日本の乗物は、奈良時代の「輿」(こし)から始まり、平安時代には貴族社会による「牛車」(ぎっしゃ/ぎゅうしゃ)を中心とした車文化が発達しました。
鎌倉時代から戦国時代にかけては、武家社会による輿や「騎馬」文化が主流となり、江戸時代に入ると「駕籠」(かご)文化へと移行。上級階級しか乗れなかった乗物が、庶民層まで幅広く使用されるようになりました。
ここでは、時代と共に変化してきた「日本の乗物」について、その歴史と特徴と共に、大名家の婚礼調度である「女乗物」(おんなのりもの)についてご紹介します。
日本の乗物の歴史は、地位階級と深く関係していました。ここでは、奈良時代から江戸時代の乗物の変化をご紹介します。
「日本書紀」などの文献から、奈良時代までは「輿」(こし)が使用されていたことが分かっています。輿は天皇や皇后などしか乗ることを許されておらず、主に天皇の行幸(外出)や通行などに使用されていました。
奈良時代からの流れで、平安時代に入ってからも輿が使用され、天皇・皇后・斎宮の乗物としては「輦」(れん)を、上皇を始め、大臣以下の公卿、四位・五位の殿上人などの乗物としては、腰あたりで輿を持つ「腰輿」(ようよ)が用いられるようになり、移動というよりも権威を誇示することが目的となったのです。
そののち、平安京とその周辺の道路が整備されてきたことから、牛に屋形を牽引させる「牛車」(ぎっしゃ/ぎゅうしゃ)が登場し、平安時代の代表的な乗物となりました。
牛車は、公家や武家の上層クラスが京都府(平安京)内を移動する際に使用しており、一般的な物は4人乗りで、6人ぐらいまで乗れたとされています。また、使用者の身分によって大きさや外装、彩色文様や作法などが異なっていました。
しかしながら、朝廷から位階を授かった上流階級の武士を除いては、牛車に乗る資格がなかったため、次第に牛車の使用は減っていきます。
船
鎌倉から室町時代に入ると、本格的な武家社会に移行し、輸送能力に限界がある牛を使った陸上の交通よりも、一度に多くの荷物を早く運べる「船」を使った水上の交通が発達。
荷物や生産物を運送する場合は船、人を運ぶ場合は輿や騎馬などが使用されました。
輿の使用は、武家のうち守護、及び守護代のみ許され、騎馬も当時とても希少な乗物だったため、公家や武家の当主やその家老など、上級階級しか騎乗できなかったのです。
また、戦いの場では武将や指揮官となる大将などが騎乗していましたが、騎乗しながら戦うことは熟練した技術が必要となるため、実際に戦う際は下馬してから槍などで戦っていたと言われています。
安土桃山時代になると戦国時代に突入し、1595年(文禄4年)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が初めて乗物に関する決まりを制定しました。
豊臣秀吉の没後は「徳川家康」(とくがわいえやす)に引き継がれ、1615年(元和元年)の「武家諸法度」において、乗物の使用は公家・上級武士・神官・僧侶・学者に制限されるなど、地位階級や性別によって細かく制定。
そののち、1675年(延宝3年)に、町の辻(人が往来する道筋や街頭など)で待ち客を乗せる「辻駕籠」の使用が一部認められるようになると、庶民階層の人々も初めて乗物が使用できるようになり、人を乗せる乗物は駕籠、荷物を運ぶ場合は牛車や大八車、背に荷物を積んだ馬などが主流となったのです。
人が乗るこうした駕籠の中でも、大名家が利用するような豪華な駕籠は「乗物」と言い、とりわけ身分の高い女性に対しては特別に誂えたタイプが用意されることとなりました。これらは、使用する女性の身分や輿入れなどその目的によって、それぞれに顕著な特徴を備えています。
女乗物
女性が所用する駕籠は「女乗物」(おんなのりもの)、または「奥方乗物」(おくがたのりもの)と呼ばれていました。
男性の乗物は、漆塗りやビロード、千代紙を使用するなど落ち着いた内外装で、実用性を重視したつくりである一方、女性の女乗物は小ぶりで、外部は蒔絵や金工など時代の粋を集めて作られた豪華な装飾が施され、内部は源氏物語をモチーフとした装飾画や、めでたい花鳥画や松竹梅が描かれるなど、贅を尽くした仕様となっています。
