甲冑(鎧兜)と武将

甲冑から見る上杉謙信

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「上杉謙信」は「越後の虎」や「軍神」などと称され、無類の強さを誇っていました。また、甲冑を着用した状態で埋葬されたと伝えられるほど、上杉謙信と甲冑は切っても切れない関係だったようです。ここでは、甲冑を通して上杉謙信という武将を見ていきます。

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歴史的に価値の高い甲冑(鎧兜)や面頬などを名前や種類から検索することができます。

甲冑を身にまとわず、北条軍を突破した上杉謙信の伝説

上杉謙信

上杉謙信

戦国時代における戦場では、大将は軍の後方において采配を振るうのが一般的でしたが、上杉謙信はときに型破りな戦い方を敢行することもありました。自らが軍を率いて最前線で戦う方法を選択したのです。

上杉謙信がこのような危険を伴う戦い方を選択した背景には、内紛が繰り返されていた当時のお家事情がありました。大将自らが体を張って最前線で戦うことで、自軍をひとつにまとめようという意図があったとも考えられるのです。

唐沢山城跡 唐沢山神社

唐沢山城跡 唐沢山神社

上杉謙信が行なった最前線での戦いの中でも、伝説的と言われるのが「唐沢山城」(からさわやまじょう)での正面突破。

1560年(永禄3年)、「北条氏政」(ほうじょううじまさ)率いる約3万人の北条軍に城を包囲され、落城寸前の窮状に陥った唐沢山城城主・「佐野昌綱」(さのまさつな)は、上杉謙信に救援を要請します。

これを受け、越後から駆け付けた上杉謙信は、十文字を手に城の南口から北条軍を切り裂いて突破し、城内に到達。これを機に、戦局は一変します。

士気が上がった佐野軍の攻撃を受け、劣勢となった北条軍は、撤退を余儀なくされたのでした。このとき、上杉謙信が率いていたのは、わずか40騎ほど(異説あり)。上杉謙信は甲冑などの防具を身にまとわず、北条軍を突破したと言われています。

自らを毘沙門天の化身と信じていた上杉謙信

上杉謙信は、7歳で越後の「林泉寺」(りんせんじ)に預けられました。ここで、住職「天室光育」(てんしつこういく)から仏教の教えと共に、軍略を学んだと言われています。

寺では、座学と実践教育などが行なわれていましたが、上杉謙信が特に興味を示していたのが城攻め。城の模型の中に兵士に見立てた駒や武器を配置するシミュレーションゲームに熱中し、他の修行がおろそかになってしまうほどでした。

このとき、早くも上杉謙信の天才的な戦略家としての才能の下地が整いつつあったとも言えます。

14歳の若さで初陣を飾った上杉謙信は、その後も戦において圧倒的な強さを見せつけていきました。また、兄「長尾晴景」(ながおはるかげ)の隠居に伴い19歳で長尾家の家督を継ぐと、31歳のときには関東管領(かんとうかんれい)「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)の養子となって、上杉家の家督を相続。室町幕府の重職だった関東管領の職も引き継いだのです。

戦国時代において、圧倒的な実力を誇っていた上杉謙信ですが「義」(ぎ:人の行動が道徳・倫理にかなっていること)を重んじ、侵略のための戦いを仕掛けることはなかったと言われています。そんな上杉謙信は、自らを毘沙門天の化身と信じていたなど、熱心な仏教徒でもありました。

春日山城跡

春日山城跡

上杉謙信と毘沙門天との間には、こんな逸話もあります。

上杉謙信がある戦いを終えて本拠地の「春日山城」(かすがやまじょう)に戻り、城中に建立した毘沙門堂に立ち寄ったときのことです。堂内には泥の付いた足跡があり、それが「毘沙門天像」まで続いていました。これを見た上杉謙信は、毘沙門天も一緒に戦ってくれたのだと感激します。

以後、その毘沙門天像を「泥足毘沙門天」(どろあしびしゃもんてん)と呼んで祀るようになったのでした。後年、上杉家が会津、米沢へ移る際に泥足毘沙門天も持ち込むなど、上杉家の象徴とも言うべき存在になったのです。

上杉謙信と天下

織田信長

織田信長

1574年(天正2年)、上杉謙信は「織田信長」から、金小札色々威胴丸(きんこざねいろいろおどしどうまる)を贈呈されました。

このとき、「狩野永徳」(かのうえいとく)作の「洛中洛外図屏風」(らくちゅうらくがいずびょうぶ)、「源氏物語図屏風」(げんじものがたりずびょうぶ)も贈られたと言われています。天下統一を目指す織田信長にとって、上杉謙信は無視することができない存在だったことを表しているのです。

1577年(天正5年)、上杉謙信は、織田信長と「手取川の戦い」で激突。結果としては、上杉謙信の圧勝に終わっています。のちに天下を取ることとなる織田信長に勝利するなど、当時、上杉謙信は最も天下人に近い存在だったと言っても過言ではありません。

色々威腹巻

色々威腹巻

この戦いに限らずですが、上杉謙信が戦いに赴く際に必ず行なったというのが、上杉軍「出陣の儀式」。

このような儀式を行なう、軍を整列させて検閲する、あるいは行列を行なうなどの場合に着用したと考えられるのが、色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)です。前立(まえだて)には、戦勝の神として戦国武将の信仰を集めた「飯綱明神」(いづなみょうじん)を装着しています。

また、素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻(すがけしろあやおどしくろしぼかわつつみいたものはらまき)は、上杉謙信が上杉憲政から譲り受けた物。兜の前立に、前にしか飛ばない特徴を持つことから「勝虫」として好まれた蜻蛉(とんぼ)が施されているのが特徴的。隙間なく全身を覆って防御力を確保した上で、機動性も確保している実戦的な一領です。

戦国最強とうたわれた上杉謙信ですが、48歳で志半ばに死去。

上杉謙信の死因には諸説ありますが、病死であることに間違いはないようです。上杉謙信の遺骸は、甲冑を着用した状態で甕(かめ)に入れ、漆で密閉して埋葬されたと伝えられています。上杉謙信と甲冑は切っても切れない関係だったのです。

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