歴史上の人物と日本刀
立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊
歴史上の人物と日本刀
立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊

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「刀 無銘 伝二字国俊」(重要美術品)は、柳川藩(やながわはん:現在の福岡県柳川地方)藩主「立花宗茂」(たちばなむねしげ)が所持したとされる名刀です。立花宗茂は、歴史好きの間では非常に人気の高い武将。「関ヶ原の戦い」では西軍に付き、一度は改易されたにもかかわらず、そののち大名として復帰したことはよく知られています。
作刀したのは、山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)の刀工「国俊」。山城伝を代表する来派(らいは)に属し、来を冠する「来国俊」と「国俊」のみの二字銘が現存します。ここでは、立花宗茂について述べると共に、国俊や来派、山城伝についても解説していきます。

豊臣秀吉に愛された立花宗茂

立花宗茂

立花宗茂

立花宗茂」(たちばなむねしげ)は、義に厚いことで知られる人気の武将です。

人気歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」で知られる、株式会社コーエーテクモゲームスが、2018年(平成30年)12月の新作発売に合わせて、アンケート「ドラマで見たい戦国武将」を行なったところ、見事1位の座を射止めたのが、立花宗茂でした。

立花宗茂は、九州北部の大名・大友氏の重臣「高橋紹運」(たかはしじょううん)の嫡男として生まれましたが、同じく大友氏の重臣「立花道雪」(たちばなどうせつ)の養子となった人物です。

1586年(天正14年)九州平定を掲げて、島津軍が北九州へ侵攻。島津軍の強さに恐れをなして北九州のほとんどの豪族が島津方につく中、立花宗茂と実父である高橋紹運は、島津軍と果敢に戦いました。

しかし、奮闘虚しく、高橋紹運は岩屋城で戦死してしまいます。そこへ「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)率いる大軍が登場したため島津軍は退却し、大友軍は窮地を救われました。そののち、豊臣秀吉の九州平定でも立花宗茂は大活躍します。

結果、立花宗茂には柳川13万2,000石が与えられ、大友氏から大名として独立。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を非常に褒めたたえ、立花宗茂を非常に可愛がるようになったのです。この「刀 無銘 伝二字国俊」は、豊臣秀吉より立花宗茂に下賜されたと伝えられています。

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西軍として戦った関ヶ原

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

そんな立花宗茂の運命が激変するのは、豊臣秀吉の死後。天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の戦い」においてです。

豊臣秀吉の遺児「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を掲げた「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍と、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍の戦いで、立花宗茂は迷わず西軍に味方します。

天下人・豊臣秀吉に恩義を受けた武将でも、すでに勢力が大きかった徳川方に付いた者も多く、石田三成勢は敗色濃厚でした。単純に豊臣家を見限った者以外にも、石田三成の野心に豊臣家が利用されることを良しとせずに、徳川方についた者もいたのです。

立花宗茂は、豊臣秀吉への恩義を忘れませんでした。そのため、豊臣秀頼を掲げる西軍を「豊臣軍」として、豊臣秀吉への恩義に報いるのは当然と考えたのです。この立花宗茂の義に厚い生き方は、生涯貫かれました。後世の私達が立花宗茂に惹かれるのは、こういったところなのでしょう。

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改易後の華麗な復帰・再び柳川城主へ

加藤清正

加藤清正

そののち、立花家は改易となってしまいます。しかし、立花宗茂のことを、天は決して見放しはしませんでした。

お隣の肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)の熊本藩主で築城の天才として名高い「加藤清正」(かとうきよまさ)も、立花宗茂の器量を惜しんだひとりです。

加藤清正は、立花宗茂を家臣にと望みますが、それが叶わないとなっても、領土を失った立花宗茂を、大勢の家臣ごと自分の領地に招待しました。しかし、立花宗茂は加藤清正の厚意に甘え続けることができず、わずかな家臣を連れて浪人となります。

そんな立花宗茂の潔い生き様を見ていたのが、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)でした。徳川秀忠は立花宗茂を許し、陸奥国棚倉(むつのくにたなぐら:現在の福島県東白川郡棚倉町)の1万石の大名に取り立てます。

そして、立花宗茂には運も味方しました。立花家の改易後、柳川藩は関ヶ原の戦いで戦功を挙げた「田中吉政」(たなかよしまさ)が藩主となります。しかし、あとを継いだ「田中忠政」(たなかただまさ)には子どもがなく、田中家は断絶となってしまうのです。

