武士と日本のマナー

連歌の基礎知識

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「連歌[れんが]と盗人[ぬすびと]は夜が良い」、こんなことわざを聞いたことがありますか。「連歌」とは、複数人が集まってリレー形式で和歌を詠む、日本に古くからある詩歌の様式のひとつ。そしてこのことわざは、人々が寝静まった夜に「仕事」をする盗人を引き合いに出して、連歌を詠む(よむ)のも静かで落ち着いた夜が良いということを言っています。
このように連歌を含む和歌(わか)は、どこか風流で雅なイメージを持たれることが多いため、貴族だけが嗜んでいたと思われるかもしれません。しかし実際には、戦国武将にも馴染み深い文化でした。そのなかでも連歌は、戦国武将が乱世を生き抜くために欠かせない、重要なツールでもあったのです。
ここでは、連歌に関する基礎知識をご説明すると共に、戦国武将にとっての連歌がどのような存在であったのかについて解説します。

連歌の歴史

14世紀頃の連歌会の様子

14世紀頃の連歌会の様子

「連歌」(れんが)が流行し始めたのは、おおよそ鎌倉時代。

「五・七・五・七・七」という、いわゆる「五七調」(ごしちちょう)の韻律を基調とした「短歌」(たんか)は、古代(一般に奈良時代から平安時代を指し、大和朝廷[ヤマト王権]時代を含む場合もある)の和歌集「万葉集」(まんようしゅう)が成立した奈良時代後期には、すでに確立されていたと見られています。

そして平安時代以降には、「和歌」(わか)と言えば短歌のことを指すようになったと考えられているのです。

和歌から派生して興った連歌は、短歌の「上の句」(五・七・五)と「下の句」(七・七)を2人で分けて詠み、一首を完成させる「短連歌」(たんれんが)がその起源。前述した万葉集の巻八には、奈良時代の代表的な歌人である「大伴家持」(おおとものやかもち)が、尼と共に唱和(しょうわ:片方が作った詩歌に答え、もう一方が続きの詩歌を作ること)して完成させたと伝わる短歌が収録されており、これが連歌の最初の例であると言われています。

このような短連歌の様式は、平安時代中期まで流行。そののち、院政期(1086~1185年[応徳3~文治元年])頃に入ると、短歌の上の句にあたる「長句」(ちょうく)と、同じく下の句である「短句」(たんく)を、複数の詠み手で3句以上交互に連ねて詠んだ作品例が見られるようになります。これらは2句のみで連作されている短連歌に対して、「長連歌」(ちょうれんが)や「鎖連歌」(くさりれんが)と呼ばれていました。

長連歌は、時代が進むにつれて連続する句の数が増えていき、鎌倉時代後期には100句を続けてひとつの作品とする、「百韻」(ひゃくいん)という様式が生まれます。以後、連歌の基本形として定着した百韻の長連歌は、室町時代に最盛期を迎え、江戸時代まで通して連歌の主流となったのです。

そして江戸時代中期以降には、36句を詠み継いでいく「歌仙連歌」(かせんれんが)と呼ばれる様式が登場。「歌仙」とは「優れた歌人」を意味し、平安時代における36名の和歌の名人を「三十六歌仙」(さんじゅうろっかせん)と総称していたことにちなんで、用いられるようになった名称です。また、同じ時期に俳人である「松尾芭蕉」(まつおばしょう)が登場すると、連歌から「俳諧」(はいかい)が生まれます。

和歌から派生した連歌はもともと、いわゆる「大和言葉」(やまとことば)を用いた文芸です。大和言葉とは、漢語などの外来語に対する日本独自の言葉を指し、和歌では、貴族が使っていたような、上品で優美な表現が使われていました。

しかし、「もっと卑俗でユーモラスな世界を描写したい」という人達が現れたのです。そのため、連歌と同様の形式を踏襲しつつ、さらに俗っぽさを求めた内容の俳諧が誕生。

そののち、江戸時代後期頃から明治時代には、連歌の一番初めに詠み、必ず「季語」を入れなければならない「発句」(ほっく)のみが独立。そしてこの文芸が発展し、のちに、私達がよく知る「俳句」と呼ばれるようになりました。

連歌と連歌会の基本ルール

複数人が集まり、共同制作によって完成させる連歌は、言ってみれば「座の文芸」。連歌の楽しみは、詠み継いでいく中で起こる思いも寄らない「変化」にあり、それを一番の旨としています。

