武具の基礎知識

騎馬隊と流鏑馬

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「騎馬隊」と言えば、「武田信玄」の「武田騎馬軍団」が有名で、戦国時代に活躍したと言われています。一方の「流鏑馬」は、「やぶさめ」と読み、疾走する馬上から矢が放たれるときの迫力は圧倒的です。 ここでは、流鏑馬をより楽しむことができるよう、騎馬隊と流鏑馬の歴史を詳しく解説していきます。

騎馬隊とは? 機動性抜群な戦場の主役

「騎馬隊」とは、馬に乗って行動する集団のことです。「騎馬」が馬に乗って馬を操ることを指し、騎馬隊同士の戦闘を「騎馬戦」と言います。

この騎馬戦を模してチームで「馬」の形を構成し、その上に「騎手」が乗り帽子や旗を取り合う遊戯も騎馬戦です。

騎馬隊は「騎兵隊」とも呼ばれる

騎兵隊とは、馬に乗って戦う兵士の集団のことで、戦闘が目的の騎馬隊と、騎兵隊は同義と言っても差し支えありません。

騎馬隊は、優れた機動力を持ち、エンジンが搭載された乗り物が登場するまで、偵察や奇襲、突入、攪乱(かくらん)などを巧みにこなすことができる集団でした。

騎馬隊は、ひとつでも戦局を左右するほどの重要な役割を担っていたのです。

騎馬隊同士の戦闘では、馬の速度が速い方が有利。攻撃の際は速度を変えながら攻め、その速さは馬の歩き方・走り方によって何種類かあります。

戦国時代に活用されたとされる日本在来種の「木曽馬」を1例にすると、「速足」(はやあし)は時速約10km。「駈足」(かけあし)は時速約20km。「襲歩」(しゅうほ)は最大時速36km程度と言われています(※諸説あります)。木曽馬はサラブレッドより小型で、体高(肩までの高さ)は125~135cmほどでした。

長時間の戦闘や長距離の移動は、馬の体力を削ぐことになるので、ただ走れば良いという訳ではありません。戦闘に合わせた適切な速さを、常に考えながら馬を操る必要があります。

日本の騎馬隊の歴史と戦術

平安時代の騎馬隊戦術の基本は弓

平安時代は、馬上で矢を射る「騎射」(きしゃ)が騎馬隊の基本戦術でした。

この騎射を得意とした「弓射騎兵」(きゅうしゃきへい)は、弓矢を用いた戦いが主流の騎兵のことです。この弓射騎兵には、2つの戦い方があります。

ひとつは「一騎打ち」であり、弓を引き合う「弓射」、太刀などによる馬上戦「打物」(うちもの)、打物で相手を落馬させ、腰物で敵の首を取る「組討」(くみうち)という流れが基本でした。

もうひとつは、馬を下りる・止めるなどして、静止した状態で矢を射る戦い方です。戦いではありませんが、平家物語の「那須与一」(なすのよいち)の描写は良く知られています。

那須与一は源氏の武士で、平安時代末期の「屋島の戦い」では平家が設置した扇の的を見事射抜きました。

馬上での弓射の場合は死角が大きく、射程範囲が狭くなります。馬に乗った状態で弓を構えると進行方向右側はほとんど射程範囲外です。

刀剣ワールド紹介動画

那須与一が扇の的を射るシーン(源平合戦)をホテル多度温泉の「空中CGアニメ・レーザーショー」でご覧頂けます。

刀剣ワールド紹介動画

追ってくる敵兵に、弓射騎兵の進行方向右後方に回られてしまうと対応できないので、右後ろを意識した立ち回りをする必要がありました。

逆に敵を追って射る場合は、敵を進行方向正面からやや左に捕捉して弓を放ち、射損ねた場合はすみやかに右に旋回して再び敵を左前方に捕捉します。

この時代は、馬に乗った兵士が戦場の主役となっていました。その姿は耳目を集め、騎兵以外の徒歩で戦う武士達の戦闘描写記録が少なくなってしまうほどです。

弓を用いた騎馬隊の戦術や、馬を用いた長距離移動のなかで馬上武術が発達。併せて馬術自体も発展し、馬術流派として「小笠原流」、「大坪流」、「八条流」、「内藤流」といった流派が現れます。

