「鞍」(くら)も「鐙」(あぶみ)も馬具の一種で、馬に乗る際に必要な道具です。それらの歴史は長く、鞍と鐙が地名や寺院名の由来となることも多くありました。また現代でも、競馬や馬術競技には欠かせない道具でもあります。鞍と鐙は、日本人とどのようにかかわってきたのでしょうか。その基本と歴史、逸話について解説していきます。
鞍と鐙
「鞍」とは、馬に乗って座るために、馬の背中に装着する道具のことです。
後述の鐙もこの鞍の一部に含まれていました。鞍と馬の間には「鞍下」(くらした:サドルクロスのこと)と呼ばれる敷物を敷きます。
鞍は、安定して馬に乗るために欠かせない道具です。
鞍骨
鞍は、基本的に「鞍骨」(くらぼね)と呼ばれる骨格に沿って組み立てられています。
鞍骨の上に進行方向側の山である「前輪」(まえわ)、進行方向と逆にある山である「後輪」(しずわ)、その2つをつなぐ谷の部分の「居木」(いぎ)によって構成。時代によって、前輪・後輪の形や居木の数は変化しました。
鞍の始まりは、古墳時代に中国から渡来したこと。そのなかで生まれた鞍が「唐鞍」(からくら)です。
唐鞍は、中国の鞍を模した儀礼用の鞍であり、外国からの客人が乗るために用いられました。
平安時代には、武家が公務のために使用する「移鞍」(うつしくら)、武家の装束である「水干」(すいかん)を着るような場合に用いる「水干鞍」(すいかんぐら)が誕生するなど、用途に応じた種類が増えていきます。
また、飾り鞍のひとつとして用いたのが「和鞍/大和鞍」(わぐら/やまとぐら)であり、渡来した鞍を改良して利用していました。
平安時代以降、鞍は「螺鈿」(らでん)、「沃懸地」(いかけじ)、「蒔絵」(まきえ)など用いて装飾されていきます。
螺鈿とは、貝殻を透明になるまで磨き上げ、貝殻の内側にある虹色に光る部分を用いて、細かく繊細な模様を表現する技法。沃懸地は、表面に漆(うるし)を塗って、金・銀を一部あるいは全体に蒔き、研ぎ出して金色・銀色に仕上げる技法のこと。
そして、蒔絵とは表面に漆で模様を描き、金・銀などを蒔いて固める技法です。このような装飾の鞍は、誰でも使用できるわけではありません。凝った装飾の鞍から簡素な鞍まで、官位に応じて用いられたとされています。
現代において、乗馬に用いられている鞍の大半は、西洋式の「洋鞍」(ようぐら)です。
現在、鞍の種類は「レース鞍」、「調教鞍」、「障害鞍」、「馬場鞍」など、競技用の鞍を中心に発展しています。
レース鞍は、競馬用の鞍であり、競馬中継を観ていると良く見かける軽量な鞍のこと。
調教鞍は騎手・競技馬のトレーニング用の鞍であり、障害鞍は馬術競技の「障害飛越」(しょうがいひえつ)で利用されている鞍です。馬場鞍は馬場馬術用の鞍で、長時間の乗馬に対応した特殊な形状の鞍となっています。
競技用の鞍が発展する一方で、馬上から矢を射る儀式「流鏑馬」(やぶさめ)で和鞍/大和鞍が利用されているように、現在も伝統的な鞍がしっかりと継承されているのです。
鞍馬寺
鞍馬寺(くらまでら)で有名な鞍馬には、鞍の字が用いられています。「くら」の音に鞍の字を当てただけと言う説がある一方で、馬の鞍に由来する説もあるとのこと。
鞍馬寺は、奈良時代末期の僧侶「鑑禎上人」(がんちょうしょうにん)が、この地に七福神のひとつで財運を司る「毘沙門天」(びしゃもんてん)を安置したのが始まりとされています。
鑑禎上人が毘沙門天を祀ってから20数年後のこと。都の役人である「藤原伊勢人」(ふじわらのいせんど)が白馬に乗って、観音を祀る場所を探していました。そして、796年(延暦15年)に白馬の導きでこの鞍馬の地を訪れます。
しかし、この地にはすでに鑑禎上人が安置した毘沙門天が祀られている小屋がありました。
伊勢人は「白馬に導かれて私は観音様をこの地に祀りに来たのに、なぜ毘沙門天なのだ?」と困惑してしまいます。
するとその夜、「観音も毘沙門天も人を救うことには変わりはない」との夢のお告げが。それに従って、鑑禎上人の毘沙門天像と伊勢人の観音菩薩像を祀った立派なお寺が作られました。
「鞍馬」の地名は、伊勢人をこの地に導いた白馬の鞍にちなんで、付いたと伝えられています。
愛知県豊田市鞍ヶ池公園にある「鞍ヶ池」は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1645年)に造られた人工の池です。
寛永年間の後期には、「寛永の飢饉」と呼ばれる食糧難が発生しました。この飢饉が発生した理由はいくつかあります。
1637年(寛永14年)に起きた九州キリシタンの暴動「島原の乱」(天草一揆)鎮圧に際し、軍役として農民が動員され、大量の食糧を送ったため、地方の農村は深刻なダメージを受けました。