そのため、同じような表現を繰り返したり、似たようなアイデアに偏ったりすることを連歌では「輪廻」(りんね)と言い、それを避けて創作するために、連歌や連歌会独自のルールが設けられました。

二条良基

二条良基

これらは「式目」(しきもく)と呼ばれ、平安時代後期頃より出現。

そして1372年(応安5年[北朝]/建徳3年・文中元年[南朝])、南北朝期の歌人で連歌作者でもあった「二条良基」(にじょうよしもと)が、ばらつきがあった連歌の式目を「応安新式」(おうあんしんしき)と題する連歌書にまとめます。

そののち同書は、何度か改訂を重ねられ、連歌会は、これに定められた規則や作法のもとに開催されるようになったのです。

式目による連歌の基本的な流れ

連歌には様々な式目がありますが、大まかな流れは下記を基本としています。また、連歌の流れのなかでは、発句、「脇句」(わきく)、「第三句」(だいさんく)に比重を置いており、これら3つをまとめて「三つ物」(みつもの)と称しています。

発句(ほっく)
発句とは、連歌で最初に詠まれる五・七・五、すなわち長句に当たる部分。通常の連歌会では、長老や宗匠(そうしょう:和歌や茶道など、文芸や技芸の師匠)など、出席者の中でも高位にある人や、主客が詠むことになっています。

「挨拶句」とも呼ばれる発句には、連歌会が行なわれている当日の季節感を表す季語を盛り込むことが基本。さらには、「切れ字」(きれじ:意味が切れる箇所で用いられる、強調や完結などを示す語。[なり]・[けり]といった助動詞や助詞であることが多い)を、発句のうちの1句に必ず入れることも決まりとなっていました。

脇句(わきく)
脇句とは、発句に続けて次の人が七・七の短句の「付句」(つけく)を行なうこと。連歌では「客発句・亭主脇」(きゃくほっく・ていしゅわき)と言われ、その会の主催者である「亭主」(ていしゅ)が脇句を詠みます。

このとき亭主は、客が発句の中に込めた作意を即座に汲み取り、その言外にある趣や余情を継ぐように配慮します。亭主は、客の発句の内容に寄り添う歌を詠むことで、客に対する「おもてなしの心」を表していました。

この脇句には、発句と同じ季節の季語を用いることが必須で、体言止めで終わらせることが一般的です。

第三句(だいさんく)
第三句とは、文字通り脇句に続いて詠まれる連歌の3句目であり、長句の五・七・七を付け加えた句のこと。第三句は、その日に作る連歌の「行様」(ゆきよう:連歌全体の流れや方向性)を決定付ける、非常に重要な句です。脇句から場面をガラッと変える役割もあり、その多くが「て」止めで終わります。
挙句(あげく)
「挙句」(あげく)とは、連歌一巻の最初の句である発句に対し、その最後を締めくくる短句のこと。つまり百韻であれば100句目、歌仙連歌であれば36句目に当たる付句です。

会の亭主や主客が挙句を詠むことはなく、一座の連歌を記録する「執筆」(しゅひつ)がまだ1句も詠んでいないときには、その人がこの役割を担います。

挙句の段階になって、どのような付句にするのか迷ってしまうと風情がなくなってしまうことから、前の句との繫がりにはそこまでこだわらず、すんなりと詠むことが良しとされていました。そのため、前もって挙句を考えておくこともあったと言います。

現代において、「最後の最後」の意味で使われる「挙句の果て」という表現は、この挙句が由来となっているのです。

季節と恋を重んじる「句数」

発句の季語によって、会が開かれている季節を示すことから始まる連歌。そこから詠み継いでいく句では、その季節の流れを表現していくことが主な目的です。

この季語についても一定のルールがあり、その中のひとつに「句数」(くかず)があります。これは、「春」と「秋」、そして季節ではありませんが「恋」をテーマにして詠まれた句が出てきた場合に同じ題材を踏襲し、「2句以上、できれば3句は続けて、5句以内で終わらせる」という規定です。連歌にこのような制限が設けられているのは、これらのテーマが和歌とは切っても切れない関係にあることに、その理由があります。

