名家に代々伝えられた日本刀

谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光

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本薙刀の制作者は、備前長船の刀匠であり、「最上大業物鍛冶師」(さいじょうおおわざものかじし)と称えられる「長船秀光」(おさふねひでみつ)。南北朝時代に小反り物(こぞりもの)の代表的な刀工として活動していました。
小反り物とは、長船鍛冶の嫡流(ちゃくりゅう:正統の流派)の「兼光」(かねみつ)や、傍系の「元重」(もとしげ)、「長義」(ながよし/ちょうぎ)に属さない刀工郡のこと。そんな刀鍛冶の手による、特別保存刀剣の薙刀、無銘 長船秀光は「谷家」(たにけ)に伝来しました。
ここでは、「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)にかかわりのある谷家の歴史や経歴をご紹介するのに合わせて、薙刀 無銘 長船秀光の歴史や特徴もご説明していきます。

谷家に伝来した、長船秀光の特別保存刀剣「薙刀 無銘 長船秀光」

「最上大業物鍛冶師」(さいじょうおおわざものかじし)である「長船秀光」(おさふねひでみつ)は、重要文化財となりうる太刀を数多く制作しましたが、特別保存刀剣「薙刀 無銘 長船秀光」のような、無銘薙刀を作った経歴もあります。

本薙刀は、「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に関係の深い、「谷家」(たにけ)によって伝えられました。谷家は、戦国時代の度重なる戦いにおいて、多くの武功を挙げたとされる家系で、13代に亘って名を継ぎ、最終的には1万6,000石を領有したのです。

日本の氏族・谷家とは

谷家の家紋「揚羽蝶紋」

谷家の家紋「揚羽蝶紋」

戦国時代に活躍した谷家は、「宇多源氏佐々木氏」(うたげんじささきし)の流れを汲み、のちに谷家の祖となる「谷大膳亮衛好」(たにだいぜんのすけもりよし)は、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の「浅井亮政」(あざいすけまさ)配下の伯父「谷野綱衛」(やのつなもり)の養子となります。

成長した谷大膳亮衛好は、はじめに「斎藤道三」(さいとうどうさん)に仕え、美濃斎藤氏が滅んだのちは、織田信長に仕えました。

1576年(天正4年)には石山本願寺の門徒らを攻めた「石山合戦」で武功を現し、手柄を褒めた書き付けでもある「感状」(かんじょう)を織田信長より貰うこととなります。

手紙には、「於木津難波表相働首五到来感悦候 弥向後可抽戦功候也 五月廿三日 谷野大膳どのへ」と記されていました。

「大膳」(だいぜん)とは、大膳大夫(だいぜんのだいぶ:役職名のひとつ)のことで、織田信長に仕えていた当時は、まだ養父の姓である「谷野」(やの)の名前を使っていたことが分かります。

谷大膳亮衛好はまた、日本刀の性能を見極める 「試刀術」(しとうじゅつ)の開祖でもありました。試し斬りの名手として有名な「山野加右衛門」(やまのかえもん)、「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)、「中川左平太」(なかがわさへいた)は、谷大膳亮衛好が編み出した「谷流試刀流」の弟子達です。

13代続いた谷家は豊臣秀吉とのかかわりもあった

豊臣秀吉の部隊に所属して戦っていた谷大膳亮衛好でしたが、「中国合戦」としても有名な「播磨征伐」(はりませいばつ)にて敵に砦を破られ、討ち死にしました。谷大膳亮衛好の子である「谷衛友」(たにもりとも)は、父が亡くなったと聞くや否や、すぐに敵を討って首を取り、父の遺体も奪い返したと言われています。

三木城跡

三木城跡

豊臣秀吉がいた「三木城」と、谷大膳亮衛好がいた「賀伏城」の砦は数百メートルの距離しかなかったので、豊臣秀吉は忠義のために死んだとされる谷大膳亮衛好を酷く憐れみました。

