしくない)と評された人物。信西にとっては、上手く担ぎ上げ、実権を握るのに最適な人物だったのです。

そして、これを不服とする「崇徳上皇」(すとくじょうこう)と対立して「保元の乱」(ほうげんのらん)が勃発。信西は、「源義朝」(みなもとのよしとも)が提案する夜襲を採用し、後白河天皇を勝利に導きます。

平治の乱

保元の乱から2年後、後白河天皇は、息子の「二条天皇」(にじょうてんのう)に皇位を譲り、院政を開始。実質的な為政者となった信西はまず、死刑制度を復活し、崇徳上皇側に付いた「源為義」(みなもとのためよし)や「平忠正」(たいらのただまさ)を処刑します。

そして「九州の地[全国]はひとり[天皇や上皇など治天の君]の物である」で始まる「保元新制」を制定。荘園を整理し、摂関家や貴族、大寺社の勝手な振る舞いを禁じ、後白河天皇による支配を確実なものにしました。

源頼朝

源頼朝

しかし、これらの政策を行なう上で、息子の「藤原俊憲」(ふじわらのとしのり)を要職に就けたことなどが、「藤原信頼」(ふじわらののぶより)ら他の側近の反感を買い、「平治の乱」で殺されてしまいます。

そのあと、後白河上皇は、時流を読みながら味方に付ける武士を巧みに変え、二条天皇から六条天皇(ろくじょうてんのう)、高倉天皇(たかくらてんのう)、安徳天皇(あんとくてんのう)、「後鳥羽天皇」まで院政を行ないました。

このことから「源頼朝」(みなもとのよりとも)は、後白河上皇のことを「日のもと一の大天狗」と皮肉っています。

源義経と武蔵坊弁慶

平氏討伐の立役者でありながら悲劇の死を遂げた「源義経」(みなもとのよしつね)と、源義経への忠義を貫いた怪力の僧兵、「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)。個性際立つ2人のエピソードは、後世の人々の想像力を掻き立て、能や浄瑠璃、歌舞伎や謡曲などにも取り上げられています。

鞍馬天狗ゆずりの剣豪「源義経」

源義経

源義経

源義朝と、絶世の美女とうたわれた「常盤御前」(ときわごぜん)との間に生まれた源義経。

幼名を「牛若丸」(うしわかまる)と言い、源頼朝は異母兄弟にあたります。

源義経が生まれてすぐに平治の乱で源義朝が討たれると、常盤御前は子ども達の命を守るために、「平清盛」(たいらのきよもり)の妾になったと言われているのです。

まだ幼かった源義経は、鞍馬寺に預けられ、鞍馬山の大天狗に剣術や兵法を教わったという伝説が残っています。その後、僧になることを嫌った牛若丸は、鞍馬寺を出て、奥州の「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)のもとに身を寄せました。

そして、1180年(治承4年)に、「以仁王」(もちひとおう)が平氏討伐の令旨を出すと、兄の源頼朝らと共に「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)へと突き進んでいくのです。

源義経と武蔵坊弁慶、五条大橋での出会い

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶の出自は明らかではありませんが、「義経記」などには、熊野別当(熊野三山を統括する)の「湛増」(たんぞう)の子で、母は熊野詣に訪れていた二位大納言の姫君とされています。

母の胎内に18ヵ月間いて、生まれたときにはすでに2、3歳児の大きさだったことから、の申し子を意味する「鬼若」(おにわか)と名付けられ、比叡山に修行に出されたのです。そして武蔵坊に居住したことから、武蔵坊弁慶と名乗るようになりました。

源義経と武蔵坊弁慶の出会いについても史実は不明ですが、五条大橋のエピソードは、物語として今も語り継がれているもの。素行不良で比叡山を追い出された武蔵坊弁慶は、1,000本の太刀を奪うことを目標に、今日の五条大橋で人を襲い始めます。

そして、最後の1本まで集めたときに源義経が通りかかり、1,000本目を得ようと決闘を挑んだのです。すると、源義経はひらりと欄干に飛び乗り、武蔵坊弁慶を返り討ちにし、家来にしたのでした。

源義経と武蔵坊弁慶の壮絶な最期

源頼朝・源義経

源頼朝・源義経

1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)までに起きた治承・寿永の乱と呼ばれる源平争乱において、「一の谷の戦い」(いちのたにのたたかい)や「屋島の戦い」(やしまのたたかい)を制し、「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で、平氏を完全討伐した源義経。

しかし、その褒美として、後白河院から勝手に官職を受けたことなどが源頼朝の反感を買い、兄弟で対立するようになります。

源義経は、かつて世話になった藤原秀衡を頼って奥州に逃げますが、直後に藤原秀衡が死亡してしまい、その息子の「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)に裏切られ、襲撃されました。このとき、武蔵坊弁慶は源義経の盾となり、無数の矢を受けながら、立ったまま討ち死にしたと伝えられています。そして源義経は、妻と子を殺害したあと、自害してしまうのです。

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