それが分かる一例を挙げると、カルタ遊びなどを通じて、現代の私達にも親しみのある歌集「百人一首」に収録されている恋の歌の数は、なんと100首中43首。また、日本で最初の勅撰集(ちょくせんしゅう:天皇や上皇の命により、作品を撰んで編纂した和歌集や漢詩文集)である「古今和歌集」など、その他の歌集においても、恋の歌が圧倒的な数を占めています。

そして、恋のあとに続いているのが、春や秋の歌。春には桜、秋には紅葉など美しい花や自然があり、それらに想いを託して恋心を描写するのにはぴったりの季節。そのため、春と秋、さらには恋にまつわる事柄が、和歌の題材としてよく取り上げられており、連歌においても、これらをテーマとすることが好まれているのです。

とは言っても、同じテーマで何句も続けるのは堂々巡りの展開となるだけで、歌意(かい:歌に込められた意味)のマンネリ化を招いてしまいます。そのため、バランスの取れた長さである2~5句以内に収めることで、冗長表現となることを防いでいるのです。

四季折々の景物を重んじる「定座」

「定座」(じょうざ)とは、和歌の歴史の中で伝統的に重んじられていた題材である、「月」と「花」について詠み入れる句を出すように、定められた位置。月と花は、日本の景物(けいぶつ:四季それぞれに風情を添える事物)における代表的な存在です。

連歌は、詠まれた歌をすべて「懐紙」(かいし:携帯するため、小さく折り畳んで懐に入れておく和紙)に記録し、それを「一巻」(いっかん/ひとまき)と数えます。連歌会では、この一巻の中に、あらかじめ定座の位置を決めておくのです。

定座である月と花は、連歌においては、それぞれ主に「中秋の名月」(ちゅうしゅうのめいげつ)と「桜」を意味するのが慣例です。

これらは、連歌のなかでも重要視される題材であるため、自身の順番の際に詠みたいと思う人が多いのですが、例えば「花の定座」の場合は、挙句のひとつ前の句で取り上げることが通常の形式となっています。

また月の定座、及び花の定座を読み込む際には、月や花という言葉を句の中に盛り込まなければ、「月の句」や「花の句」とは見なされないため注意が必要。ただ桜と詠むだけでは、花の句であることが認められないのです。だからと言って、月の言葉が入る「正月」や「神無月」、「月見草」などの言葉を用いて詠んだとしても、それはただの「月並の月」(つきなみのつき)とされ、月の句とはなりません。

現代でも使う「花を持たせる」と言う表現は、実はこの花の定座が由来となっている言葉。「相手の顔を立てて、功や名誉を譲る」という意味ですが、連歌会では、そのメンバーの中に、最年少、もしくは特別な主客がいる場合には、歌を詠む順番を変えてでも、その人達に花の定座の位置を譲り、連歌会を楽しんで貰うための心配りをしていたのです。

連歌と戦国武将との関係

紀貫之

紀貫之

和歌などの「歌」が、戦国武将にとってどのような存在であったかが窺える一文が、905年(延喜5年)に成立した古今和歌集の序文にあります。

それは、三十六歌仙のひとりであり、同歌集の撰者でもあった「紀貫之」(きのつらゆき)が、主に平仮名を用いて書いた「仮名序」(かなじょ)にある「猛き[たけき]武士[もののふ]の心をも慰むるは、歌なり」という一節。

仮名序とは、和歌がどのような文芸であるかについて述べた序文です。

この一節を現代語訳すると、「勇猛な武士の心でさえも慰めるのは、歌である」という意味。戦を繰り返していた中で心が荒んで(すさんで)しまっていた戦国武将は、歌を詠むことで、自身の心に安らぎを与えていたのです。ちなみに、古今和歌集には仮名序の他に、ほぼ同じ趣旨の内容を漢文で書いた「真名序」(まなじょ)も、序文として添えられています。

また、この古今和歌集の仮名序からは、平安時代に発生したと言われる武士が、その頃からすでに和歌を嗜んでいたことが分かりますが、和歌に代わって、連歌が最盛期を迎えたのは室町時代のことでした。

室町時代と言えば、政治面で武家が台頭し、公家を圧倒するようになっていた時代。そして、それまで公家文化の影響下で築かれていた武家文化についても、その質が高まっていったのです。その理由のひとつには、室町幕府の将軍であった「足利氏」(あしかがし)を始めとする上層武士の多くが、幕府と朝廷が置かれていた、京都に住んでいたことが挙げられます。