そして、豊臣秀吉は賀伏城の山中に谷大膳亮衛好を埋葬し、1本の松を植えてその場にお墓を作ったとされています。

また、豊臣秀吉は谷衛友の功績を認め、父・谷大膳亮衛好の本領6,000石に加えて、新恩(しんおん:新しい褒美)の地となる場所2ヵ所を与えました。

谷大膳亮衛好の子・谷衛友は大名に出世

谷衛友

谷衛友

谷衛友は父・谷大膳亮衛好が亡くなったあとも戦果を上げ続け、「賤ヶ岳の戦い」、「小牧・長久手の戦い」、「千石堀・積善寺の戦い」(せんごくぼり・しゃくぜんじのたたかい)などで首級(しゅきゅう:討ち取った敵の首)を挙げる武功を残します。

他にも、1587年(天正15年)の九州征伐においては、「岩石城攻め」の際に、名を挙げたことで有名になり、翌年の1588年(天正16年)には、「従五位下出羽守」(じゅごいげでわのかみ)に就任。1590年(天正18年)には「小田原の役」においてさらなる武功を挙げています。

丹波国何鹿郡(たんばのくにいかるがぐん:現在の京都府)において1万6,000石を領した谷衛友は、丹波山家を拠点地としました。江戸幕府豊臣家の間で起こった「大坂冬の陣・夏の陣」にも参戦し、「御夜話の衆」(おんやわのしゅう:主人の側に仕えて話し相手になる役目)に加わったとされています。

最上大業物鍛冶師・長船秀光を生んだ長船派

谷家に伝来した薙刀の制作者、長船秀光とはどのような人物だったのでしょうか。長船秀光が所属していたと言う長船派や、長船秀光自身の歴史についてご紹介します。

長船派は、鎌倉時代後期以降に興った刀工集団です。「光忠」(みつただ)を実質的な祖として、備前国邑久郡長船(びぜんのくにおくぐんおさふね:現在の岡山県瀬戸内市長船町)を拠点に活躍していました。

長きに亘り有名な刀工を生み出してきた長船派。しかし、時代の変化と共に急増する日本刀の需要に応えていくために刀工も増え続け、「鍛冶屋千軒、打つ槌の音に西の大名が駕籠止める」と言われるほどになりました。

その結果、大量生産や既製品として受ける注文は、数が最優先で作られるようになり、作品に手が抜かれるなどの事象が起こり、徐々に長船派は衰退してしまいます。

さらに、洪水が起こったことによって長船派は多大なるダメージを受け、1573年(天正元年)頃には壊滅状態となりました。

長船鍛冶における長船秀光とは

長船秀光は、「右衛門尉」(うえもんのじょう)とも呼ばれ、南北朝時代末期に個人工房で作刀していた小反り物(小反り一派)の代表的刀工であり、最上大業物鍛冶師として知られています。「最上大業物」とは、日本刀の最上級品。

小反り一派は、長船秀光を筆頭に、「家光」(いえみつ)、「包光」(かねみつ)、「師光」(もろみつ)、「則光」(のりみつ)などが所属していました。また長船秀光は、同銘が4代に亘って続いており、初代は1334年(建武元年)頃で、それ以降、1368年(応安元年)頃、1384年(至徳元年)頃、1394年(応永元年)頃と続きます。

長船秀光の作風は、備前伝相州伝の特徴を取り入れた相伝備前。刃文は乱れ、まれに刀身全体に焼きが入る皆焼(ひたつら)などがあり、華やかであると伝えられています。

長船秀光が鍛えた「薙刀」の特徴

本薙刀の姿は、「静形薙刀」(しずかがたなぎなた)です。静形薙刀とは、「源義経」の側室「静御前」(しずかごぜん)が使ったとされる薙刀と同じ形の薙刀のこと。

その地鉄(じがね)は、板目に杢目(もくめ)と流れごころが交じっています。やや肌立ち、小互の目乱れ(こぐのめみだれ)に角がかった刃、尖りごころの刃、腰開きの互の目などが交じっているのも特徴的です。

わずかに小(よう)入り、匂口(においぐち)締りごころがあるところは、長船秀光に限らず小反り物に共通するできと言えます。

薙刀 無銘 長船秀光
薙刀 無銘 長船秀光
無銘
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
58.2
所蔵・伝来
谷家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光

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