女乗物は、主に婚礼行事に整える婚礼調度のひとつとして作られ、徳川家より松平の姓を与えられた大名家や徳川親藩への輿入れなど、身分の高い女性しか使用できず、その女性の身分によっても使用できる構造やデザインなども決められていました。女乗物の外装や内部の装飾画は、その所用者の身分や大名家の権威が表現されており、家格が高いほど豪華で華やかな装飾が施されています。
最上級の女乗物は、本体を黒漆塗りで仕上げ、金粉で家紋や唐草文様を散らした「黒漆金蒔絵女乗物」で、徳川家など格が高い大名家や将軍家の夫人が乗っていました。その中でも、黒漆塗りではなく金・銀粉と漆で全体の表面を果物の梨の皮のように表現した「梨子地」(なしじ)と呼ばれる技法を用いた女乗物は、「徳川御三家」(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)や御台所、将軍生母などの女乗物とされ、黒漆金蒔絵女乗物よりも別格的に扱われていたと言われています。
この他に、大名家の中でも小国の大名家や高禄の旗本家の夫人は、漆塗りではなく「天鵞絨巻女乗物」(びろーどまきおんなのりもの)に乗り、大国の大名家の女中などは「朱塗網代女乗物」(しゅぬりあじろおんなのりもの)、幕府の中位や大名家の上・中位の女中は「青漆塗女乗物」(せいしつぬりおんなのりもの)や「茣蓙巻女乗物」(ござまきおんなのりもの)を使用するなど、家格によって区分されていました。
女乗物
女乗物は、その管理の難しさから伝存事例が少なく、将軍や大名夫人に関する文献も少ないことから明らかになっていないことも多くありますが、ここでは女乗物の種類をご紹介します。
使用者 | 大名や将軍の奥方 |
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特 徴 | 全体に黒漆が塗られ、定紋や唐草などの蒔絵を施した乗物 |
使用者 | 徳川御三家の奥方、御台所、将軍生母など |
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特 徴 | 金・銀粉と漆で全体の表面を梨子地と呼ばれる技法を用いた乗物 |
使用者 | 小国の大名家や高禄の旗本家の夫人 |
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特 徴 | 全体にビロード(主に絹製)を張った乗物 |
使用者 | 大国の大名家の女中など |
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特 徴 | 全体を網代でつくり、朱漆塗りで仕上げた乗物 |
使用者 | 幕府の中位や大名家の上・中位の女中 |
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特 徴 | 全体に青漆を塗り(青光塗り)仕上げた乗物 |
使用者 | 1万石以下の中禄の旗本の奥方など |
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特 徴 | 全体を茣蓙で包んだ乗物 |
三重県桑名市にある「東建多度カントリークラブ・名古屋」で展示されている「黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物」(くろうるしぬりあおいもんつやまちらしまきえおんなのりもの)は、越前松平家(徳川家康の次男・松平秀康の家系)の分家となる「津山松平家」(徳川家康の次男・松平秀康の長男・松平忠直一族)より伝来した女乗物です。
御家門(ごかもん)筆頭である越前松平家11代藩主「松平治好」(まつだいらはるよし)と、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の孫にあたる「定姫」(さだひめ)の長子となる「箏姫」(そうひめ)が、津山松平家・美作津山7代目藩主「松平斎孝」(まつだいらなりたか)へ輿入れする際に作られた物と伝えられています。
<参考>
また、内部は全体を金箔で押し、その側面には菊など四季の植物、天井画には草花が描かれており、格式の高さが伺える豪華なつくりとなっています。