武士と貴族の物理的な距離が近付いたことで、それまで受け継がれてきた伝統的な公家文化と、中国より伝来した仏教の一派「禅宗」(ぜんしゅう)の影響を強く受けた武家文化が融合。さらには、それらに庶民や地方の文化における特色が加味され、いわゆる「室町文化」が形成されていったのです。

そんな室町文化を代表する文芸であった連歌は、京都の武士のみならず、地方武士のあいだでも行なわれるようになります。それに伴い、連歌の専門家である「連歌師」が出現。「宗祇」(そうぎ)や二条良基といった連歌師達は、地方武士などから「連歌寄合」(れんがよりあい:のちの連歌会)へ招かれ、指導者として諸国を回っていました。

彼らは、地方武士や農民に連歌の詠み方や知識などを教えていた中で、中央と地方、それぞれの文化の懸け橋となる役割を担っていたのです。それに加えて連歌師のなかには、公家と武家、そして地方豪族間における連絡係や交渉役を務めていた人もいました。

こうして、日本全国に広がっていった連歌。遊戯的な要素があるため、戦国武将にとっては、戦で疲れた心を癒すだけの趣味であったと思われるかもしれません。しかし、多くの戦国武将達が理想としていたのは、「文武両道」であること。

細川藤孝/幽斎

細川藤孝/幽斎

室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕えた戦国大名で、一流の文化人でもあった「細川藤孝/幽斎」(ほそかわふじたか/ゆうさい)も、「歌連歌 乱舞 茶の湯を嫌う人 育ちのほどを 知られこそすれ」と詠み、武将たる者、武芸と教養の両方を身に付けておくべきだという考えを示しています。

連歌を学び、嗜むことで習得できるのは、歌を詠むための技術だけではありません。

例えば、詠み継ぐ句の内容にふさわしい付句を即座に考えるときには、頭の回転の速さや機転を利かせることが求められます。

また、連歌の式目を正しく理解した上で、連歌会の一座におけるやり取りをスムーズに行なうためには、やはり意思の疎通を円滑に行なえる、今で言うところの「コミュニケーション能力」も必要。つまり、戦国武将は連歌を通じて、天下を取るのに必要不可欠である、交渉力や知力なども培っていたのです。

例えば、「尾張の虎」の異名を取るほどに恐れられていた、「織田信長」(おだのぶなが)の父「織田信秀」(おだのぶひで)は、当時「今川氏豊」(いまがわうじとよ)の居城であった「那古野城」(なごやじょう:現在の愛知県名古屋市)で開催されていた連歌会に、足繁く通っていました。そうすることで、織田信秀は今川氏豊と懇意な間柄となり、その懐に入ることに成功。

そして、仮病を使って家臣達を同城に呼び寄せて侵入させ、那古野城に火を放たせたのです。これにより那古野城は落城し、織田信秀の居城となりました。さらに織田信秀は、同城を拠点に、領地の拡大を進めていったのです。

刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之
刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之
(切付銘)
織田弾正忠
信秀摺上之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
70.8
所蔵・伝来
織田信秀→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

今なお続く連歌会

杭全神社

杭全神社

貴族のみならず、戦国武将にとっても欠かせない存在であった連歌会ですが、明治時代を境にして、徐々に衰退していきました。

しかし、昭和時代後期、大阪市平野区の「杭全神社」(くまたじんじゃ)にある「連歌所」(れんがどころ)を拠点として、連歌を再興させようとする動きが活発となり、現在では「平野図書館」で毎月1回、連歌会が行なわれています。

また、島根県松江市では、島根大学と同市教育委員会の共催により、「松江ユーモア連歌大賞」と称されるコンテストが開催されるなど、今もなお、全国各地で連歌会の文化が育っているのです。

現代の私達にとっては、連歌と聞くと少しハードルが高いように思えてしまいますが、連歌は言ってみれば言葉遊びであり、連想ゲームのような文芸。SNSなどを通じて、毎日のように言葉を発信している人であれば、案外連歌を楽しめるかもしれません。

インターネット上で句を投稿して詠み継ぐことで、連歌を実践する試みも広まっていますので、少しでも興味を持たれた方は、ぜひ気軽にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

連歌の基礎知識

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