歴史上の人物と日本刀

十市遠忠伝来の短刀 備前長船祐定

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「十市遠忠」(とおちとおただ)は、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)を治めた戦国武将で、「十市城」(といちじょう)、龍王山城(りゅうおうざんじょう)の城主。武術はもちろん和歌にも通じ、「十市遠忠詠草」(とおちとおただえいそう)などの歌集も多数残しました。
そんな十市遠忠が所持していたのは、「短刀 銘 備州長船祐定 明応七年八月日」。この短刀を所持した十市遠忠が、どのような人生を歩んでいったのかをご紹介します。

十市家は興福寺が任命した荘司

興福寺

興福寺

「十市遠忠」(とおちとおただ)は、武術刀術戦略に優れ、「十市遠忠百首」や「十市遠忠詠草」(とおちとおただえいそう)などの歌集を多く残した文武両道の武将。

十市遠忠の祖先は、現在の奈良県橿原市十市町付近に住んでいた、土着の豪族の十市氏。

興福寺」(こうふくじ:現在の奈良県奈良市)による統制のもと、代々荘園を経営する荘司の一族でした。

興福寺とは、「東大寺」(とうだいじ)、「法隆寺」(ほうりゅうじ)などと共に、「南都七大寺」(なんとしちだいじ)に数えられる法相宗(ほっそうしゅう)の大本山。鎌倉時代以降は、武家が守護職に就き、領内の治安を維持するスタイルが主流でしたが、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)の場合は守護職が武家ではなく、寺社である興福寺だったのです。興福寺は、大和国最大の荘園領主で、実質的にはお寺が大和国の治安維持を担っていました。

興福寺は、豪族などの有力者に僧侶の資格を与え、興福寺を大和国のトップとしました。お寺が守護職に就いた理由は、多額の寄進が貰えるメリットがあるため。そのようなことから、興福寺はこの統治システムを維持します。

しかし、興福寺が大和国全領土を統治する訳ではありません。大和国を細分化して荘園とし、各荘園の有力者を荘園経営の責任者(荘司)として、合理的に治めさせました。その大和国の有力者のひとつがこの十市氏だったのです。

一向一揆を制圧

応仁の乱

応仁の乱

十市氏は、南北朝時代に南朝側の勢力として参戦し、15世紀の「応仁の乱」を生き抜きました。

戦国時代には、十市家中興の祖(ちゅうこうのそ)と言われる十市遠忠が「大和四家」に数えられ、最盛期を迎えます。

大和四家とは、「筒井氏」、「越智氏」(おちし)、十市氏、「箸尾氏」(はしおし)からなる大和国内の有力派閥。ここに有力な「古市氏」(ふるいちし)を加え、「大和国五大豪族」と呼ぶこともあります。

1532年(天文元年)、「大和の一向一揆」が起きました。大和国を治める興福寺(法相宗)に一向宗(いっこうしゅう:浄土真宗)が攻めてきたのです。一向宗は、興福寺に火を放ち、「大和四家」のひとつ、「越智家秀」(おちいえひで)が住む高取城(たかとりじょう)を強襲します。しかし、十市遠忠と筒井氏の獅子奮迅の活躍で、一向宗は壊滅して面目を失墜。このように十市遠忠は、宗徒によるクーデターも鎮圧した凄腕の経歴の持ち主なのです。

十市氏の繁栄と衰退

十市遠忠

十市遠忠

十市遠忠は、本拠地とした十市町付近から、現在の奈良県桜井市天理市、磯城郡田原本町まで支配圏を拡大。

この一帯を「十市郷」と呼び、十市遠忠は推定6万石を領しました。この石高は大名に相当する領土。

現在の十市集落北部には、十市氏が室町時代に築き、十市遠忠が居住していた「十市城」(といちじょう)とみられる巨大な平城跡が遺されています。

また十市遠忠は、天文年間(1532~1555年)に大和一の巨大な山城「竜王山城」(りゅうおうざんじょう)を築きました。この竜王山城は、奈良盆地からの比高が約485メートルあり、北城と南城に分かれた城域は広大。北城が本城(本丸)であり、南城が詰めの城(支城)とされています。

これだけの広大な領地を持ち、巨大な城を構えていたのにもかかわらず、動員できる兵力はわずか数百騎でした。そのため、大和を攻めた戦国武将「三好長慶」(みよしながよし)らの大軍勢に翻弄されてしまいます。

そののち、1545年(天文14年)に十市遠忠が49歳で死去すると、十市氏は衰退し、残った一族は筒井氏に就きました。しかし、1576年(天正4年)に、「筒井順慶」(つついじゅんけい)と、あとから入国してきた「松永久秀」(まつながひさひで)の間で争いが勃発。竜王山城は、松永久秀の物となるのです。

ところが、松永久秀は「織田信長」(おだのぶなが)に背いて謀反を起こし、自害。竜王山城は織田信長の命令により、1578年(天正6年)に廃城となりました。

十市遠忠 辞世の句
足引の山ほととぎすさよふけて 月よりおつる一声の空

備前長船祐定は中世から近世の刀剣ブランド

室町時代中期から後期にかけて発展した備前長船(びぜんおさふね:現在の岡山県)で制作された日本刀を総称して「末備前」(すえびぜん)と呼びます。末備前のなかでも、最も繁栄をみせたのが、「備前長船祐定」(びぜんおさふねすけさだ)。

「備州長船祐定」(びしゅうおさふねすけさだ)は備前長船祐定と同様で祐定の作を表し、祐定銘は工房制作のブランド名と言える物で多数の刀工が名乗っており、70余名を数えますが、その中でも「与三左衛門尉祐定」(よそざえもんのじょうすけさだ)、「彦兵衛尉祐定」(ひこべえのじょうすけさだ)、「源兵衛尉祐定」(げんべえのじょうすけさだ)の3人が特に著名です。

備前長船祐定は、中世から近世の刀剣ブランドの中でも比較的実戦向きで、非常に使いやすい日本刀とされています。

短刀「備州長船祐定 明応七年八月日」の特徴

短刀は、十市遠忠が所持したと伝わる、「両刃造」(もろはづくり)の1振。両刃とは、(しのぎ)を境に両側に刃が付いている、実戦向きの日本刀のこと。両側が刃であるため、振り上げた拍子に自身も傷つく恐れがある一方で、攻撃性に優れており、その攻撃性は「鎧通し」(よろいどおし)と呼ばれ、鎧を貫く貫通力もかね備えていました。

地鉄(じがね)は小板目肌で美しく、「蟹の爪」と呼ばれる、蟹が爪を広げているような華やかな刃文が特徴的。

備州長船祐定 明応七年八月日は、祐定の中でも特に上手と言われる彦兵衛尉祐定、または与三衛門尉祐定のどちらかが制作した日本刀だと考えられています。

鎧通 銘 備州長船祐定 明応七年八月日
鎧通 銘 備州長船祐定 明応七年八月日
備州長船祐定
明応七年
八月日
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
21.5
所蔵・伝来
十市遠忠→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

十市遠忠伝来の短刀 備前長船祐定

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