この騎射優先の戦術は南北朝時代後期まで続きました。

那須与一
武将イラスト集武将イラスト集
武将イラスト集では、戦国時代に活躍した武将達を中心に、今にも動き出しそうなリアルタッチで描いたイラストを掲載しています。

南北朝時代の騎馬隊は薙刀・長巻などを使用

時代が過ぎ、戦に大量の歩兵が動員できるようになると、戦場では白兵戦が主流となります。

騎兵の場合、大量の歩兵に対して矢を射るよりも、戦場に馬で突入して日本刀を使って攻撃した方が効果的です。そこで騎兵は弓よりも日本刀を握るようになります。こうして騎射は、衰退していきました。

馬上から歩兵を斬るためには、全長の長い日本刀が必要です。

そのため、「薙刀」(なぎなた)や「長巻」(ながまき)などの長柄武器が騎馬時に用いられるようになります。

薙刀は、遠心力を利用して振り回すことができるので、少しの力で強力な一撃を与えることが可能。薙刀を利用すれば、馬を操りながら攻撃もする馬上での戦闘が優位になります。

日本刀写真日本刀写真
薙刀・長巻の他、刀剣を種別にて、ご覧頂けます。

室町から戦国時代の騎馬隊は槍・馬上筒を使用

室町時代後期から戦国時代まで、合戦が頻発して規模が大きくなると、今度は攻撃範囲の広い「」(やり)が戦闘の主力武器になりました。

馬上で槍を使う場合は、敵を刺したときの反動で吹き飛ばされないように、振り回しながら敵を叩くように攻撃したとされています。

馬上で槍を使う場合の攻撃範囲は、進行方向正面から右側面であり、両手で使用すればさらに広範囲への攻撃が可能です。

しかし、左側と後ろは範囲外であるため、敵を正面から右側に捕捉して叩き下ろす必要がありました。

右側しか狙えないなど槍は馬上では攻撃範囲が狭いですが、疾走する馬の上で振り回せば、十二分の攻撃力があるので、馬上戦でも重宝されたのです。

馬上筒

馬上筒

1542年(天文11年)に銃火器が伝来すると、騎馬時には「馬上筒」(ばじょうづつ)と呼ばれる「短筒火縄銃」(たんづつひなわじゅう)が使用されるようになります。

この馬上筒は、馬上でも扱いやすいよう銃身が短くなっており、片手で撃てるため射程範囲も広めでした。

その反面、銃身の短い馬上筒は通常の「火縄銃」と比較して命中率が低く、馬上での装薬・装填(そうてん)は困難であるなど様々な制約があったのです。

このため、多くの場合は散弾を利用して敵の群がるところに撃ち込み、命中力の低さを補っていました。この射撃方法を「塵砲撃ち」(じんぼううち)と呼びます。

また、鞍に装填済みの馬上筒をいくつか備えておき、装薬・装填の手間を省く工夫もなされました。

火縄銃・大筒写真火縄銃・大筒写真
生産地や流派によって様々な個性を持つ火縄銃・大筒をご覧頂けます。

戦国で有名な「武田騎馬隊」

武田家は騎馬隊の機動力を活かし、奇襲部隊として戦術的に利用したと伝えられています。

武田騎馬隊が活躍したのは、1569年(永禄12年)に起きた「三増峠の戦い」です。この戦いでは、武田信玄と「北条氏康」(ほうじょううじやす)が衝突しました。

戦が始まると、武田信玄は正面から北条軍を押し止め、重臣「山県昌景」(やまがたまさかげ)の最強騎馬隊「赤備え」を別働隊として展開。側面からの奇襲攻撃を行ない、勝利を収めています。

このように、別働隊として機動性のある騎馬隊を利用する戦術を武田家は良く用いていました。

泰平の江戸時代では、騎馬隊の役割が変わる

徳川吉宗

徳川吉宗

江戸時代になると、騎馬隊の馬術は戦闘用から競技用へと移り変わっていきます。

馬の動きをいかに華やかに見せるかに重点が置かれるようになったのです。こうした流れのなかで、かつて戦術の一大体系であった戦闘馬術は衰退していきました。

しかし江戸幕府は、戦闘馬術が衰退していくのをただ傍観していたわけではありません。

1716年(享保元年)7月に「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が8代将軍になると、ずさんになっていた幕政の抜本的な改革を図りました。これが「享保の改革」です。

徳川吉宗は、若い頃から武芸に興味があったため、多くの武芸が衰退していくのを黙って見過ごすことはできませんでした。そこで享保の改革のなかで、戦闘馬術をはじめとする多くの武術の復興を図ります。

現在も残る馬術の流派は、徳川吉宗が武芸を復興した時代に確立した系統も少なくありません。その武術のひとつが「流鏑馬」です。

幕末から明治時代には馬術の西洋化が起こる

幕末には、幕府がフランス式の騎兵術を導入します。明治維新後は明治政府が西洋を模倣した近代化を進め、国の政策として、西洋馬術の導入を促し、日本固有種の馬と西洋種の馬との交配を行ないました。

