歴史上の人物と日本刀

中山博道の太刀 銘 森良近 昭和三年仲秋

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「夢想神伝流」(むそうしんでんりゅう)を創始した「中山博道」(なかやまひろみち/なかやまはくどう)は、様々な武道に通じ、史上初めて「剣道」、「居合道」、「杖術」(じょうじゅつ)の3つの範士の称号を授与された人物です。
道場以外にも、学校や警察、企業などにおいても師範を務め、「昭和の剣聖」、「最後の武芸家」と呼ばれました。
そんな中山博道が所有した刀剣・日本刀を作ったのが、刀工「森良近」(もりよしちか)です。中山博道は、なぜこの刀剣・日本刀と出逢い、愛刀としたのでしょうか。その理由をご紹介します。

最後の武芸家「中山博道」とは

中山博道

中山博道

中山博道(なかやまひろみち/なかやまはくどう)は、「昭和の剣聖」、「最後の武芸家」と言われた武道家です。

「剣聖」(けんせい)とは、剣術に優れた人のこと。しかし、剣聖だけでなく「武芸家」とも言われました。それは、なぜなのでしょうか。

中山博道は、1872年(明治5年)に旧加賀藩(現在の石川県金沢市)の祐筆役(ゆうひつやく:武家において秘書のような役割を担う者)であった「中山源之丞」(なかやまげんのじょう)の八男として誕生。

しかし、幼い頃に富山県富山市へ奉公に出されます。その地で「斎藤理則」(さいとうみちのり)に出会って「山口流剣術」を学び、目録(武術などを伝授した際に、その内容を記した書)を授かることとなるのです。これが、中山博道の武道家としての原点となりました。

上京した中山博道は、1890年(明治23年)に「有信館」(ゆうしんかん)に入門し、「根岸信五郎」(ねぎししんごろう)の弟子として「神道無念流」(しんどうむねんりゅう)を学びます。

小柄だった中山博道は、そのハンデを乗り越えるために稽古に奮励。その甲斐あって、30歳のときに免許皆伝(めんきょかいでん:その流派の奥義すべてを修得したこと)を受け、有信館の後継者となったのです。

そのあとも様々な流派において免許皆伝を受けた中山博道は、史上初となる偉業を成し遂げます。それは、「剣道」、「居合術」、「杖術」の3つの範士の称号を授与されたこと。これが、最後の武芸家とも呼ばれる所以であるとも言えるのです。そののち、有信館のみならず、企業や学校、警察などの師範を務めながら、多くの子弟を育てました。

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古武道の歴史や由来、主な各流派についてご紹介します。

中山博道は「夢想神伝流」の開祖となる

中山博道は、剣術において神道無念流の免許皆伝を受けたのち、杖術「神道夢想流杖術」を「内田良五郎」(うちだりょうごろう)に、居合術を「細川義昌」(ほそかわよしまさ)と「森本免久身」(もりもとめぐみ)に学びました。

細川義昌には「大森流」や「重信流」(林崎夢想流とも)を、森本免久身には「長谷川英信流」を学び、免許皆伝を受けるのです。そして、中山博道は研究や工夫を重ね、様々な流派を総合した夢想神伝流(むそうしんでんりゅう)を創始。

宮崎神宮

宮崎神宮

中山博道が夢想神伝流のもととなる「夢想神伝抜刀術」を称したのは、1939年(昭和14年)の宮崎神宮での演武ですが、夢想神伝流として呼ばれるようになったのは、中山博道の死後となります。

夢想神伝流は、数々の流派が合わさったものと言えますが、伝位(でんい:師匠から伝授される技能の段階や等級のこと)を観てみるとそれがよく分かります。

初伝(しょでん:最初の段階で伝授されるもの)は細川義昌から学んだ大森流、中伝(ちゅうでん:修行の中盤で伝授されるもの)は森本免久身から学んだ長谷川英信流、奥伝(おくでん:奥義を伝授されること)は細川義昌から学んだ重信流が軸となっているのです。

「無双直伝英信流」(むそうじきでんえいしんりゅう)と並び、現代も日本居合道連盟に所属している流派のひとつで、多くの門弟を抱えています。

森良近の日本刀とは

「森良近」(もりよしちか)は、「源良近」(みなもとのよしちか)とも名乗っていた大正から昭和時代にかけて活躍した刀工です。本名は「森久助」(もりひさすけ)。切れ味の良い独自の刀剣・日本刀を作っており、皇居を護衛する武官の刀剣・日本刀として採用されていたことで有名です。しかし、森良近の作刀ははじめから評価されていた訳ではありませんでした。

森良近の作刀は、従来の型にはまったものではなく、切れ味を追究した独自のもの。洋鋼を使い無垢鍛え(むくぎたえ:[一枚鍛え]とも言い、1種類の地鉄を伸ばして作っていた)を行なっていたため、周りからの目は冷ややかであったようです。そんな森良近の刀剣・日本刀が皇居護衛の武官刀となったのには、中山博道とのこんなエピソードがありました。

「五・一五事件」と呼ばれる1932年(昭和7年)5月15日に海軍青年将校らが、当時の首相であった犬養毅(いぬかいつよし)を射殺した事件が起こったことにより、皇居の武官に切れる刀剣・日本刀を持たせようという話が挙がります。

その際、島津公爵家から30数振の刀剣・日本刀が寄贈され、元侍従武官「小山田繁蔵」(こやまだしげぞう)海軍中将などが立会いのもと試し切りが行なわれたのですが、よく切れる刀剣・日本刀はほんの数本しかなかったのです。この試し斬りを行なったのが、中山博道。このよく切れた刀剣・日本刀の中で、薦めた物こそが、森良近でした。

しかし、森良近は洋鋼を使っているという理由から、なかなか了承して貰えません。それでも中山博道が頑なに薦めるので、中将は仕方なく「豚」で試し斬りをさせました。このときの切れ味があまりにも良かったため、即座に森良近の刀剣・日本刀が採用されることとなったのです。

それ以来、森良近は皇居護衛の武官専属の刀工となり、高く評価されることとなりました。

中山博道が所持した「太刀 銘 森良近 昭和三年仲秋」とは

太刀は、中山博道の愛刀と言われる1振です。森良近の作刀は、優れた切れ味を持っていることで有名。

小板目詰んで無地風となり、これは同じく洋鉄鍛えで作刀した「羽山円真」(はやまえんしん)と同様の出来口であり、洋鉄を混ぜ合わせて作刀したからと考えられています。鋒/切先(きっさき)が小さく、反りが深く、実戦的な体配なのも魅力です。

刀 銘 森良近 昭和三年仲秋
刀 銘 森良近 昭和三年仲秋
森良近 昭和三年仲秋
鑑定区分
保存刀剣
刃長
63.8
所蔵・伝来
夢想神伝流開祖:
中山博道の愛刀 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

中山博道の太刀 銘 森良近 昭和三年仲秋

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