また、1641年(寛永18年)には西日本を中心に干ばつ(長い間降水がないために土壌が乾燥してしまい、農作物などに被害を及ぼすこと)が発生し、大凶作に。
このような飢饉の背景があり、各藩では何らかの手を打つ必要に迫られました。
その際に造られたのがこの鞍ヶ池です。この池は、干ばつや飢饉に悩む農民たちによって、農地に水を供給するための灌漑(かんがい)用に造られました。
この池が完成したときに、地元の寺部藩(てらべはん:現在の愛知県豊田市)を治める3代藩主「渡辺重綱」(わたなべしげつな)が訪れています。
渡辺重綱は、池の完成度と農民の貢献に感激し、自分の馬の鞍を大胆に池に投げ入れて「池の主となって、末永くこの池を見守ってくれ」と池の恩恵を祈願しました。この出来事が「鞍ヶ池」という名前の由来となったのです。
現在、近隣の「トヨタ鞍ヶ池記念館」には、投げ込まれた鞍をかたどった銅像もあり、鞍はこの鞍ヶ池のシンボルとして大切に扱われています。
「鐙」とは、馬具の一種で、騎乗時に馬の脇腹にたらして足を乗せる道具のこと。
鐙は鞍とセットで用いられ、この鐙に足をかけることを「鐙を履く」と表現します。
鐙の用途は2通りで、ひとつは馬をまたぐ際に足をかけてよじ登る用途。もうひとつは馬が走っている最中、馬上でバランスを取るために用いられます。
半舌鐙/舌短鐙
日本の鐙は、鞍に固定するための輪状の「鉸具頭」(かこがしら)と針状の「刺鉄」(さすが)を使用。
全体の構成は、鐙前方の丸めに反り返った「鳩胸」(はとむね)、鳩胸に沿った溝である「笑み」(えみ)、乗馬時に足を乗せておく「舌」(した)、かかとがあたる舌の後部先端「舌先」(したさき)から成ります。
もともと鐙は、騎乗が得意な遊牧騎馬民族ではなくても、簡単に馬の背中に乗れるようにと生まれた道具です。
鐙は古墳時代(3~7世紀頃)、乗馬の文化と共に「輪鐙」(わあぶみ)として日本に伝来しました。
輪鐙は文字通り、電車のつり革のような輪っかの形をした鐙のこと。古墳時代には、この輪に足をかけて馬に乗ったとされています。
壺鐙
古墳時代の中頃(5世紀頃)には、「壺鐙」(つぼあぶみ)も登場しました。輪鐙から足先を収納できる覆いが付いた形状に進化。壺鐙はスリッパの先のような形で、足が滑り落ちにくくなっています。
この壺鐙は、万が一落馬してしまったとき、足が鐙に引っかかって引きずられてしまうのを防ぐこともできました。
このように実用性に特化した一方で、輪鐙よりも装飾品としての性格が強いとも言われています。
奈良時代から平安時代(8~12世紀頃)に鐙は、日本国内で「半舌鐙」(はんしたあぶみ)へと進化しました。
「舌短鐙」(したみじかあぶみ)とも呼ばれますが、「舌」とは足を乗せる部分を指し、乗馬時に踏みやすいように付け加えられたとされています。鐙の付け根から舌の先まで、湾曲した形状が特徴的です。
平安時代の末期(12世紀末)には、舌短鐙の足を乗せる部分が長くなり、かかとまで乗せられる「舌長鐙」(したながあぶみ)が誕生しました。舌短鐙から舌がそのまま長くなった形状なので舌長鐙と呼ばれます。
舌が長くなったことで、乗馬時の運動性や安定性は向上し、武家に重宝されました。舌長鐙の実用性は確かで、その後、江戸時代が終わるまでの約700年の長きにわたって使用されています。
現代の洋鐙
明治に入ると、従来の舌長鐙に代わって、輪鐙の1種「洋鐙」を用いるようになりました。
この洋鐙の形状は輪の一部に足を乗せる舌が付いたスタイルであり、現在、使用されている鐙のほとんどはこの形状です。
朝市で有名な神奈川県三浦郡にある「鐙摺港」(あぶずりこう)の近くには「鐙摺城跡地」(鐙摺山)があるのですが、この鐙摺の由来には「源頼朝」(みなもとのよりとも)が関係しています。
1159年(平治元年)、源頼朝は父「源義朝」(よしとも)と共に戦った「平治の乱」で「平清盛」(たいらのきよもり)に敗れました。その後、源頼朝は伊豆に流刑となってしまいます。
源頼朝は、平治の乱より18年後の1177年(治承元年)にも依然として流刑の身でした。
しかし、ただ単に流刑の日々を過ごすだけではなく、源頼朝は平氏を打倒するために挙兵の準備を進めていたのです。
ある日、三浦の地を訪れた際、平治の乱で一緒に戦った「三浦義明」(みうらよしあき)の子「大多和義久」(おおたわよしひさ)のもとを訪れます。
源義久は源頼朝を迎え、鐙摺にある山に城を作る計画を説明して、その山を案内しました。
しかし、道が狭くて岩肌で源頼朝の馬の鐙が摺(す)れてしまうことに。そのため、源頼朝が鐙摺山と名付けたという説があります。
このように、鐙に由来する地名が現在も存在しているのです。