名家に代々伝えられた日本刀

能勢氏伝来の日本刀 丹後守兼道

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「能勢氏」(のせし)の始まりは平安時代後期。以来、摂津国能勢郡(せっつのくにのせぐん:現在の大阪府)に領地を置きますが、「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に相次いで攻め込まれ、領地を失うこととなります。そののち、日蓮宗の寺に逃げ延び、いつか能勢氏を再興することを願い続けた結果、「徳川家康」(とくがわいえやす)の時代にその願いを叶えることになるのです。一度は一族の危機にもさらされた能勢氏がどのように再興していったのか、歴史を紐解いてみました。

キリスト教から日蓮宗へ改宗した能勢氏

「能勢氏」(のせし)は、キリシタンであったとも言われ、家紋の中にも十字架をデザインしている物があります。隣接する領地にキリシタン大名として知られる、「高山右近」(たかやまうこん)がいたことも、能勢地域にキリシタンが多かった理由のひとつ。また、能勢氏伝来の日本刀「丹後守兼道」(たんごのかみかねみち)にも、能勢氏がキリシタンであったことを感じさせる家紋が刻まれています。時代の流れに合わせて様々な要素をかね備えた刀で、能勢氏の注文によって作られた立派な作品。

キリシタンであった能勢氏は、のちに日蓮宗へ改宗。日蓮宗の霊場(信仰の対象となる神聖な場所)である能勢妙見山(のせみょうけんさん)の入口には、「能勢頼次」(のせよりつぐ)の銅像があり、能勢氏と日蓮宗の関係性を知ることができます。

キリシタンであった能勢氏が日蓮宗の僧に帰依し、その教えを広めていくことになったのには、領地を奪われ遠い地に逃げ延びた能勢氏が、「法華経」(ほけきょう)を唱えて辛い時期を乗り越え、再興を叶えた背景があるのです。能勢氏は時代の波に翻弄されながらも、能勢地域に日蓮宗=能勢法華を成立させました。

  • 能勢妙見山

    能勢妙見山

  • 能勢頼次公銅像

    能勢頼次公銅像

能勢氏の家紋は十字架をデザインしている?

能勢家の家紋「切竹矢筈十字」

能勢家の家紋「切竹矢筈十字」

能勢氏の家紋は、「獅子に牡丹」や「丸に十二目結」(まるにじゅうにめゆい)など複数存在しますが、そのなかでも代表的なのが「切竹矢筈十字」(きりたけやはずじゅうじ)です。

この家紋は、キリシタンであった能勢氏にふさわしく、十字架をデザインしたとも言われています。

しかし、キリスト教が禁止されたのと同時期に、能勢氏は日蓮宗に改宗しました。

このとき、領主の能勢頼次は、能勢一帯の神社仏閣も改宗させたのです。

キリスト教が禁止された時期と重なったため、能勢頼次がキリスト教を弾圧したと思われがちですが、実際はそうではありません。改宗の理由は、妙見山への信仰が厚かったことにあります。ただ、領民に対する改宗が強制的であったため、現在も「能勢のいやいや法華」という言葉が残されているほどです。

本能寺の変により追い詰められた能勢氏

能勢氏は、「源頼光」(みなもとのよりみつ)の玄孫(やしゃご)である「源国基」(みなもとのくにもと)が摂津国能勢郡を領地としたことが始まりと伝えられています。

戦国時代、「織田信長」(おだのぶなが)は京へ勢力を広げるため、「能勢頼通」(のせよりみち)を従わせようとしました。しかし、足利家に仕えてきた能勢氏はこれを断ります。それにより、織田信長の命で攻めてきた塩川勢によって能勢頼通は討ち取られ、能勢地域は攻め込まれてしまいます。急遽(きゅうきょ)、後継ぎとなった能勢頼次が戦いますが、居城を落とされ、妙見山に逃げ込むこととなりました。

本能寺の変

本能寺の変

悲劇はこれだけでは終わりません。有名な「本能寺の変」の際に、能勢氏は「明智光秀」(あけちみつひで)の味方として出兵します。

それは隣接する亀岡が、織田信長を討った明智光秀の拠点であり、以前から親しい仲であったためです。

しかし、明智光秀は敗れ、能勢氏は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)により攻め込まれます。

そして、能勢の神社仏閣も焼き払われてしまうのです。能勢頼次は命を投げ出そうともしましたが老臣達に止められ、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)へと落ち延びることとなります。

能勢氏を再興に導いた「関ヶ原の戦い」

「三宅助十郎」と名前を変えて逃げていた能勢頼次は、備前国の妙勝寺(みょうしょうじ)に滞在。ここで能勢氏の再興を願い、法華経を唱え続けていました。その間にも豊臣方に接触を図り、本領である能勢の回復を試みましたが、上手くはいかなかったのです。

やがて豊臣秀吉が没し、「徳川家康」(とくがわいえやす)の時代となった際に、能勢氏再興のきっかけとなるできごとが起こります。

1599年(慶長4年)に、上洛(じょうらく:京都に行くこと)した徳川家康が京都の実相寺で休息を取りました。実はこの寺の住職は能勢頼次の弟であり、この住職が兄の能勢頼次のことを徳川家康に話します。それがきっかけで能勢頼次は徳川家康に召し抱えられ、「関ヶ原の戦い」で大きな功績を残すのです。そして、ようやく旧領である能勢を安堵(あんど:土地の所有を承認されること)されることとなり、能勢氏の再興を果たしました。

妙勝寺で願った再興が叶ったことで、能勢頼次は仏への感謝の念を膨らませます。法華経への信仰を深めるため、日蓮宗総本山である寺の僧、「日乾上人」(にっけんしょうにん)の説法を聞きました。そして、上人に帰依(きえ:神や仏にすがること)すると、広大な屋敷を寄進。能勢地域に日蓮宗を広め、能勢法華が成立しました。

能勢氏伝来の刀 丹後守兼道とは

丹後守兼道とは、能勢氏に伝来する日本刀です。(こしらえ:や鍔など、外装の総称)には、家紋である切竹矢筈十字がデザインされています。また、青貝塗り(あおがいぬり:青貝を装飾素材とした物)や一作金物(一揃いで作られている金物のこと)なども、能勢氏が注文して作らせました。

また、本刀の拵は「半太刀拵」(はんだちごしらえ)と呼ばれ、太刀(たち)から打刀(うちがたな)への移行期の形と言われています。簡単に説明すると、太刀は刃を下にして収める様式で、打刀は刃を上にして収める様式です。そのどちらの要素もかね備えた日本刀でもあり、金具の有無や付ける位置も様々でした。時代の流れによって生まれた特殊な刀と言えます。

本刀の、身幅は刀身全体がたっぷりとして、地鉄(じがね)は板目詰んで地沸(じにえ)付く、粘り強い鉄です。刃文は、濤瀾風(とうらんふう)の大互の目乱れ(おおぐのめみだれ)。濤瀾風とは、江戸時代前期の刀工2代「津田助広」(つだすけひろ)が創始した刃文で、うねりのある波模様に、「」(たま)と呼ばれる刃のから離れた円形の働き(はたらき:刃中に見られる変化)があります。また、「匂い」(におい)と呼ばれる肉眼で見えない程度の粒子が白い霞のように見え、明るく冴えた刃文です。2代兼道の作品のなかで、最もでき栄えが良いとされる傑作となっています。

刀 銘 丹後守兼道
刀 銘 丹後守兼道
丹後守兼道
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
71.1
所蔵・伝来
能勢家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

能勢氏伝来の日本刀 丹後守兼道

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