このような背景により、日本古来の和式馬術は急速に衰退し、日本固有種の馬も数を減らしていきます。

特に馬術の奥義は師弟関係の中で伝授されるため、数多くの奥義がこうした制度の影響により淘汰(とうた)されてしまいました。

現代の平和な騎馬隊、警視庁騎馬隊について

「警視庁騎馬隊」は、警視庁交通部第三方面交通機動隊に所属する警官隊です。パレードなどのイベントで編成された部隊ではなく、実際に警官の任務をこなしています。

この警視庁騎馬隊の歴史は古く、1903年(明治36年)9月にヨーロッパの警察騎馬隊を模して、警察官15名・馬15頭で正式に発足。

その活動内容は、交通事故防止運動の一環として交通安全教育や交通整理を行なう他、パレードの交通整理、外国の要人や大使の警護など、多岐にわたっています。

このように現在でも騎馬隊は、警察組織のなかで生き続けているのです。

流鏑馬とは? 騎馬隊の稽古風景の名残がうかがえる

流鏑馬

流鏑馬

流鏑馬とは、馬に乗って走らせながら、的に向かって「鏑矢」(かぶらや)を射る競技のこと。

この流鏑馬時の馬の速さは最大速度の襲歩であり、その速さのなかで騎手が矢を放って的に当てられるかが醍醐味。

流鏑馬は日本古来の武芸であり、江戸時代には8代将軍の徳川吉宗が復興した馬術でもあります。

もともとは戦の稽古だった流鏑馬の歴史

平安時代には馬上で矢を射る騎射という戦闘方式が主流でしたが、この騎射は決して簡単な戦い方ではなく、稽古が必要でした。

その稽古のために行なわれるようになった方法が騎射三物(きしゃみつもの)であるとされています。

騎射三物として数えられた稽古方法は3つ。流鏑馬は、この3つのうちのひとつでした。残り2つは「笠懸」(かさがけ)と「犬追物」(いぬおうもの)です。

鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)が弓を使った馬術を奨励したため、ただの稽古方法であった流鏑馬の制度化が進みました。

こうして現在も各地に残る流鏑馬の様式が生まれ、発展することになります。

源頼朝が1187年(文治3年)に、鎌倉の「鶴岡八幡宮」で流鏑馬を催したことから、神事・儀式の一環として流鏑馬が行なわれるようになりました。

江戸時代には、太平の世の中で流鏑馬の必要性は薄れていきます。

しかし、8代将軍徳川吉宗の命で流鏑馬は復興されました。その後、幕府の馬術や流鏑馬の調練施設があった「高田馬場」では、将軍家の厄除けや病気平癒の祈願として、神事の流鏑馬がたびたび行なわれるようになります。

こうして神事・儀式としての流鏑馬は、大衆に広く認識されるようになっていったのです。

騎射三物とは? 流鏑馬と笠懸の違い 

笠懸

笠懸

騎射三物は流鏑馬、笠懸、犬追物の3つでした。

笠懸は、流鏑馬の的の代わりに笠(被り物)が使われます。犬追物は、馬場(馬術の稽古場所)に放たれた犬達を、馬に乗って追いかけて矢で射ていました。

犬追物は1881年(明治14年)を最後に、現在は行なわれていません。

流鏑馬と笠懸の違いは、流鏑馬が儀式的な競技である点に対して、笠懸は笠で作られた的の距離を調整して行なう騎射の稽古である点で異なります。

このように騎射の目的が違うのです。

流鏑馬が行なわれている場所

流鏑馬のイベントが行なわれている代表的な場所をご紹介します。

名称 開催日時 都道府県 開催場所
高田馬場
流鏑馬
10月11日 東京都 新宿区:穴八幡宮・
都立戸山公園
流鏑馬祭 11月23日 三重県 桑名市多度町:多度大社
流鏑馬神事 10月25日 大阪府 大阪市北区:大阪天満宮
流鏑馬神事 10月21日 京都府 南丹市:幡日佐神社
御神幸祭
(流鏑馬)
10月13日に近い
土日・隔年
福岡県 飯塚市:綱分八幡宮

三重県桑名市 多度大社の神事
「流鏑馬祭」の紹介動画

流鏑馬祭
多度大社のご紹介
馬上より騎手が矢を射て天下泰平・国家安泰をお祈りする多度大社の神事「流鏑馬祭」をご紹介します。

戦国武将にまつわる祭り「相馬野馬追」についてご紹介!

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