そこで立花宗茂が旧領である柳川藩に移封されることになりました。立花宗茂は加藤清正のもとに預けられていた旧家臣達を呼び寄せ、柳川藩の立花家初代藩主となります。

改易後に大名として復帰した例はありますが、立花宗茂のように、旧領に返り咲いた例は他にはなく、それだけ、立花宗茂の人柄や才能を惜しむ声が多かったということでしょう。

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正室・立花誾千代との不仲説の謎

立花宗茂ほど家臣に愛された主君は、なかなかいません。加藤清正が自分の領地に招いた際にも、家臣達は他家の家臣になることなく、立花宗茂について来ることを選び、立花宗茂が柳川藩主となって復帰するまで待ち続けました。

また、立花宗茂が浪人となった際も、供の家臣達が物乞いなどをしてまで立花宗茂を支え続けたとされています。そんな立花宗茂と家臣達の姿が、2代将軍の心をも打ったのです。

また、改易された立花宗茂が柳川を去る際には、領民達までが泣いて引き留めた逸話も伝わっています。

立花誾千代

立花誾千代

そんな立花宗茂ですが、なぜか夫婦仲と言う点では、謎に包まれているのです。立花宗茂は3度結婚していますが、生涯を通じて実子には恵まれませんでした。

最初の妻「立花誾千代」(たちばなぎんちよ)は、「男勝りの女城主」として知られる女性。

立花誾千代の父・立花道雪は、嫡男に恵まれなかったため、7歳の立花誾千代に家督を継がせてしまいます。

男子に恵まれないなら、娘をたくましく育てれば良い、と立花道雪は考えたのでしょう。7歳で「女城主」となった立花誾千代は勇ましく、今風に言えば「男前」な女性に成長。

そんな立花誾千代と立花宗茂は相性が悪かったのか、不仲だったと言われています。立花宗茂が豊臣秀吉より柳川に領地を与えられると、2人は住み慣れた立花城を出て柳川へ。しかし、立花誾千代は柳川城を出て、宮永村(現在の福岡県柳川市)に居を構えます。つまり、ここで別居してしまうのです。

しかし、立花宗茂が関ヶ原の戦いから戻った際には立花誾千代は出迎えたと言われますし、浪人となった立花宗茂の再起を願って、毎日寺社参りを欠かさなかったという話も伝わります。なお立花誾千代は、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)に、34歳の若さで亡くなってしまいました。

大名復帰を果たして柳川に戻った立花宗茂が最初に行なったのが、立花誾千代の菩提寺を建てることだったと言われます。こうした話から、2人が不仲だったとする説も、仲睦まじかったとする説もあり、本当のところは分かっていません。

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二字国俊と来国俊は同一人物か?

刀 無銘 伝二字国俊を作刀したのは、鎌倉時代の刀工で、山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)来派(らいは)の代表とされる「国俊」です。来派は、鎌倉時代中期の「国吉」を祖とすると考えられてきましたが、国吉の作刀が見られないことから、現在では「国行」を祖とする説が主流となっています。

国俊は、国俊と二字の銘を切る物と、来を冠した「来国俊」の三字銘があり、同一人物説と、別人説の両方で共様々な見解があります。二字銘と三字銘の同時代の日本刀(刀剣)が現存することが、同人説の根拠ですが、両者の作風が違いすぎるため、議論のもととなって来ました。鑑定家として名高い本阿弥家(ほんあみけ)では、二字国俊を父、来国俊を子とし、別々の折紙を発行しています。

作風の違いは、二字国俊が身幅広く豪壮で、(にえ)が強く、互の目(ぐのめ)、丁子など乱れ刃が交じる華やかなのに対して、来国俊は身幅細身で、直刃(すぐは)が基調の穏やかな刃文を焼く物が多いとされています。

刀 無銘 伝二字国俊の特徴

刀 無銘 伝二字国俊は、鍛えよく、地刃の沸強く、互の目に(あし)や(よう)が盛んに入った華やかな1振で、重要美術品に指定されています。

刀 無銘 伝二字国俊
刀 無銘 伝二字国俊
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
71.6
所蔵・伝来
豊臣秀吉 →
立花宗茂 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊

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短刀 来国光と塩河国満・本多忠政

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